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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵
第二章 製薬会社社長 殺人事件

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8/10

警察庁警備企画課

この国の中枢を支えている人間の多くは、名前が残らない。

警察庁警備局警備企画課で働く──須崎透(すざきとおる)も、もれなくその一人だった。


午前の雑務が一段落した頃、他部署の女性職員が書類を抱えて現れた。

無機質なクリップで止められた紙束が差し出される。その指の薬指では、銀の台座に小粒のダイヤが、窓から差し込む自然光を拾って静かに光っている。


「お疲れ様です。こちら、国家生物防衛技術開発(NBP)プロジェクトにまつわる共有資料です。ご確認次第、香山(かやま)課長補佐に渡しておいてください」


「ありがとう」


形式的なやり取りを交わした瞬間には、もう彼女の視線は須崎から離れていた。

わずかに横へ滑ったその先にいるのは、別の男だ。


つい半年前まで、彼女は同じ課の佐藤に分かりやすく好意を示していたはずだった。

それが今では、頬の温度ごと、あちら側へと向きを変えている。婚約者がいるにも関わらず──。


香山慎之介(かやましんのすけ)

警備企画課の課長補佐であり──彼が歩けば警察庁ですら色めき立つ。


部署が違う女が、彼の前でだけ態度を和らげるのは珍しくない。

食堂でも、廊下でも、エレベーターホールでも。彼が視界に入った途端、周囲の空気だけ粒子の大きさが変わる。


理由は単純だった。

──あの顔だ。


須崎は、女性職員が立ち去るついでに、ちらりと香山の横顔を盗み見るのを目の端で捉えた。

ここ最近、見飽きるほど繰り返されてきた日常の一コマだ。


(毎日、同じ反応だな)


手元の書類へ視線を落とす。

こんなものPDFで事足りる──入庁当初はそう思っていた。だが、提出先が紙を崇拝している限り、これらの束がデジタル化される日は来ない。


短く息を吐き、やたら分厚い書類の一枚目をめくった、そのとき。


庁舎全体に昼を告げるチャイムが鳴り響いた。


最初に反応したのは、いつも真っ先に騒ぐ林ではなく、香山だった。


「僕、自販機行ってくるね」


立ち上がった香山は、指先でスーツの皺を軽く伸ばす。

須崎よりも長時間働いているはずなのに、その姿に疲労の影はほとんどない。動きに無駄がなく、立ち姿には生まれつきの品の良さが滲んでいた。


──ただ、一点だけ。

優美な男に似つかわしくないものが、袖口の隙間から覗いた。


手首の内側に、淡く残るあざのような跡。


見間違いではない。

着いてから日が浅い、色の沈み方だった。


(……また増えてるな)


誰に殴られたのか。何に巻き込まれているのか。

問いは浮かんだが、口に出すことはない。

この男は、自分の身を守る術も、危険に踏み込む手段も知っているはずだ。そのうえで刻まれている痕だとしたら──そこに第三者が立ち入る余地は、ほとんどない。


通りがかった若い女性職員が、俯き加減に声をかけた。


「お疲れ様です」


言い終えるより早く、彼女は何かをごまかすように小走りでその場を離れていく。


「お疲れ様」


香山は、柔らかく微笑んだ声で返した。

その一言が通り過ぎたあと、彼だけを中心にしていた視線と熱気が、嘘のように引いていく。


香山がフロアから姿を消した瞬間、警備企画課の空気は、ようやく仕事場の温度に戻った。


鼻で笑ったのは岡田だった。眼鏡を軽く押し上げながら、モニターから目を離さずに言う。


「……あんないい歳した男の青春劇を、平日の昼に毎日見せられるとか。国家公務に対する嫌がらせだろ」


向かいの席で頬杖をついていた林が、ケラケラと笑う。


「岡田さん、嫉妬で視界が濁ってる〜。絶対、昼ドラ観てるでしょ」


「観てねえよ。俺の知能が腐る」


ふたりの軽口が飛び交ったタイミングで、椅子が後ろへグッと引かれた。

佐藤が左右の背もたれをそれぞれ片手で掴んで立っている。


「今日の日替わり定食、角煮らしいよ」


その一言に、須崎の意識が書類から現実に引き戻された。


「今日は和食堂に行くのか?」


警察庁の入っている中央合同庁舎第二号館には、食事を提供する施設が四つある。

そのうち、日替わり定食を出すのは地下の和食堂だけだ。


食事が出てくるのを待つのが面倒な須崎は、普段は社食をあまり利用しない。

ただ、今日はコンビニに寄る時間が無かった。昼を逃せば、次にまともな食事にありつけるのは何時間先になるか分からない。


林が急に椅子から跳ね上がった。

普段の業務では決して出ない速さだった。


「須崎さん! 急ぎましょう! 角煮が死にます!」


その必死さに、須崎は一瞬だけ現実を疑う。


(角煮は死なない。煮物だ)


「死にはしないけど、売り切れはするな」


佐藤が笑い、岡田が呆れたように肩をすくめる。


「林の脳内じゃ、唐揚げも呼吸してそうだな」


林は堂々と胸を張った。


「呼吸してます!!」


本気で言っているあたりが、林の若さと素直さの象徴だった。

食欲だけでなく、業務への熱量も同じくらいあれば言うことはない。


須崎は、そんな林に当てられるでもなく、事実だけを口にする。


「俺は角煮より焼き魚定食がいい」


その瞬間、林がゆっくりと振り返った。“理解不能”という表情が、童顔いっぱいに広がる。


(……焼き魚の方が胃に優しいだけなんだが)


須崎は心の中でだけ、静かに言い訳しておいた。









林を先頭に廊下へ出ると──視線の流れを遮るものがあった。


女、女、女。

不自然な人集り。しかも全員、妙に艶っぽい。ここだけ湿度が三段階くらい上がっている。


「……庁舎でイベントなんてありましたっけ?」


佐藤が首を傾げる。


(あるとしたら、防災訓練くらいだろ)


だが、これは違う。

女性たちは皆、同じ方向を見つめ、スマホを握りしめている。


林が、ほとんど声にならない声量で呟いた。


「……人間にも発情期ってあるんですね」

「おい林、相手は職員だ。一応、人間扱いはしてやれ」


岡田の冷静なツッコミが飛ぶ。


群れの中心に──香山。


女性たちに囲まれ、逃げ場を失ったように肩をすくめている。


「ん……そんなに近づかれると……。だめだよ、息が……苦しい……」


かすれた声とともに、空気が一瞬、甘く溶けた。


須崎は眉をひそめる。


(呼吸は普通にできてるだろ。むしろお前が酸素を独占してる)


香山は視線を伏せ、さらに柔らかく笑った。


「ほんと……庁舎で、こういうの……困るんだけどな……」


(“こういうの”って何だ。ここ、国の中枢機関なんだが?)


苛立ちを感じ始めている須崎の横で、岡田が腕を組む。


「全員まとめてセクハラ案件で処理したいところだが……被害者の顔が一番ややこしいんだよな」


林だけが、なぜか感動したように拍手していた。


佐藤は腕時計をちらりと見て、渋い顔をする。


「もうこんな時間か。急がないと、マジで昼飯逃しますよ」


(それはまずいな)


須崎は、人の隙間を縫うように一歩踏み出した。


「放っておこう。あれは生まれ持った才能だ。俺たちでどうにかできる類のものじゃない」


なにより──このあとの十時間近く、まともな食事を取れない可能性の方が現実的な脅威だ。


岡田も、須崎の横に並んで歩き出す。


「はい、満場一致。俺たちにできるのは、被害半径から離れることだけですね」


後ろで林が元気よく騒ぐ。


「あれで“人に興味ないんだよね”って言いますからね! 嘘すぎ!」


佐藤が、その横で苦笑まじりに釘を刺した。


「林、それ声デカい。庁舎で言っていい内容じゃないから」


そんな三人の会話が耳に届いたのか、香山がふいにこちらを向いた。

“今気づきました”という仕草で、柔らかく手を振る。


「……須崎くん?」


その瞬間、取り巻きの女性陣が一斉にざわめいた。


「今、“須崎くん”って……」

「え、名前呼び……?」


視線が痛いほど突き刺さる。


須崎は、無表情のまま低く呟いた。


「……撤退するぞ。今なら巻き込まれずに済む」


岡田が目を丸くする。


「須崎さんが逃げの選択って、なかなかレアですね」


「じゃあ急ぎましょう! あれは半径五メートルが危険地帯です!」


林は、すでに逃走態勢に入っていた。


佐藤も静かに頷く。


「賢明な判断ですね。昼飯食べ損ねたら、午後の能率に直結しますから」


四人は足並みを揃え、香山の“モテ災害ゾーン”から距離を取るように廊下を進んだ。


その背中を追いかけるように、甘ったるい声が伸びてくる。


「すーざきーくーん……?」


須崎の足が、ほんの一瞬だけ鈍った。


「……完全にわざとだな」


佐藤が苦笑しながら肩をすくめる。


「須崎さんに構ってほしいときの声ですよ、あれ。犬の“遊んで”と同じ顔してました」


林は、なぜか誇らしげに親指を立てた。


「須崎さん! 今日、無事に生還ですよ!」


須崎は、少しだけ肩を落として答える。


「“生還”じゃない。“危険を回避した”だけだ」


四人はそのまま、昼休みの喧騒へと歩き去る。

背後にはまだ、名を呼ぶ甘い声の余韻と──袖口から覗いた、あざの色だけが、妙に生々しく頭に残っていた。

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