番外編 必然的な関係。
本編に関係ない須崎のショートです。
「私よりあの子が好きなんでしょ!」
彼女の鋭い声が耳に突き刺さり、直後、頬に強烈な痛みが走った。眼鏡が吹っ飛び、床にカツンと音を立てて落ちる。
痛みは確かに感じたが、それ以上に彼女の言葉が胸に重くのしかかった。
半年前、同い年の彼女と交際していた。きっかけは中学の同窓会での再会だった。あの時、懐かしさから連絡先を交換し、その後頻繁にやり取りするようになった。
3度目のデートで彼女から告白を受けたが、最初は断った。理由は二つある。一つは、自分の職業を偽ることによる罪悪感。もう一つは、彼女が自分より遥かに稼いでいるという事実が、自分には恐れ多かった。
彼女は開業医で、警察庁にキャリアで入った自分の数倍の収入を得ているらしい。自分は彼女に、中小企業の会社員だと嘘をついた。
それでも彼女は「職業なんて関係ない」と猛アタックを続けてきた。その熱意に押され、結局自分が折れる形で交際が始まった。
彼女との時間は楽しかった。美人で、博識で、会話も面白く、料理まで上手い。非の打ち所がない女性だった。
だが、自分には隠し事があった。警察庁での仕事は、時に私生活を犠牲にするものだ。それを彼女に明かすことはできなかった。
彼女と長く居れば居るほど、彼女から他に女がいる事を疑われた。仕方がない。
警察庁が監視している犯罪組織に動きがあればあるほど帰ることができなくなる。急な召集がかかり、デートをドタキャンする事だってあった。
国家公務員の私生活などあってないような物だ。彼女の不信感は募り、俺の帰宅が遅い夜には、玄関先で鋭い視線が待っていたこともあった。
ある日、事件が起きた。
警視庁公安部が、学生を中心としたテロ組織が生物兵器を製造しているとの情報を入手した。俺は上司の香山さんと連携し、
彼が高校生に扮して組織に潜入する作戦をサポートする役割を担った。自分の任務は、香山さんとホテル近くで合流し、内部で情報を受け取り、本庁へ戻ることだった。
だが、そのホテルに入る瞬間を、運悪く彼女に見られてしまった。連日働き詰めで注意散漫になっていた、自分はそれに気づかなかった。
繁華街で偶然居合わせた彼女の目に映ったのは、自分の彼氏が制服姿の「高校生」と、いかがわしいホテルに入っていく姿だ。誤解で誤魔化せるような内容ではなかった。
本庁での書類仕事を終え、疲れ果てて帰宅した夜、彼女が「話したい」とやって来た。玄関の扉が閉まるや否や、彼女は鬼のような形相で俺の頬を叩く。
「私よりあの子が好きなんでしょ!」
衝撃で眼鏡が再び吹っ飛び、床に転がった。あの場面を見られたのか、と悟った瞬間、無意識に頭の中で彼女と仕事を天秤にかけた。
「ああいう子だよ。別に説明しなくたって分かるだろ」
結局、自分は彼女に見捨てられるよりも、香山さんに見捨てられる方が怖かった。玄関の狭い空間に彼女の荒い息遣いが響き、俺の言葉が虚しく反響する。
「あんな場所でなにしてたのよ!私よりあの子の方がいいって言いたいの!」
彼女は声が震え、目は怒りで揺れていた。彼女の言葉に胸が締め付けられたが、彼女の言っていることは、悲しくも確信をついていた。
「あんな場所でなにをするかは決まってるだろう。良いかどうか?君と比べるのも失礼なくらいだ」
とんでもなく失礼な言い回したが、微々たる自分の本心が混じっていた。
「ふざけないでよ!」
彼女の声がさらに鋭くなり、次の瞬間、拳が私の鼻に直撃した。鈍い衝撃と、ゴッという音。鼻から生温かい液体が流れ出し、部屋着に赤い染みが広がる。
指先で鼻を抑えると、血のぬめりが伝わり、鉄のような臭いが鼻をついた。彼女を見ると、彼女の目は涙で潤んでいた。怒りと悲しみが混じった表情が薄暗い玄関の壁に映る彼女の影と重なり、揺れているように見えた。
彼女は振り返り、この場を静かに去っていく。扉が閉まる鈍い音が響き、彼女の足音が遠ざかった。もう2度と会うことはないだろう。この家も引き払って新しい家を探さなければいけない。
俺はその場に座り込んだ。香山さんに今回のことを報告すれば叱責してくれるだろうか、いや、失望するだろう。
彼が自分を切り捨てるかもしれないという、不安が喉を締め上げ、彼の無言の拒絶が現実になる恐怖に体が震え、逃げ場のない思いに囚われていた。
もう1話、詩織と香山のショートを挟んで修加学院編に入ります。