第64章:閉ざされた回廊と追憶の剣
アーチ状の門を抜けた先は、これまでの単調な石壁の回廊とは異質な空間だった。
空気が重い。肺を満たすのは、湿り気を帯びた土の匂いではなく、焼け焦げたような血と灰の不快な臭気だった。壁面には不気味な赤い魔力回路が脈を打ち、天井からは命を燃やし尽くした後の死の灰が、絶え間なく降り注いでいる。
「……ここが、教皇の隠し持つ領域」
セレスティアが青い瞳を細め、聖杖を胸に抱いた。
「祈りの場所なんかじゃない。ここは、ただの処刑場よ」
イリスもまた、不快げに眉をひそめる。
かつて聖都で祈りを捧げていた二人にとって、この空間に渦巻く人々の絶望の残響は、肌を刺すような痛みを伴っていた。
ガイルは右目の眼帯の下で解析の魔力を光らせ、周囲の構造をスキャンする。だが、すぐにその表情が険しく歪んだ。
「……おい、おかしいぞ。この空間、魔力の波長がデタラメだ。まるで生き物の腸の中にいるみたいに、空間そのものが収縮と膨張を繰り返している。……罠だ!」
ガイルが叫んだ瞬間、彼らの足元を激しい地鳴りが襲った。
「きゃあっ!」
フィリーネがバランスを崩し、ゼノリスが咄嗟にその細い腕を掴む。
だが、異変は足元だけではなかった。
周囲の石壁が、けたたましい摩擦音を立ててスライドし始めたのだ。迷宮自体が、複雑なパズルのようにその構造を組み替え、彼らを閉じ込めようと動き出したのである。
「壁が動いている……! 空間を隔離する気か!」
ゼノリスが叫ぶ。
「退がって! 扉が閉まるわ!」
エレナが長剣を抜き放ち、迫り来る壁の隙間へ向かって見えざる斬撃を放つ。だが、彼女の「空間切断」が壁を両断した端から、死の灰が砂嵐のように溢れ出し、傷口を塞ぐように瞬時に修復していく。
「チッ、ただの石じゃねえ! 自己修復機能付きの魔導壁だ。しかも、魔力の供給源が俺たちの足元全体から来ている!」
ガイルが舌打ちをする。
その時、天井から滝のような「死の灰」の奔流が降り注いだ。
それはゼノリスとエレナ、そして後方のフィリーネたち四人を分断するように、分厚い壁となって立ちはだかった。
「お兄様!」
フィリーネが悲鳴を上げ、ゼノリスへ手を伸ばす。
「フィリー!」
ゼノリスも手を伸ばすが、急速にせり上がってきた新たな石壁が、二人の指先を無情にも隔てた。
ガガァァァンッ! 重々しい衝突音が響き、回廊は完全に二つに分断された。
「フィリー! ガイル! 無事か!」
ゼノリスが石壁を叩きながら叫ぶが、分厚い壁の向こうからは何の音も聞こえない。教会の秘術によって、声も、仲間たちの魔力の気配すらも遮られてしまったのだ。
「……無駄よ。この壁は音を遮り、空間そのものを切り離す魔法が編み込まれている。いくら叫んでも、向こうには届かないわ」
エレナが長剣を鞘に収め、冷静に状況を分析する。
彼女の表情に焦りはない。ただ、周囲に満ちる異常な魔力に警戒の視線を配っていた。
「くそっ……! 教皇の奴、僕たちを分断して、一人ずつ狙い撃ちにするつもりか」
ゼノリスは黒い剣の柄を強く握りしめた。右手のひらに刻まれた星の刻印が、微かな熱を帯びて疼いている。フィリーネたちが心配だった。盾となるテオが不在の今、前衛を張れるのは自分だけだった。その自分が分断されてしまったことで、残された四人の負担は計り知れない。
「あの四人なら大丈夫よ。……あなたの妹さん、ただ守られているだけの弱い子には見えなかったわ」
エレナの静かな言葉に、ゼノリスはハッとして振り返る。
「彼女の魔法、あの年齢にしては異常なほど純度が高かった。それに、あの眼帯の彼の解析能力と、二人の聖女のサポート。……簡単にやられるような柔な連中じゃないわ」
エレナの言葉には、不思議な説得力があった。
彼らなら、必ずこの窮地を切り抜け、再び合流できるはずだ。
「……ああ。信じるよ。彼らなら絶対に生き延びる」
ゼノリスは壁から手を離し、前を見据えた。
「なら、進むしかないわね。この回廊の構造が変化したことで、最深部『不死の玉座』へのルートも変わってしまったはず。……でも、教皇の放つ魔力の源流を辿っていけば、必ず最深部に行き着くはずよ」
エレナが静かに歩き出す。その静かで迷いのない足取りは、ゼノリスの胸に渦巻いていた焦りをすっと拭い去ってくれた。ゼノリスもまた、彼女の隣に並んだ。
その時、暗い光に照らされた回廊の奥から、乾いた骨が擦れ合うような音が響いてきた。
現れたのは先ほどの灰の巨像とは違う。人の形を保ちながらも、その肉体が灰と黒い炎でできた騎士たちだった。彼らの手には、錆びた剣や槍が握られている。
「……あれは、かつてこの聖都を守っていた騎士たちね。心を奪われ、ずっと戦わされている哀れな魂たちよ」
エレナが、悲しそうに目を細める。
「なら、僕たちがその鎖を断ち切る」
ゼノリスは黒い剣を抜き放ち、白銀の光を纏わせた。
「ええ。……数が多いわ。背中は任せるわよ、ゼノリス」
「君も、無理はしないでくれ」
狭い回廊の中で、二人は背中合わせに構えた。迫り来る灰の騎士たちは、痛みも恐怖も持たず、ただ生者を道連れにするために武器を振りかざして襲いかかってくる。
「行くぞ!」
ゼノリスが床を蹴る。白銀の刃が閃き、先頭の灰の騎士を両断した。切断された体から黒い炎が噴き出すが、ゼノリスの光がそれを洗い流していく。
一方で、エレナの剣技は静かだった。彼女が銀色の長剣を振るうたびに、空間そのものがズレ、灰の騎士たちの体が音もなく崩れ落ちる。派手な魔法はないが、その一撃が敵を消し去っていた。
二人の剣技は、不思議なほどよく噛み合っていた。ゼノリスが敵の攻撃を弾き、生じた隙をエレナが切り裂く。エレナの死角から迫る敵を、ゼノリスが薙ぎ払う。
言葉を交わす必要はなかった。呼吸のタイミング、剣の軌道、歩幅。すべてが、長く共に戦ってきた相棒のように、自然に重なり合っていた。
(……なんだ、この感覚は)
ゼノリスは敵を倒しながら、不思議な懐かしさを感じていた。
エレナの背中。彼女の剣の軌道。それは学園で自分たちを救った「蒼刃の魔騎士ザガン」の技に似ているだけではない。自分自身の剣のルーツと、深く響き合う何かがあった。
父ロランから教わった「まもるための剣」。
エレナの剣には、相手を倒す怒りよりも、道を切り開く静かな意志が込められていたのだ。
「……どうしたの、動きが鈍いわよ」
敵の群れを片付けたエレナが、剣を払いながら振り返る。
「いや……君の剣が、少し気になって」
ゼノリスの言葉に、エレナは目を伏せた。
「私の剣が?」
「君の空間を斬る技。そして、その静かな剣筋。……学園の戦いで、あの『見えざる刃』を放った魔騎士に似ている気がして」
エレナは少しの間ゼノリスを見つめていたが、やがて静かに長剣を鞘に収めた。
「……そう。似ているかもしれないわね」
暗い光の下で、彼女の横顔はどこか悲しげに見えた。
「この剣は、私が顔も知らない父から受け継いだ、たった一つの繋がりだから」
その言葉が、静かになった回廊に溶けていった。
暗い光に照らされた回廊を、二人は再び歩き出した。
ゼノリスは、隣を歩くエレナの横顔をちらりと見た。
彼女の腰に提げられた銀色の長剣。先ほど彼女が見せた空間を斬る技。
学園の戦いで、あの『見えざる刃』を放った魔騎士ザガン。
彼の技と、エレナの剣の軌道は、まるで同じ一つの旋律をなぞっているかのようだった。
(もし、彼女の探している父親が、本当にあの魔騎士だとしたら……)
ゼノリスは、意を決して静かに口を開いた。
「君は、その剣を手がかりにして、お父さんを探しているのかい?」
エレナは前を向いたまま、銀色の長剣の柄にそっと手を添えた。
「……そうよ。私が探しているのは、この剣の持ち主。私の本当の父親」
彼女の声は、暗い回廊に吸い込まれるように静かだった。
二人は歩みを進めながら、少しずつ言葉を交わしていく。
「私はずっと、母と二人で暮らしてきたの。街から遠く離れた、静かな村でね」
エレナの瞳の奥に、懐かしい景色が浮かんでいるようだった。
「母はとても優しい人だったわ。怒ったところなんて一度も見たことがない。でも、どこか寂しそうで、いつも遠くの空を見つめていた。……そして、夜になると、誰もいない部屋で、この銀色の長剣を大切に手入れしていたの」
ゼノリスは黙って耳を傾けた。
「私が『それは誰の剣なの?』って聞いても、母はただ優しく笑うだけだった。私が剣の稽古をしたいと言った時も、最初はとても反対されたわ。でも、私がどうしてもと頼み込むと、母はこの剣の振り方を教えてくれた。……母自身は剣を振るうことはなかったけれど、型だけは誰よりも正確に覚えていたのよ」
「お母さんが、君にその技を教えたんだね」
「ええ。でも、その母も……一年前に病で亡くなったわ」
エレナの言葉に、深い悲しみの色が滲んだ。
「母は最期に、私の手を握って言ったの。『貴方の父親は、きっとどこかで生きている。この剣を持っていれば、いつか必ず巡り会えるはずだ』って」
彼女は立ち止まり、ゼノリスを真っ直ぐに見つめた。
「だから私は旅に出た。母がずっと待ち続けていた人が、どんな人なのか。なぜ私たちを置いていったのか。それを、私の目で確かめるために」
ゼノリスは、彼女の瞳の奥にある強い覚悟を感じ取った。
自分の境遇と、どこか似ている気がした。
ゼノリス自身も、本当の父親の顔を知らない。自分の血の中に眠る、破壊の力。自分は魔王の力と勇者の力を持つ存在として生まれ、育ての親であるロランとミリアに愛されて育った。
だからこそ、血の繋がりが持つ引力の強さと、親の背中を追い求めたいという気持ちは、痛いほどによくわかる。
(もし、彼女の探している父親が、本当にあの魔騎士ザガンだとしたら……)
ゼノリスの心に、迷いが生まれた。
ザガンは、魔族の幹部だ。世界を脅かす敵の側にいる男。
だが、彼は学園の戦いで、なぜかゼノリスたちの危機に干渉し、密かに助けの手を差し伸べてきた。
その真意は未だにわからない。
もしエレナの父親が彼だとするなら、彼女にその事実をどう伝えればいいのか。
「……君の剣は、とても澄んでいる」
ゼノリスは、迷いを振り払うように言った。
「相手を倒す怒りよりも、道を切り開くための静かな意志がある。……君のお父さんがどんな人であれ、その剣を受け継いだ君自身が、とても真っ直ぐな心を持っているんだと思う」
エレナは少し驚いたように目を見開き、そして、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、ゼノリス。貴方にそう言ってもらえると、なんだか少しだけ安心するわ」
二人の間に流れていた張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。
その時だった。
迷宮の石壁が、生き物のように脈打ち始めた。
不気味な赤い光に照らされた壁の表面から、黒い炎がじわりと滲み出し、周囲の空気が一気に冷たくなる。
「……来るわ!」
エレナが表情を引き締め、銀色の長剣を構える。
ゼノリスも黒い剣を抜き放ち、白銀の光を纏わせた。
前方の暗がりから、低い唸り声が響いてくる。
現れたのは、先ほどの騎士の姿をした敵ではなかった。 灰と黒い炎が合わさってできた、巨大な獣の群れだった。
狼のような姿をしているが、その大きさは熊のように大きく、鋭い牙と爪が赤い光に照らされてギラギラと光っている。
「十……いや、それ以上いるね」
ゼノリスが剣を構えたまま、敵の数を数える。
「数が多くても関係ないわ。道を切り開くわよ!」
エレナが床を蹴り、先頭の獣に向かって飛び出した。
獣が大きく口を開け、黒い炎を吐き出そうとする。
だが、エレナの剣の方が早かった。
彼女が銀色の長剣を振り抜くと、空間がズレて、獣の顔と胴体が離れ離れになる。
音もなく、獣の体が崩れ落ち、ただの灰となって床に散らばった。
「すごいな……」
ゼノリスは感嘆しつつ、自分も敵の群れへと飛び込んだ。
三頭の獣が同時にゼノリスに向かって襲いかかってくる。
「ふっ!」
ゼノリスは身を低く沈め、迫り来る鋭い爪を避けた。
そのまま黒い剣を薙ぎ払う。
白銀の光が閃き、三頭の獣の足を同時に切り裂いた。
傷口から黒い炎が噴き出すが、ゼノリスの光がそれを洗い流していく。
獣たちが体勢を崩した隙を突き、ゼノリスは一気に距離を詰め、流れるような剣筋で三頭を瞬時に斬り伏せた。
「後ろよ、ゼノリス!」
エレナの声が響く。
ゼノリスが振り返ると、死角から一頭の獣が飛びかかってくるところだった。
避けるのが間に合わない。
そう思った瞬間、エレナの長剣が空気を裂いた。
獣の体が空中でピタリと止まり、そのまま真っ二つに分かれて落ちていく。
「助かったよ、エレナ」
「お互い様よ」
二人は背中を合わせ、次々と押し寄せる灰の獣たちを迎え撃つ。
彼らの動きは、不思議なほどによく合わさっていた。
ゼノリスが前へ出て敵の攻撃を引きつけ、その隙にエレナが空間を切り裂いて敵を倒す。
エレナの横から迫る敵を、ゼノリスが白銀の刃で薙ぎ払う。
呼吸が合い、剣の軌道が交差し、互いの死角を補い合う。
言葉を交わさなくても、次に相手がどう動くかが手に取るようにわかった。
(……なんだろう、この感覚は)
ゼノリスは、獣を倒しながら不思議な安心感を覚えていた。
彼女の剣と自分の剣が、まるでずっと昔から共に戦ってきたかのように自然に馴染むのだ。
父ロランから教わった剣の響きと、彼女の剣の響きが、一つの音楽のように合わさっていく。
数分後。
最後の一頭が灰となって崩れ落ち、回廊に再び静けさが戻った。
床には無数の灰の山ができているが、それもすぐに赤い光に溶けるように消えていった。
「……あらかた片付いたみたいね」
エレナが剣を振り、付着した黒い炎の残りを払ってから、静かに鞘に収めた。
「ああ。怪我はないかい?」
「ええ、大丈夫よ。貴方も平気そうね」
エレナは軽く息をつき、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「それにしても、貴方と戦うと、とても戦いやすいわ。私の動きを先読みしてくれているみたい」
「僕も同じことを思っていたよ。君の剣が、僕の動きを助けてくれている気がするんだ」
ゼノリスが微笑むと、エレナも嬉しそうに目を細めた。
「不思議ね。……でも、立ち止まっている暇はないわ。この迷宮は、私たちが休むことを許してくれないみたいだから」
エレナの言う通り、回廊の奥からは、まだ不気味な気配が漂い続けている。
「そうだね。はぐれてしまったフィリーたちも心配だ。早く合流しないと」
ゼノリスは黒い剣を鞘に収め、迷宮の奥を見据えた。
この赤い光に照らされた回廊の先には、まだ数多くの罠と敵が待ち受けているだろう。
だが、隣を歩く彼女がいれば、どんな困難でも切り抜けられる気がした。
二人は再び歩みを進める。
「ねえ、ゼノリス。さっきの話の続きだけど……」
エレナが前を向いたまま、ぽつりと口を開いた。
「もし、私の父親が、貴方のよく知るその人だとしたら。……その人は、どんな人だった?」
その問いに、ゼノリスは少しだけ足を止めた。
彼女の父親かもしれない魔騎士ザガン。
彼は敵でありながら、自分たちを助けてくれた不可解な存在だ。
「……とても、強い人だったよ」
ゼノリスは言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。
「静かで、誇り高くて……そして、不思議な優しさを持っていた気がする。学園の戦いで、僕たちの危機を救ってくれたんだ」
「……そう。私を置いていったことは恨んでいるけれど。でも、その言葉を聞けて、少しだけ嬉しかったわ」
エレナは目を伏せてから、ふっと晴れやかに笑った。
「ありがとう、ゼノリス。これで、迷わずに前に進めるわ」
二人の足音が、暗い光の回廊に響いていく。
迫り来る不吉な気配にも負けない、確かな信頼がそこにはあった。




