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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第6巻 星屑の帰還と蒼刃の守護者

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第52章:奈落の対話と死地からの生還

 冷たい雨が容赦なく打ち付ける暗黒の虚空を、ゼノリスは真っ逆さまに落ちていった。

 頭上で荒れ狂う雷鳴と、眼下から迫り来る漆黒の闇。風が刃のように頬を切り裂き、雨粒が弾丸のように身体を叩きつける中、ゼノリスの視界の先には、雷獣の攻撃を受けて吹き飛ばされ、ただの鉄の塊のように落下していくアッシュの細い身体があった。

八ヵ国連合によって感情と生存本能を奪われた彼は、迫り来る地面に向けて手足をバタつかせるような抵抗すら見せない。迫り来る死を、ただの「機能停止」として静かに受け入れているかのようだった。恐怖で顔を歪めることもなく、助けを求める悲鳴を上げることもない。ただ無機質に、冷たい雨に打たれながら闇の底へと吸い込まれていくその姿は、人間の尊厳を完全に剥奪された悲惨なものだった。

だが、ゼノリスはその消えゆく命を前に、決して手をこまねくつもりはなかった。

(誰かの都合で、こんな冷たい闇の中で終わらせてたまるか……!)

「……届けッ!」

ゼノリスは頭から真っ逆さまに落ちる姿勢のまま、右腕を体に沿って足の方へと真っ直ぐに伸ばした。天に向けた手のひらの星の刻印から白銀の魔力を鋭く噴出させ、その強烈な反作用を推進力に変えて落下速度を強引に引き上げる。弾丸のように加速した身体が、分厚い雨のカーテンを突き破る。周囲の空気が摩擦で熱を帯びるほどの速度でアッシュの身体に追いついた瞬間、前方に伸ばした左手でその細い腕を力強く掴み寄せた。

指先から伝わってきたのは、生きている人間とは思えないほどの氷のような冷たさと、折れそうなほどの細さだった。

直後、推進力を生んでいた右腕を瞬時に下へと振り抜き、迫り来る渓谷の底の岩盤に向け、ゼノリスは握りしめた黒い剣を思い切り突き出した。

白銀の閃刃がクッションの役割を果たし、凄まじい衝撃波を和らげる。ガァァァンッという甲高い金属音と共に岩盤が砕け散るが、それでも殺しきれなかった重力は、ゼノリスの膝と足首に筋肉が断裂するほどの激痛を走らせた。彼は歯を食いしばり、口の中に血の味を感じながらも、アッシュの身体を庇うようにして自らをクッションにし、暗い泥の中へと転がり込んだ。


 激しい水しぶきが上がり、二人の身体は冷たい泥濘ぬかるみに深く沈み込んだ。

「……はぁ、はぁ……っ」

全身の骨が軋むような痛みに耐え、ゼノリスが荒い息を吐きながら身を起こす。泥にまみれた腕の中にいたアッシュは、無表情のままゆっくりと瞬きをした。彼の口の端からは、黒い血が雨水に混じってとめどなく溢れ出している。骨の数本が折れ、内臓にもダメージを受けていることは明らかだった。だが、彼が発した言葉は、痛みへの苦悶でも死への恐怖でもなかった。

「……理解不能。敵対対象による、非合理的な救助行動」

アッシュの虚ろな瞳が、雨に濡れたゼノリスの顔を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥には、本当に計算式がバグを起こした機械のような、無機質な疑問だけが浮かんでいた。

「……なぜ、私を排除しない。私は、お前を殺すための兵器だ。私を助ける行為は、お前の生存確率を著しく低下させる。……エラー。行動の最適解が見つからない」

「ふざけるな……。兵器なんかじゃない。お前は生きている人間だ」

ゼノリスはアッシュの胸ぐらを掴み、その冷え切った身体に自らの右手を押し当てた。星の刻印から白銀の魔力を流し込み、致命傷を繋ぎ止めながら、静かな怒りを込めて言い放つ。

「誰かの命令で、血の通った命をただの兵器として終わらせていいはずがない。人間の命を使い捨ての燃料にする八ヵ国連合のシステムを、僕は絶対に認めない。お前をここで見捨てるのは、奴らのやり方を認めるのと同じことだ」

アッシュの瞳に、わずかな波紋が広がった。

連合の冷たい実験施設で感情を焼き切られて以来、彼に与えられたのは「命令」と「結果」の二つだけだった。敵は排除し、味方は利用する。そこに「誰かを助けたい」という不確定な熱量が入り込む余地はなかった。彼が知る世界は、常に冷徹な数字と無機質な評価だけで構成されていた。

だが、目の前にいるこの男は、自らの命を危険に晒してまで、敵である自分を助け出した。

その圧倒的な矛盾と、掌から伝わってくる白銀の熱が、アッシュの冷え切った内側をかすかに、だが確実に揺さぶっていた。まるで、凍りついた湖の底に、一滴の熱い雫が落ちたかのように。

「……不合理だ。そのような感情は、戦場ではただのかせにしかならない。枷を抱えたままでは、目標を排除できない」

「枷で上等だ。僕たちはその重さを背負って、世界をあるべき姿に戻すために戦っているんだ。痛みも、悲しみも、すべてを背負って前に進む。それが生きるってことだ」

ゼノリスは泥に塗れた黒い剣を握り直し、足の痛みをこらえながらゆっくりと立ち上がった。遥か頭上の崖の上からは、絶え間なく雷鳴が轟き、仲間たちが雷獣と激しい死闘を繰り広げている気配が、空気の震えとなって伝わってくる。

「……立てるか。……お前の名前は?」

「……個体識別名、アッシュ」

「そうか、アッシュ。お前の命は僕が拾った。なら、その命の使い道は、誰かの命令なんかじゃなく、今度は自分自身で決めろ」


 一方、ゼノリスたちが落下した崖の上では、残された九人の星屑の騎士たちが、古代の魔獣『雷獣』の圧倒的な暴力に晒されていた。

ズゴゴゴゴゴ……!

雷獣が赤い瞳を光らせて咆哮を上げるたびに、渓谷を覆う分厚い雷雲から何十本もの落雷が雨のように降り注ぐ。青白い紫電が岩肌をドロドロのマグマに変え、強烈なオゾンの匂いと焦げた土の悪臭が立ち込めていた。

「……来るぞ!魔力収束のピークだ! 」

ガイルが右目の眼帯を押さえ、解析眼アナライズを極限まで光らせて叫ぶ。彼の視界には、雷獣の体内に蓄積されていく規格外の魔力エネルギーが、真っ赤な致死量の波形として表示されていた。

「俺の後ろから離れるな!」

テオが前線に躍り出て、凄まじい踏み込みで岩盤を砕きながら漆黒の重盾を真っ向から構える。雷獣の口から放たれた雷撃が、周囲の空気をプラズマ化させながら、容赦なく彼らを飲み込もうと迫る。

「雷撃の物理的な圧力を逸らします! 『清らかなる重圧のグラビティ・ヴェール』!」

 セレスティアが聖杖を横に薙ぎ、テオの盾の表面に重力を歪める見えない被膜を展開した。

「なら、私は衝撃を吸収する網を! 『黄金の茨』!」

フィリーネが両手を地面に押し当てると、テオの背後から無数の黄金の茨が編み込まれるように隆起し、巨大なクッションとなって彼の身体を後ろから支え込んだ。

直後、雷撃と防衛陣が激突し、凄まじい閃光が周囲を真っ白に染め上げた。

「がぁぁぁっ……!」

テオが牙を剥き出しにし、顔を歪める。盾を通して伝わる熱量が彼の皮膚を焼き、背後で彼を支える『黄金の茨』のクッションが、圧倒的な熱量に耐えきれずに次々と炭化していく。九人の魔力を結集させてもなお、三千年の眠りから覚めた楔の守護者の力は底知れなかった。重力を歪める見えない被膜が限界を迎えてミシミシときしみを上げ、凄まじい物理的圧力が彼らの体力を容赦なく削り取っていく。

「……ナディア! 敵の攻撃の死角はないの!?」

イリスが灰色の幻惑魔法で雷獣の視界を揺さぶり、照準をわずかに狂わせながら叫ぶ。

「探してるわ! でも、あの巨体全体が分厚い雷の魔力装甲で覆われている。……今のままじゃ、こっちの攻撃を内部に叩き込む隙間が全くない!」

ナディアは黄金の羅針盤を握りしめ、雷獣の魔力流の綻びを必死に読み解こうとしていた。針は狂ったように回転し、弱点となる座標を特定できずにいる。

その時、カシムが影の中から飛び出し、雷獣の側面の死角に回って無数の黒い刃を放った。しかし、刃は装甲の表面に流れる高圧の紫電に触れた瞬間に、チリッと音を立てて蒸発してしまう。

「チッ……硬すぎる上に、近接攻撃じゃ触れることすらできねえ!」

カシムが舌打ちをし、再び影の中へと後退する。

「装甲を穿つには、遠距離から一点に極大の魔力を集中させる『狙撃』が必要だ! でも、今の僕たちの装備と陣形じゃ、あの分厚い雷の壁を撃ち抜けない!」

ルカスが魔導デバイスを操作しながら悔しげに叫んだ。

雷獣の次なる攻撃が充填されつつある。有効な反撃手段を持たない絶体絶命の状況下、若き戦士たちは己の限界を超え、雷鳴と閃光が吹き荒れる崖の上で、ただひたすらに決死の防衛線を支え続けていた。


「……命令、ではなく。私自身の、意志」

冷たい泥濘ぬかるみの中で、アッシュはゆっくりと自らの両手を見つめた。

これまでの彼であれば、助かる見込みがないと計算した時点で、ただ死を待つか、敵を道連れに自爆する道を選んでいたはずだ。しかし今、彼の胸の奥でくすぶっているのは、冷徹な計算式には存在しない未知の熱量だった。

目の前の男――ゼノリス・ルーツは、自らの命を懸けて自分を救い、そして「兵器」ではなく「人間」として立ち上がることを求めた。その圧倒的な不合理が、焼き切られたはずの彼の感情の奥底に、忘れかけていた小さな火を灯していた。

「……行くぞ。僕の仲間たちが、崖の上で待っている」

ゼノリスが短く声をかけ、垂直に切り立った崖の岩肌へと手をかけた。ゼノリス自身も無傷ではない。落下時の凄まじい衝撃で膝と足首の筋肉は断裂に近い状態にあり、一歩登るごとに激痛が走っているはずだ。だが彼は、右手の星の刻印から白銀の魔力を放出し、岩盤に指を食い込ませながら執念で登っていく。

アッシュはその後ろ姿を見上げ、傍らに落ちていた長大な魔導狙撃銃を拾い上げた。 「……理解、不能。……」

彼は折れた骨が軋む痛みに顔を歪めながらも、自らの足で立ち上がり、ゼノリスの背中を追って岩肌へと手を伸ばした。

岩を掴み、身体を引き上げるたびに、折れた肋骨が肺を突き刺すような鋭い激痛が走る。

だが、アッシュにとってその「痛み」は、不思議と不快なものではなかった。誰かの命令で使い潰されるための傷ではなく、自らの意志で一歩を踏み出しているという、初めて実感する「生きている」手応え。それは、彼が連合の実験施設で心を殺されて以来、とうの昔に失っていたはずの、血の通った人間の感覚であった。


 だが、その静かな命の芽吹きをかき消すように、遥か頭上からは天地を揺るがす轟音が降り注いでいる。崖の上で死闘を繰り広げる星屑の騎士たちは、今にも押し潰されそうな防衛線を、血を吐くような思いで支え続けていた。

ズゴゴゴゴゴ……!

古代の魔獣『雷獣』が、赤く発光する瞳をぎらつかせ、口内に蓄積させた雷撃を容赦なく薙ぎ払うように放った。

「耐えろぉぉぉッ!」

前線に立つテオが、漆黒の重盾を構え、全身の筋肉を極限まで硬化させて迎え撃つ。

「重力被膜、最大展開ッ! 『清らかなる重圧のグラビティ・ヴェール』!」

セレスティアが白銀の聖杖を掲げ、空間を歪めて雷撃の破壊的な物理圧力を逸らす。

「茨のクッション、持ち堪えなさい! 『黄金の茨』!」

フィリーネがテオの背後から無数の黄金の茨を編み上げ、凄まじい衝撃を吸収するための分厚い壁を作る。

だが、三千年の眠りから覚めた楔の守護者の暴力は、若き戦士たちの予想を遥かに超えていた。

「がぁぁぁっ……!」

テオが顔を歪め、後ずさるまいと石畳に食い込ませた足から鮮血が滲む。重力を歪める見えない被膜が限界を迎えてミシミシと軋みを上げ、テオの背後で衝撃を吸収していた黄金の茨のクッションが、圧倒的な熱量に耐えきれずに次々と炭化していく。

「……ダメだ、このままじゃ防衛陣が持たない!」

カシムが影の中から悲痛な声を上げる。

「私が風で、押し返す……!」

リィンが愛刀にエメラルド色の魔力を圧縮し、全力で暴風の刃を放った。だが、雷獣の喉の奥で渦巻く莫大なエネルギーの奔流に触れた瞬間、彼女の放った風の刃は、ただのそよ風のように呆気なく飲み込まれ、かき消されてしまった。


防戦一方の絶体絶命の危機。誰もが死の足音を聞いた、その時だった。

崖の縁から、泥に塗れた手が勢いよく伸び、雨に濡れた岩盤を強く握りしめた。

「……待たせたな、みんな!」

激しい雷雨の中、崖を登り切ったゼノリスが、息を切らしながらも黒い剣を握りしめ、仲間たちの前に姿を現した。

「ゼノリス!」

「お兄様!」

泥と血に塗れたリーダーの帰還に、限界を迎えていたテオやフィリーネの顔に希望の光が差す。

「無事だったのね! でも、今こっちは最悪の状況よ!」

ナディアが羅針盤を掲げながら叫ぶ。

雷獣は次なる雷撃を放つべく、その喉の奥ですべてを灰に変える魔力を収束させ終えようとしていた。

「ああ。……でも、反撃の切り札は連れてきた」

ゼノリスが道を譲るように一歩横へ退くと、少し遅れて崖の縁から、もう一つの影が静かに這い上がってきた。

雨に濡れた雪のような白い髪。無機質だった瞳に、微かながらも確かな「意志の炎」を宿した青年、アッシュだ。

「……なっ、あいつは連合の狙撃手!」

ガイルが解析眼アナライズを光らせて警戒し、仲間たちも一斉に息を呑む。さっきまでゼノリスと殺し合っていた強敵の突然の登場に、誰もが緊張を走らせた。

だが、アッシュは星屑の騎士たちには目もくれず、背中に負った長大な魔導狙撃銃を静かに構え、咆哮を上げる巨大な雷獣へと真っ直ぐに銃口を向けた。

その淀みない洗練された狙撃姿勢に、ルカスがハッと目を見開く。

「……そうか! あのバカでかい装甲を穿つための、一点集中の『狙撃』……彼なら、それを撃ち抜ける!」

 アッシュは無言のまま、折れた肋骨の痛みを無視して泥だらけの地面に伏せ、洗練された狙撃姿勢をとった。雨粒が冷たい銃身を打ち据える中、彼の瞳はスコープ越しに、雷獣の分厚い魔力装甲の一点――魔力流の微かな綻びを真っ直ぐに見据えている。

「……目標、古代の魔獣。……命令ではなく、私自身の意志で、道を拓く」

アッシュの口から紡がれたのは、かつてのような機械的な言葉ではなかった。感情を奪われた彼が、ゼノリスの熱に触れ、初めて自らの手で選び取った「未来への引き金」。

雷鳴が轟く絶望の崖の上で、かつての敵は、若き星屑の騎士たちと共に、反撃の銃口を真っ直ぐに突きつけたのである。

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