第七話 製薬会社社長 殺人事件
庁舎を出た瞬間、目の奥の痛みがわずかに軽くなった気がした。
須崎透は、警備企画課に香山と林が配属されてからというもの、毎日胃痛に悩まされている。
今日も一日、香山の頭は現実より三歩先を行き、林の耳はその三歩後ろにいた。
佐藤や岡田は、香山が放る書類をさばくだけで手一杯である。
彼ら四人を繋ぎ止めるのが、須崎の役目だった。
香山と林はどちらも人当たりがよく、顔立ちも整っている。しかし、身長と根本は決定的に違っていた。
スーツの襟を指で緩め、自家用車に乗り込む。
座席に身を預け、今日もこの国が静かに回っていることに、かすかな安堵を覚えた。
胸ポケットでスマートフォンが震えた。
確認すると、見知らぬ番号からのSMS。
──『夜分遅くに失礼します。香山さんについて相談があります。明後日、──町の喫茶店に来ていただくことは可能ですか。佐田詩織』
須崎の眉間に皺が寄る。以前、彼女に渡した名刺。まさか本当に使われるとは考えていなかった。
「……また、あの人か」
香山──。眼鏡のレンズに映ったその並びは、公務外ではいちばん目にしたくない文字列だった。
とはいえ、自分から渡した名刺だ。無視するわけにはいかない。
放置して、後から厄介事に巻き込まれるの避けたかった。よって、須崎ができる返答は、同意しかない。
それにしても、前回とは印象がまるで違う。
以前の彼女からは想像できないほど、礼儀正しい文面だった。
須崎は、彼女を高圧的で、大人を小馬鹿にした少女──だと思っていた。
彼女は、本来礼儀正しく、律儀のある人間なのかもしれない。
思春期に、あのような形で製薬会社のトップである父親を失っているのだ。特に、”思春期の子ども”は些細な事でも簡単に歪む。
きっと、今頃彼女の家の仏間には、見知らぬ社名の香典袋いくつも並び、留守電には「担当者さま」が溜まる。
金持ちには金持ち特有の、面倒なしがらみが存在する。
親戚、マスコミ、──男との同居。
どの現実も十代の少女には重すぎて、考えるだけで目眩がしてくる。
直接手は貸せない。
けれど、話を聞くくらいなら須崎にもできる。
願いを断って、彼女が再びあのときのような行動に出て、
事件に発展する──それだけは避けたかった。
短く了承を打ち、ナビに手を伸ばす。
「──町、──番地、喫茶ルノワール。ここか」
助手席に投げたスマホが、再び震えた。
画面には「父」の文字。
須崎は一瞬だけ視線を向けたが、スマホに触れる事はなかった。
それが、彼にできる精一杯の反抗だった。
〇〇〇
土曜の昼下がり。
スラックスにシャツという、仕事気分が抜けきらない格好で、須崎は喫茶店へ訪れた。
昼食の時刻を過ぎているため、客はまばらだ。
軽く店内を見渡すと、陽当たりのいい窓際のボックス席に案内された。
十五分ほどして、詩織が姿を見せる。
「ごめんなさい。お時間作っていただいたのに、お待たせしてしまって」
彼女はこの前とは打って変わって、育ちの良さを感じさせる襟付きのワンピースを着ていた。
クラシックなデザインに、光沢のある紺。落ち着いた色合いが、彼女を聡明に見せる。
「いや、自分もいま来たばかりなので」
須崎は、珍しく微笑んで優しい嘘をついた。
二人は窓辺の暖かな席で、向かい合って座った。
須崎はいつものホットコーヒーを、彼女はレモンティーを注文する。
「今日はお時間を作っていただき、ありがとうございます」
詩織は会釈をして、淡々と続けた。
「香山さんのことで、お聞きしたいことがあるんです」
須崎はカップを口につけようとして止める。
彼は香山と特別に親しいわけでもない。共通点といえば、通っていた高校が同じであること、そして今、同じ職場にいることくらいだった。
「職務違反にならない範囲でなら答える。......だが、職場以外での香山さんはまったく知らない」
「大丈夫です。……私の父が亡くなった日、香山さんが、何時まで庁舎にいたかを知りたくて」
彼女の父親が亡くなった日、確か2週間前ほど前の金曜日だったはずだ。その日の事を須崎はよく覚えている。
「確か、君のお父さんが亡くなったのは二週間ほど前の......」
「金曜日です」
「確かその日は、大きな案件が終わってうちの部署の人間は全員早めに退庁した。香山さんが退庁したのは、午後十時過ぎだった」
その日のことは記憶に残っている。海外の要人の訪日案件が終わり三週間ぶりに全員が日付を越えずに帰る事ができた日だった。
佐藤達が香山を飲みに誘ったが、香山はそれを珍しく断っていたのを須崎は覚えている。
「お待たせしました」
初老の女性がお盆に、コーヒーとレモンティーを載せて現れる。
「ありがとうございます」
詩織は軽く頭を下げる。
初老の女性は、茶目っけのある雰囲気をまとっていた。
ふたつのカップを机に置き、須崎と詩織に尋ねる。
「もしかして、ご兄妹?仲が良いのね」
「いえ、ただの知り合いです」
須崎が苦笑すると、店員は口元を手で押さえて目を丸くした。
「あら、ごめんなさい。雰囲気が似てたものだから。――ごゆっくり」
店員は気まずそうに伝票を置いて去っていく。
「そんなに私、老けて見えますかね」
詩織は初老の女性を目で追いながら須崎に訊く。須崎は鼻を鳴らし、コーヒーを含んで言った。
「この前は“私を幼稚って言いたいの”って俺に噛みついてただろ」
「私、十四ですよ。二十歳そこそこに見えるのと、二十代後半に見えるのじゃ話が違います」
十四歳に乙女心を説かれる三十路の男。
これだから結婚できないんだ。とでも言われかねないだろう。
彼には三歳離れた妹がいる。詩織の、幼く見られたくないが、老けても見られたくない──。そんな女性特有の気難しさが、須崎に”中高生だった頃の妹”を彷彿とさせた。
「そうだな──」
湯気で妹の記憶が途切れたところで、詩織が本題を切り出した。
「話を戻しますが、私の父の死にーー香山さんが関わっているんです」
口の中のコーヒーが途端に苦く感じ、舌を灼かれたような感覚に陥った。須崎は指の力が抜け、カップを落としかけた。詩織に尋ねる。
「君の父ーー佐田頼仁の死に、なぜ香山さんが関わってるんだ。そもそも、君と香山さんはいったいーー」
詩織を車に乗せた日から須崎は、詩織と香山の関係を疑問に思っていた。
なぜ、官僚の彼が、製薬会社社長の娘と暮らしているのか。聞きたくても聞けずにいた。
詩織はゆっくりと口を開く。
「彼、父の製薬会社の親会社を経営する男の息子なんです。私と彼は遠戚関係にあたります」
須崎の唇が震える。畏怖からの本能的な身震いだった。
「佐田製薬の親会社って、香山化学じゃ......」
「そうです、でも彼は”香山化学社長の息子”ではありません。”香山ホールディングス会長の息子”です」
つまり、香山慎之介は財閥当主の息子である。
“香山”という姓や佇まいから、旧財閥の香山家に縁がある事は想像していた。だが、当主の子息とまでは思わなかった。
職場で見慣れたあの微笑が、急に過去の教師や父親の顔と重なる。
仕立てのいいスーツ、減らない靴底、食事の所作、学歴──須崎が食いしばって、血の滲むような努力をして手に入れてきたものを、彼は最初から持っている。
須崎は無意識に、香山を自身と同列に置いていた。しかし、隣はおろか、一生かけても辿り着けない高みに立っている事を知ってしまった。
須崎が誇りに思っている国家公務員総合職ーー。“官僚“も香山にとっては”庶民の仕事”でしかなかった。
「財閥の子息が、なんで警察庁なんかに......」
温度差にまだ気づかない詩織が、くすっと笑った。
「私が知りたいくらいです。あの人、いつも上は譲らないくせに、誰かに従うのが好きそう、ですよね」
目の前にいる少女も、きっと華やかな未来が保証されている。
「そんなふざけた理由で──」
須崎は机の下で拳を握りしめた。今までずっと、自分よりすべて勝った男が、優しく微笑みかけてきていたのだ。それは親切でも親愛でもない。恐らく“施し”である。
「須崎さん? 顔色、悪いですよ」
窓の外で、光が一瞬だけ揺れた。
雲が太陽を覆ったのかと思った次の瞬間。
ガラスをコツン、と軽く叩く音が鳴った。
二人は同時に振り向く。
「ねぇ、こんな場所でなにしてるの?逢引き?僕も混ぜて」
ガラス越しの弾むような柔らかい声──。
放課後の公園で友達を見つけた小学生かのような口調だった。
絹糸のように落ちる髪、この世の穢れを知らないような清廉な顔。
“無邪気”という安価なオブラートで包んだ、笑えない冗談。
こちらの事情など知らないふりで、不意に降りかかる夕立のように──。香山慎之介が春の光を背にして立っていた。




