第74章:情報屋の足跡、泥の奈落
滴り落ちる不浄な水滴が、額を濡らすたびに、頭の芯を突き刺すような痛みが走る。
そこは、アル・ザハブの頑丈な砂岩を削り出して作られた、日の光が一切届かない地下牢の底だった。
頭上に吊るされた魔導灯が、不気味に揺らめきながら、辺りを禍々(まがまが)しい赤色に染め上げている。その薄赤く淀んだ光は、水路の汚れた泥に反射し、まるで怪物の眼球のように不気味に瞬いていた。
立ち込めているのは、じっとりとした生暖かい湿気と、錆びた鉄、そして石壁の煤や古い油の交じり合う不快な臭気。息を吸い込むだけで肺の奥が熱く痛み、喉は引き裂かれそうなほどに渇いていた。
「おい、いつまで黙っているつもりだ。その細い首をへし折られたくなければ、さっさと吐け」
頭上から、濁った声が降ってきた。
声を上げたのは、魔将ガルヴァスの配下である、鋼鉄の鎧を纏った大柄な尋問官だった。彼のまとう黒鉄の装備が擦れ合うたびに、耳障りな金属音が、地下の閉ざされた空間に反響する。
アズラは、頑丈な石柱に黒い鎖で両腕を縛り付けられたまま、ぐったりと頭を垂れていた。衣服はあちこちが引き裂かれ、露出した白い肌には、容赦なき鞭の痕や、焼きごてを押し当てられた痕が生々しく赤黒く腫れ上がっている。
全身の細胞がきしむような激しい苦痛が、彼女の細い肉体を絶え間なく苛み、呼吸をするたびに、肋骨の折れた痛みが肺を突き刺した。指先はすでに感覚を失い、ただ、手首を縛る鎖の食い込む痛さだけが、辛うじて彼女の意識を現実へと繋ぎ止めている。
「……は、はっ……」
アズラは、弱々しく息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
乱れた栗色の髪の間から覗くその瞳は、苦痛でひどく曇っていたが、その奥にある光だけは、決して消え去ってはいなかった。
尋問官が彼女の顎を、泥のついた革手袋で乱暴に掴み上げ、強引に視線を合わせる。
「レジスタンス……スルタンの妹であるファティマたちの隠れ家はどこだ。それに、この国に眠るという、第三の楔のありかを言え。……お前のような旅芸人の生き残りの娘が、それを一人で抱え込んでどうするつもりだ。我が主ガルヴァス様、いや、ルシオン様にその場所を捧げれば、今すぐにでもここから出して、金貨の山を恵んでやるぞ」
尋問官の言葉には、あからさまに見下すような響きが混ざっていた。彼らにとって、アズラはただの「情報を吐き出すための道具」に過ぎず、その価値など、道端に転がる乾いた小石と同義だった。
「……断る……」
アズラは、喉の奥から這い出すような掠れた声で、拒絶の言葉を紡いだ。
そして、口の中に溜まった血の混じった唾を、尋問官の汚れた革の胸当てへと、振り絞った力で吐き捨てた。
「なっ……この、小賢しい娘が!」
激昂した尋問官が、手にした革の鞭を力任せに振り下ろした。
ピシィィィンッ! と、乾いた激しい音が地下室に響き渡り、アズラの細い肩の皮膚が新たに引き裂かれ、鮮血が噴き出す。
「あ、が……っ!」
あまりの痛みに彼女の身体が大きくのけぞり、鎖がジャラジャラと激しい金属音を立ててきしんだが、彼女はそれ以上、彼らが期待するような悲鳴を上げることはしなかった。
ただ耐えるために奥歯を噛み締め、唇の端から一筋の血を滴らせながら、じっと耐えていた。
その瞳は、強い光を宿したまま、目の前の男を真っ直ぐに睨み返し続けた。
どれほど肉体を痛めつけられようとも、どれほど恐怖を植え付けられようとも、彼女の胸の奥で決して消えることはない。
あの幼き日、夕陽に赤く輝いていた美しいオアシスが、八ヵ国連合の非情な強襲によって一瞬にして赤黒い炎と黒煙に包まれ、最愛の両親や一座の仲間たちが、目の前で容赦なく奪われていったあの地獄。一座の馬車が激しい炎に包まれ、灰色の煙があたりを包み、人々の叫びが響き渡る中、彼女の父親も、母親も、ただ襲いかかる刃から家族や一座の仲間を守ろうとしただけで容赦なく奪われた。その惨劇をもたらした張本人であるガルヴァス。そして、それを裏で操っていた連合の役人たち。
彼らに対する、消えることのない憎しみと復讐の炎こそが、今の彼女を支える唯一の、そして決して折れることのない魂の拠り所だったのだ。
「……私の……魂までは、お前たちのその汚れた手では、絶対に奪えないわ……」
アズラは、激しく息を吐きながら、不敵に笑って見せた。
その強靭な瞳の光に、尋問官は一瞬怯み、忌々しげに顔を歪めた。
「ふん、強情な奴め。……今日の尋問はここまでだ。明日の朝、さらに強力な自白の薬を流し込んで、その口をこじ開けてやる。……精々、この頑丈な檻の中で、己の無力さを呪いながら夜を過ごすんだな」
尋問官は手にした鞭を投げ捨て、数人の配下を引き連れて、鉄の扉をバンッと乱暴に閉めて立ち去った。再び静まり返った檻の中に、アズラは一人、取り残された。
静寂が、赤く薄暗い地下牢を包み込んでいく。
尋問官たちが立ち去り、ただ、天井から滴り落ちる水の音が、不気味な時計のように一定の拍子を刻み続ける。アズラは石柱にもたれかかり、鎖のずっしりとした感触に引きずられながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
全身を襲う激しい痛みが、波のように寄せては引き、意識が朦朧と遠のいていく。
その薄れゆく意識の端で、彼女の感覚は、自らの身体から漂う「ある匂い」を捉えていた。
衣服に染み付いた、血と錆の匂い。
だが、その奥底に、かすかに、本当にかすかにだが、雨上がりの森を思わせるような、しっとりと落ち着いた、甘く清々しい香りが残っていた。
それは、かつて彼女がまだ旅慣れた一座にいた頃、あのオアシスの美しい畑で、大好きな友と分け合った「ハーブの香り」だった。
あの穏やかな風。
テオが小さな手で、ひたむきにハーブの葉を千切って、不器用にお茶をいれてくれた日の、あの何気ない日常。
(……テオ……)
その名を心の中で唱えた瞬間、アズラの胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
あの日、炎と黒煙がすべてを焼き尽くしていく地獄の中で、泣き虫でいつも自分の後ろに隠れてばかりいた、あの耳の大きな、優しい友。
「テオ、しっかり立ちなさいよ!」と怒りながらも、最後には必ず、自分の手をぎゅっと握り返してくれた、おひさまのように温かな手。
その手には、いつも少しだけ土の匂いが混ざり、触れるだけで、こわばった心がすうっと温まるような、不思議な安心感があった。
だが、あの略奪者たちの強襲。
アズラは、非情な馬車に乗せられて連れ去られる中、古い木の陰で頭を抱え、ただ耳を塞いで震えていたテオの姿を、涙で霞む瞳で見たのが最後だった。
あんなにか弱く、いつも泣いてばかりいた彼が、あの黒い炎と砂嵐の中で生き延びられているはずがない。
きっと、自分の家族と同じように、あの黒い煙の向こう側で、一人寂しく命を落としてしまったのだと、彼女はずっとそう信じ込んでいた。
「ごめんね、テオ。……私、あの時、貴方の手をしっかりと掴んであげられなかった……」
アズラは、暗闇の中で、一筋の涙を流した。
彼女を苛み続ける、失われた友への消えない後悔。
お互いが相手を「あの日に死んでしまった」と固く信じ込んでいる、哀切なすれ違い。
その遠い日の温もりへの追憶だけが、このひんやりとした地下牢の中で、彼女を人間として繋ぎ止める、たった一つの小さな光であった。
瞼の裏に灯るその小さな光は、過酷な現実の暗闇を照らす唯一の救いであったが、同時に、その光が強ければ強いほど、彼女がこれまでに歩んできた泥にまみれた日々の苦しさが際立つようでもあった。瞳を閉じ、かつての温もりを抱きしめる彼女の意識は、やがて光の届かない過去の奈落へと、静かに、そして深く沈み込んでいく。それは、六年前の秋のこと。一座の馬車が激しい炎に包まれ、最愛の親や仲間たちを襲いかかる刃から守ろうとした両親さえも、容赦なく奪われたあの日。役人たちに捕らえられた彼女が叩き落とされたのは、人としての温情をすべて剥ぎ取られた、血も涙もない奈落の日々だった。そこは、ただ情報という名の価値だけが非情に取引される世界だった。
明日を生き延びられるかさえ保証されないその暗い部屋で、彼女は「他人はすべて、己を陥れるための敵である」という非情な掟を、傷だらけの肉体に直接叩き込まれていった。
人を信じれば即座に裏切られ、裏切った者が勝者となる世界。
かつて家族や大切な友と過ごしたオアシスの瑞々しい緑や、温かなハーブの香りは、すでに彼女の胸の奥で、復讐の炎を燃やし続けるための、たった一つの燃料へと変わっていた。
その底の知れない奈落のような日々の中で、彼女は一人の若者と出会った。彼は当時、すでに十歳という若さでありながら、空間に這い寄る影を自在に操り、組織の別格の実力者として異彩を放っていた。
名を、カシムといった。カシムもまた、同じアル・ザハブの渇いた土の匂いをまとい、誰にも心を開かない孤独な瞳をしていた。彼が背負う影の暗さは、アズラが内に秘めた消えない怒りと、不思議なほどに同調していた。お互いに言葉を交わすことはほとんどなかったが、すれ違う瞬間に漂う砂の香りが、二人が同じ過酷な大地を踏みしめてきた者同士であることを、言葉よりも雄弁に物語っていた。
カシムがまとう影は、周囲の光を吸い込んで静かにうごめき、その姿を不気味なほどに引き締め、周囲の者たちに近づきがたい畏怖を与えていた。誰もが彼を恐れ、彼の影に触れることを避ける中で、アズラだけは、その影のひえびえとした質感にどこか不思議な安らぎを感じていた。
ある夜、組織の薄暗い裏庭で、カシムはアズラをじっと見つめていた。頭上を流れる雲が月を覆い隠し、かすかな夜風が乾いた葉を揺らす静かな時間だった。彼は、彼女の頑固な佇まいを静かに見据え、低い声で話しかけた。
「お前、いつもそんな、今にもすべてを焼き尽くしそうな目をしてるな」
彼はアズラの瞳に宿る、自分と同じ「消えない憎しみ」に気づいていたのだ。
カシムは懐から、小さな干し肉の包みを差し出しながら、不敵に口角を上げた。
「おい、お前。俺と一緒に、この泥から抜け出すか」
と、それは彼なりの不器用な信頼の言葉だった。二人で手を携えれば、この暗い泥の底から、いつか別の広い空へと羽ばたけるかもしれないという、かすかな希望が彼の指先に宿っていた。だが、アズラはその手を拒んだ。
「私、この泥の中に留まる」
彼女は差し出された手を掴むことなく、自分の細い指先を強く握りしめた。
「親と一座の仲間を、目の前で容赦なく奪った奴ら。あいつらに一矢報いるまでは、私はこの泥から抜けるわけにはいかないの。綺麗に生きることなんて、とうの昔に諦めた。あいつらの喉元に牙を立てるためなら、私はどんな汚い水だって啜って生き延びてみせる」
彼女の言葉には、決して折れることのない強固な意志が宿っていた。
カシムは何も言わず、差し出した手を引き、再び闇の中へとその身を溶かしていった。アズラもまた、一人で暗い回廊へと戻っていった。
――ドクン。
大地の底から響くような不気味な脈動が、アズラの意識を現実へと引き戻した。
気がつけば、頭上の魔導灯の薄暗い赤い光が、決まった間隔で細かく明滅を繰り返している。それは、見張りの交代の時間を知らせる、この牢獄の規則正しい拍動だった。
ガルヴァスの配下たちは、細かな規則に忠実なほどに交代の時間を守る。その時間、監視の目は、ほんの十秒ほど、この檻の外側へと向けられる。
今しかないと、アズラは全身を激しい苦痛に切り刻まれた身体を、現実への執念だけで奮い立たせた。彼女は、自らの衣服の裾を、爪が食い込むほどの強さで躊躇なく引き裂いた。
破いた布を、拷問で深く裂けた脇腹の傷口に強く押し当て、滲み出る血をたっぷりと染み込ませていく。彼女はその血に濡れた布を、監視の死角となる通路の奥へと、這うようにして点々と擦り付けた。あたかも、自分が力尽き、あちらの方向へと逃げ延びようとしたかのような、不自然な血痕。
さらに、衣服の残りの一部を引きちぎり、それを檻の鉄格子の隙間から、外の物陰へとあえて放り投げた。
交代のためにやってきた見張りの兵士が、ひえびえとした石畳を踏み鳴らして檻の前で立ち止まった。「ん? 何だ、これは」と、兵士の足元で、赤い血痕が通路の奥へと伸びている。さらに、鉄格子の外には、ちぎられたアズラの服の布が落ちていた。「まさか、逃げたのか」と、兵士は慌てて腰の鍵を掴み、檻の鉄扉を勢いよく開け放った。
「おい、中の奴はどう」
兵士が檻の奥へと足を踏み入れた、その瞬間だった。扉の影に息を潜めていたアズラが、最後の力を振り絞り、野生の獣のように背後から兵士へと躍りかかった。
「がはっ」
アズラは細い両腕で兵士の首をきつく締め上げ、その隙に彼のベルトから鍵の束を奪い取った。兵士が悶え、彼女を床に叩きつけようとするが、アズラは歯を食いしばり、その首を締め続けた。やがて兵士の力が抜け、熱を失った土の床へと崩れ落ちる。
アズラは震える手で鍵を回し、自らの足を縛っていた鎖を解き放った。鎖のぶつかり合う音が、地下牢に大きく響いたが、彼女は振り返ることもなく、暗い通路へと走り出した。
背後からは、彼女の脱出を知らせる魔導の警鐘が、けたたましく鳴り響き始めている。
「逃がすな! ネズミを追え!」
通路の奥から、複数の足音が追いかけてくる。アズラは、痛む足を叱咤し、ただ一筋の風の匂いがする方向へと、がむしゃらに駆け上がった。階段を上り、鉄の扉を体当たりで押し開けた瞬間、彼女の全身を包み込んだのは、地下の淀んだ空気とは異なる、アル・ザハブの、熱い夜風だった。
「ハッ、ハッ、ハッ」
目の前に広がるのは、満天の星空と、果てしなく広がる黄金の砂丘。だが、安堵の時間はない。背後の王宮の暗闇から、ガルヴァスが放った狂暴な魔獣たちの、おぞましい咆哮が夜空を引き裂いた。
魔獣の影が砂丘を越えて迫ってくる。
アズラは、ボロボロになった衣服の裾を風になびかせながら、果てしなく広がる夜の砂漠の向こうへと、決して振り返ることなく走り出した。




