第68章:偽りの王冠と真実の光
床に厚く積もった灰が、教皇ベネディクトの微かな指の動きに呼応して這い上がり始めた。
耳鳴りがするほどの静寂に包まれた大広間で、微細な粒子がこすれ合う乾いた音だけが不気味に響き渡る。床を這っていた灰が、目に見えない糸で操られるように宙へ浮き上がり、空中でいくつもの塊に分かれた。
それらは瞬く間に人間の骨格を模し、その上を灰の鎧が覆い尽くしていく。
現れたのは、かつて光の教えの名の下に市民を弾圧し、地下へと連行した異端審問官たちの姿だった。
彼らの顔には目も鼻もなく、のっぺりとした灰色の輪郭があるだけだ。手には、同じく灰で構成された歪な長槍が握られている。五十体を超える灰の兵士たちが、足音一つ立てずに着地し、ゼノリスたち星屑の騎士を何重にも取り囲む円陣を敷いた。
「お前たちに、真の恐怖を与えよう」
教皇が玉座から見下ろしながら、両腕を大きく振り下ろした。
兵士たちが一斉に槍の穂先を向け、包囲の輪を縮めてくる。
テオが即座に大盾を構えて前傾姿勢をとり、カシムが床に影を走らせる。ゼノリスも黒い剣の柄に手をかけ、魔力を練り上げようとした。
だが、彼らが動くよりも早く、一人の姿が前へ進み出た。
セレスティアだった。
彼女は仲間の前に立ち塞がると、聖杖を胸の高さで静かに構えた。
「……セレスティア」
ゼノリスが声をかける。
彼女の真っ直ぐに伸びた背筋に、かつての迷いはない。誰に強いられるでもなく、ただ自らの意志で、胸の高さに構えた聖杖に黄金の光を灯していた。
ゼノリスは剣の柄から手を離し、彼女の決断を尊重して後方へと視線を配った。
イリスもまた無言のまま、親友の背中を見つめ、自身の魔法を解いて数歩下がる。彼女が今、何をなそうとしているのかを誰よりも理解していたからだ。光の聖都で共に祈りを捧げ、痛みを分かち合ったからこそ、その静かな覚悟の重さが伝わっていた。
教皇の喉の奥から、嘲るような笑い声が漏れた。
「光を失った一族の娘が、私に逆らうというのか。神の意志を理解できぬお前などに、この新世界の礎を崩すことはできん」
「私は光を失ってはいません」
セレスティアは、玉座に座る老人を真っ直ぐに見据えた。
「あなたが、人々の祈りという本当の光から目を背けただけです」
彼女の言葉に、教皇の顔の筋肉が怒りに引きつった。
彼が指先を激しく弾く。それを合図に、灰の異端審問官たちが四方八方からセレスティアへ向かって殺到した。
数十本の槍が、彼女の身体を貫こうと迫る。
セレスティアは一歩も退かなかった。
彼女は聖杖の先端を、ゆっくりと前方へ向ける。
その瞬間、杖の先にはめ込まれたクリスタルから純度の高い黄金の光が溢れ出し、空間に静かな波紋を描いて広がっていった。
光は水面に落ちた一滴の雫が波紋を作るように、静かに、しかし押し寄せる波のように大広間の空間を満たしていく。
黄金の光に触れた瞬間、襲いかかっていた灰の兵士たちの動きが停止した。
槍の穂先がボロボロと崩れ落ち、鎧の形を保っていた灰の結合が解けていく。彼らは声を上げることもなく、ただ静かに光の中へ溶け込み、元のただの粉塵となって床に落ちていった。
「な……」
教皇が玉座から立ち上がり、目を見開いた。
自らが作り出した恐怖の象徴が、いとも簡単に払われたことに動揺を隠せない。
「小賢しい真似を……! ならば、これならどうだ!」
教皇は背後にそびえ立つ巨大な漆黒の結晶体――『第二の楔』へと手をかざした。
楔の表面を脈打っていた青黒い光が、彼の両手へと急速に吸い込まれていく。それは、地下へ送られた無数の人々の絶望と悲鳴が凝縮された、底知れぬ闇の塊だった。空間全体が、その強大な魔力に引っ張られてミシミシと軋み声を上げる。
教皇が両手を突き出すと、空間そのものを黒く歪ませながら、無数の顔が浮かぶ黒い濁流が、セレスティアへと放たれた。
「セレスティア!」 背後でフィリーネが叫ぶ。 だが、セレスティアの青い瞳に怯えはなかった。
彼女は両手で杖を握り直し、床の灰を強く踏みしめる。彼女の一族の使命は、ただひたすらに人々のために光を灯すこと。その純粋な祈りが、濁流の闇に屈するはずがなかった。
杖から放たれる黄金の光がさらに輝きを増し、暗闇を飲み込む巨大な光の柱となって真っ直ぐに伸びた。
黒い濁流と黄金の光が、大広間の中央で激突する。
二つの相反する魔力がぶつかり合い、衝撃波が周囲の空間を激しく震わせた。高天井を覆っていた暗幕が破れ、ステンドグラスの破片がパラパラと床に降り注ぐ。
教皇の放つ闇は、あらゆるものを侵食し、腐らせようとする意志を持っていた。
しかし、セレスティアの光はそれに力で抗うのではない。
彼女の光は、闇に込められた人々の悲鳴を優しく包み込み、怒りを解きほぐし、本来の静寂へと還元していく「浄化」の力だった。
黒い濁流が、光に触れた端から透明な粒子となって消えていく。
「馬鹿な……! 私の力が、神の意志が……押されているだと!?」
教皇が血走った目で叫び、さらに魔力を送り込もうとする。
だが、セレスティアの光の波は止まらなかった。
浄化の光は濁流をすべて飲み込み、一気に玉座へと到達した。
光が教皇の身体を包み込んだ瞬間、彼を支配していた狂信の熱が、音もなく霧散していく。
彼が纏っていたどす黒い魔力のオーラが剥がれ落ち、豪華な法衣に染み付いていた煤が払われる。
光が収まった後、大広間には再び深い静寂が戻っていた。
教皇は玉座の前で膝をつき、信じられないものを見るように自分の両手を見つめている。
彼の瞳からギラギラとした狂気が消え、そこにあるのはただの力ない老人の姿だった。
セレスティアはゆっくりと杖を下ろし、静かに息を吐いた。
彼女の周囲だけ、敷き詰められていた灰が吹き飛び、大理石の床が本来の美しい輝きを取り戻していた。
大理石の床に膝をついた教皇ベネディクトの周囲には、深く静まり返った空間が広がっていた。
彼のくぼんだ瞳からは、先ほどまで燃え盛っていた狂信の炎が消え失せている。セレスティアの放った黄金の光は、彼が長年見ないふりをしてきた現実を容赦なく暴き出していた。
人々の祈りを利用し、無数の命を使い捨ててきた自らの罪の大きさが、言葉ではなく抗いようのない現象として彼を打ちのめす。
豪華な法衣は色褪せ、その背中はひどく丸まっていた。
「私は……光を導く者であったはずだ……。この国を、正しき道へ……」
教皇は、すっかり血の気を失った自身の両手を震わせながら見つめる。
だが、彼の内にこびりついていた権力と野望への執着が、再びその痩せ細った体を動かした。彼はゆっくりと石の床を這い、背後にそびえ立つ巨大な漆黒の結晶体――『第二の楔』へと手を伸ばす。
「ルシオン様……どうか、私にもう一度力を。私を、新世界の玉座へ……」
掠れた声で懇願し、教皇の指先が『第二の楔』の表面に触れた。
その瞬間、楔の表面を脈打っていた青黒い光が、教皇の腕へと這い上がるように絡みついた。
しかし、それは彼が望んだ力を与えるものではなかった。もはや教皇は、楔にとって不要な器でしかなかった。
絡みついた光が、教皇の体内に残された生命力と魔力を、容赦なく吸い尽くしていく。
声にならない悲鳴が教皇の喉で形なく消えた。
法衣がカサカサと音を立てて萎み、彼の皮膚が急激に水分を失って干からびていく。
テオが咄嗟に大盾を構えて前へ出ようとするが、ゼノリスが手で制した。
「……もう、助からない。楔が彼を拒絶している」
ものの数秒の出来事だった。教皇の身体は形を保つことができなくなり、ボロボロと音を立てて崩れ落ちた。サンクトゥス聖教国の最高権力者であった男の最期は、一握りの乾いた粉塵となって石畳に散らばるだけの無惨なものだった。
イリスは灰色の修道服の裾を握りしめ、その結末から目を逸らさずに静かに見届けた。
かつて自分を追放し、国を恐怖で支配した男の末路は、あまりにもあっけなく、そして空虚だった。
だが、星屑の騎士たちには、その余韻に浸る時間はなかった。
契約者である教皇を失った『第二の楔』が、ドクン、ドクンと異常な速度で脈動を始めたのだ。表面を走っていた青黒い光が、瞬く間に赤黒い色へと変色し、大広間全体をミシミシと歪ませるほどの圧迫感を放ち始める。
「……気をつけろ! 楔の魔力が制御を失って暴走している!」
ガイルが叫び、眼帯の下から青白い火花を激しく散らす。
直後、楔の根元から、膨大な死の灰が溢れ出した。
その灰は床に広がり、先ほどセレスティアが浄化したばかりの大理石を再び飲み込んでいく。灰の波はうねりを上げ、足首から膝へと嵩を増しながら、空間を埋め尽くさんばかりの勢いで増殖を続けた。
同時に、大広間の空気が異常な速度で熱を帯び始めた。
肌を焦がすような熱風が吹き荒れ、息をするだけで喉の奥が焼け、肺がひりつく。
「温度が上がっているぞ! 何かが……この灰の底から這い出してくる!」
ガイルが叫び、眼帯の下の解析眼を限界まで光らせる。彼の視界では、灰の奥で急激に膨れ上がる熱源が赤く警告を発していた。
リィンがエメラルド色の風を纏った刀を抜き放ち、前方に吹き荒れる熱風を切り裂いて仲間たちの視界を確保する。その開かれた視界の先を見据え、ゼノリスが鋭く指示を飛ばした。
「テオ! 前を頼む!」
「任せろ!」
テオが漆黒の大盾を床の石畳に深く突き立て、陣形の先頭で防波堤となる。
フィリーネは白銀の杖を高く掲げ、仲間たちを囲むように純白の防壁を展開した。だが、防壁の表面に熱を帯びた灰が触れるたびに、ジュッと音を立てて魔力が削り取られていく。
「イリス、セレスティア! 防壁の維持を手伝って!」
「ええ!」
「光よ、私たちをお守りください!」
三人の魔導師が力を合わせ、防壁の内側へ侵入しようとする熱波と灰の嵐を懸命に食い止める。
カシムは自らの影を床の隙間へと滑り込ませ、波打つ灰の動きを足元から牽制する。
ゼノリスは黒い剣を構え、刀身に白銀の閃刃を纏わせる。
彼の黄金と闇の双眸は、溢れ出す灰の中心――赤黒く脈打つ楔の根元を真っ直ぐに見据えていた。
エレナもまた、銀色の長剣を引き抜き、周囲の空間を微かに歪ませながら切っ先を向ける。
熱波はさらに強まり、周囲の巨大な石柱が熱膨張に耐えきれず、ピキピキと音を立ててひび割れ始める。天井の装飾もパラパラと崩れ落ち、大広間は崩壊の危機に直面していた。 吹き荒れる死の灰の渦の中から、黒い炎を纏った人影が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。
その姿が完全に空間へ定着した瞬間、大広間を圧迫していた熱気が、息の詰まるような重圧へと変わる。
ボロボロの黒いローブを纏った細身の男、灰燼の魔道士ネビュロス。
彼は床に足をつけることなく、死の灰が深く積もる大広間を音もなく浮遊している。
彼が現れただけで、大広間の空気はひどく乾燥し、息をするだけで喉の奥が痛くなるような嫌な匂いが立ち込めた。
ローブの奥で不気味に赤く光る瞳が、ゼノリスたちを静かに見下ろした。
「……教皇の気配が消えたと思えば。……また、お前らか」
ネビュロスの声は、焼け焦げた木がこすれ合うようにかすれていた。
彼がローブの袖をわずかに振るう。
すると、足元に広がる膨大な灰の海が不気味にうねり始めた。
サラサラと音を立てて灰が寄り集まり、四つん這いの獣や、錆びた武器を手にした騎士の形へと瞬く間に変わっていく。それは『第二の楔』から無尽蔵に与えられる魔力によって生み出される、不死の軍勢だった。
獣たちは赤い目を光らせ、低い唸り声を上げている。騎士たちはカチャカチャと音を立てながら、一斉にこちらへ武器を向けた。
「気をつけろ! 灰から敵が無限に湧き出してくるぞ! あの灰がある限り、奴らは何度でも立ち上がってくる!」
ガイルが叫び、眼帯の下の解析眼を限界まで光らせる。彼の視界には、終わりのない魔力の流れが映っていた。
「陣形を組め! セレスティア、イリス、フィリーネは後方! テオ、前を! カシムとリィンは側面を頼む!」
ゼノリスの鋭い指示が、広い部屋に響き渡った。
その声に、星屑の騎士たちは一瞬の遅れもなく動いた。
彼らは、円を描くようにして背中を合わせ、迫り来る灰の波に立ち向かう構えをとった。
「オラァッ! 何度来ても同じだ!」
テオが漆黒の大盾を構えて、陣形の正面に立ち塞がる。
真っ先に飛びかかってきた灰の獣を、盾の面で力強く弾き返した。
ドスンと音が響き、獣は空中でバラバラの灰になって散る。しかし、床に落ちた灰はすぐに別の灰と混ざり合い、また新しい獣となって立ち上がってきた。
「チッ、倒しても、倒してもキリがないな!」
カシムが舌打ちをする。彼は左側で、自らの影を鋭い刃に変えて戦っていた。
床を這う影が敵の足元から飛び出し、急所を正確に貫く。だが、急所を突かれたはずの灰の騎士たちも、崩れ落ちてはすぐに再生してしまう。
右側では、リィンが愛刀を振るっていた。
「風よ」
彼女が短くつぶやくと、エメラルド色の風の刃が飛んでいく。迫りくる灰の騎士たちをまとめて切り裂き、灰を遠くへ吹き飛ばす。それでも、吹き飛ばされた灰はすぐに寄り集まり、敵の数は少しも減らなかった。
後方では、三人の少女たちが必死に仲間を支えていた。
「凍てつけ!」
フィリーネが白銀の杖から冷たい光を放つ。その光は地面を凍らせ、近づく灰の獣の足を氷で固めて動きを止めた。
「灰の帳、彼らの目を欺きなさい」
イリスが両手を広げ、灰色の霧を生み出す。
霧に包まれた獣たちは標的を見失い、何もない場所に向かって爪を振り下ろしている。 二人の魔法が前衛の負担を減らしていく。しかし、敵の数は多すぎた。
「……灰になれ……」
宙に浮くネビュロスが、両手を前に突き出した。
彼の周囲を漂っていた黒い炎が、まるで巨大な鞭のようにしなって、前衛で盾を構えるテオへと襲いかかった。
「テオ、危ない!」
セレスティアが白銀の聖杖を高く掲げた。
黄金の防護障壁が、テオの前に大きく広がる。
しかし、黒い炎が障壁に触れた瞬間、ジュッと嫌な音を立てた。
光の壁が、黒い炎に食べられるように削り取られていく。ネビュロスの放つ黒炎は、触れた魔力さえも燃やし尽くし、灰に変える恐ろしい力を持っていた。
「くっ……!」
テオが盾を突き出して必死に防ぐ。だが、黒炎の凄まじい熱と重さに、テオの足が後ろへ滑る。靴の裏から煙が上がり、石畳に深い跡が刻まれた。
「私が防ぐわ!」
エレナが前へ踏み込んだ。彼女は銀色の長剣を素早く振り抜く。
空間そのものを切り裂く彼女の剣の動きが、黒炎の軌道を強引に逸らした。
炎はテオを避け、床へと激突した。
炎に触れた石畳は、一瞬で白い灰となって崩れ落ち、大きな穴が開いた。
「……触れれば、骨まで灰にされるわ!」
エレナが警告する。彼女の額にも、汗が光っていた。
大広間は、もはや戦場というよりも、死の海だった。
ネビュロスの周囲には絶え間なく黒い炎が渦巻き、足元からは魔獣が生まれ続けている。
どこを見ても敵ばかり。息をするのも苦しいほどの熱風と、焦げた灰の匂い。
圧倒的な敵の数と、触れればすべてが終わる一撃必殺の黒炎。
星屑の騎士たちは、瞬く間に過酷な防衛戦へと引きずり込まれていた。
休む間もなく武器を振り、魔法を放つ。
全員の呼吸が荒くなり、体力と魔力が少しずつ奪われていく。
「このままじゃ押し切られる! 大元を叩く!」
ゼノリスは声を張り上げた。
敵をいくら倒しても意味がない。あの宙に浮くネビュロスを直接倒すしかない。
ゼノリスは黒い剣を構え、刀身に白銀の閃刃を纏わせる。彼の黄金と闇の瞳は、揺るぎない決意を持ってネビュロスを真っ直ぐに見据えていた。
「僕が道を切り開く。みんなは後を頼む!」
ゼノリスは、前衛の仲間たちが押し留める灰の波をすり抜け、前へと飛び出した。
彼の体から放たれる白銀の光が、迫り来る灰の獣たちを蹴散らしていく。
浮遊する灰燼の魔道士へと向かって、ゼノリスは真っ直ぐに踏み込んだ。




