警察庁警備企画課
この国の中枢を支えている人間の多くは、名前が残らない。
警察庁警備局警備企画課で働く──須崎透も、もれなくその一人だった。
午前の雑務が一段落した頃、他部署の女性職員が書類を抱えて現れた。
無機質なクリップで止められた紙束が差し出される。その指の薬指では、銀の台座に小粒のダイヤが、窓から差し込む自然光を拾って静かに光っている。
「お疲れ様です。こちら、国家生物防衛技術開発プロジェクトにまつわる共有資料です。ご確認次第、香山課長補佐に渡しておいてください」
「ありがとう」
形式的なやり取りを交わした瞬間には、もう彼女の視線は須崎から離れていた。
わずかに横へ滑ったその先にいるのは、別の男だ。
つい半年前まで、彼女は同じ課の佐藤に分かりやすく好意を示していたはずだった。
それが今では、頬の温度ごと、あちら側へと向きを変えている。婚約者がいるにも関わらず──。
香山慎之介。
警備企画課の課長補佐であり──彼が歩けば警察庁ですら色めき立つ。
部署が違う女が、彼の前でだけ態度を和らげるのは珍しくない。
食堂でも、廊下でも、エレベーターホールでも。彼が視界に入った途端、周囲の空気だけ粒子の大きさが変わる。
理由は単純だった。
──あの顔だ。
須崎は、女性職員が立ち去るついでに、ちらりと香山の横顔を盗み見るのを目の端で捉えた。
ここ最近、見飽きるほど繰り返されてきた日常の一コマだ。
(毎日、同じ反応だな)
手元の書類へ視線を落とす。
こんなものPDFで事足りる──入庁当初はそう思っていた。だが、提出先が紙を崇拝している限り、これらの束がデジタル化される日は来ない。
短く息を吐き、やたら分厚い書類の一枚目をめくった、そのとき。
庁舎全体に昼を告げるチャイムが鳴り響いた。
最初に反応したのは、いつも真っ先に騒ぐ林ではなく、香山だった。
「僕、自販機行ってくるね」
立ち上がった香山は、指先でスーツの皺を軽く伸ばす。
須崎よりも長時間働いているはずなのに、その姿に疲労の影はほとんどない。動きに無駄がなく、立ち姿には生まれつきの品の良さが滲んでいた。
──ただ、一点だけ。
優美な男に似つかわしくないものが、袖口の隙間から覗いた。
手首の内側に、淡く残るあざのような跡。
見間違いではない。
着いてから日が浅い、色の沈み方だった。
(……また増えてるな)
誰に殴られたのか。何に巻き込まれているのか。
問いは浮かんだが、口に出すことはない。
この男は、自分の身を守る術も、危険に踏み込む手段も知っているはずだ。そのうえで刻まれている痕だとしたら──そこに第三者が立ち入る余地は、ほとんどない。
通りがかった若い女性職員が、俯き加減に声をかけた。
「お疲れ様です」
言い終えるより早く、彼女は何かをごまかすように小走りでその場を離れていく。
「お疲れ様」
香山は、柔らかく微笑んだ声で返した。
その一言が通り過ぎたあと、彼だけを中心にしていた視線と熱気が、嘘のように引いていく。
香山がフロアから姿を消した瞬間、警備企画課の空気は、ようやく仕事場の温度に戻った。
鼻で笑ったのは岡田だった。眼鏡を軽く押し上げながら、モニターから目を離さずに言う。
「……あんないい歳した男の青春劇を、平日の昼に毎日見せられるとか。国家公務に対する嫌がらせだろ」
向かいの席で頬杖をついていた林が、ケラケラと笑う。
「岡田さん、嫉妬で視界が濁ってる〜。絶対、昼ドラ観てるでしょ」
「観てねえよ。俺の知能が腐る」
ふたりの軽口が飛び交ったタイミングで、椅子が後ろへグッと引かれた。
佐藤が左右の背もたれをそれぞれ片手で掴んで立っている。
「今日の日替わり定食、角煮らしいよ」
その一言に、須崎の意識が書類から現実に引き戻された。
「今日は和食堂に行くのか?」
警察庁の入っている中央合同庁舎第二号館には、食事を提供する施設が四つある。
そのうち、日替わり定食を出すのは地下の和食堂だけだ。
食事が出てくるのを待つのが面倒な須崎は、普段は社食をあまり利用しない。
ただ、今日はコンビニに寄る時間が無かった。昼を逃せば、次にまともな食事にありつけるのは何時間先になるか分からない。
林が急に椅子から跳ね上がった。
普段の業務では決して出ない速さだった。
「須崎さん! 急ぎましょう! 角煮が死にます!」
その必死さに、須崎は一瞬だけ現実を疑う。
(角煮は死なない。煮物だ)
「死にはしないけど、売り切れはするな」
佐藤が笑い、岡田が呆れたように肩をすくめる。
「林の脳内じゃ、唐揚げも呼吸してそうだな」
林は堂々と胸を張った。
「呼吸してます!!」
本気で言っているあたりが、林の若さと素直さの象徴だった。
食欲だけでなく、業務への熱量も同じくらいあれば言うことはない。
須崎は、そんな林に当てられるでもなく、事実だけを口にする。
「俺は角煮より焼き魚定食がいい」
その瞬間、林がゆっくりと振り返った。“理解不能”という表情が、童顔いっぱいに広がる。
(……焼き魚の方が胃に優しいだけなんだが)
須崎は心の中でだけ、静かに言い訳しておいた。
林を先頭に廊下へ出ると──視線の流れを遮るものがあった。
女、女、女。
不自然な人集り。しかも全員、妙に艶っぽい。ここだけ湿度が三段階くらい上がっている。
「……庁舎でイベントなんてありましたっけ?」
佐藤が首を傾げる。
(あるとしたら、防災訓練くらいだろ)
だが、これは違う。
女性たちは皆、同じ方向を見つめ、スマホを握りしめている。
林が、ほとんど声にならない声量で呟いた。
「……人間にも発情期ってあるんですね」
「おい林、相手は職員だ。一応、人間扱いはしてやれ」
岡田の冷静なツッコミが飛ぶ。
群れの中心に──香山。
女性たちに囲まれ、逃げ場を失ったように肩をすくめている。
「ん……そんなに近づかれると……。だめだよ、息が……苦しい……」
かすれた声とともに、空気が一瞬、甘く溶けた。
須崎は眉をひそめる。
(呼吸は普通にできてるだろ。むしろお前が酸素を独占してる)
香山は視線を伏せ、さらに柔らかく笑った。
「ほんと……庁舎で、こういうの……困るんだけどな……」
(“こういうの”って何だ。ここ、国の中枢機関なんだが?)
苛立ちを感じ始めている須崎の横で、岡田が腕を組む。
「全員まとめてセクハラ案件で処理したいところだが……被害者の顔が一番ややこしいんだよな」
林だけが、なぜか感動したように拍手していた。
佐藤は腕時計をちらりと見て、渋い顔をする。
「もうこんな時間か。急がないと、マジで昼飯逃しますよ」
(それはまずいな)
須崎は、人の隙間を縫うように一歩踏み出した。
「放っておこう。あれは生まれ持った才能だ。俺たちでどうにかできる類のものじゃない」
なにより──このあとの十時間近く、まともな食事を取れない可能性の方が現実的な脅威だ。
岡田も、須崎の横に並んで歩き出す。
「はい、満場一致。俺たちにできるのは、被害半径から離れることだけですね」
後ろで林が元気よく騒ぐ。
「あれで“人に興味ないんだよね”って言いますからね! 嘘すぎ!」
佐藤が、その横で苦笑まじりに釘を刺した。
「林、それ声デカい。庁舎で言っていい内容じゃないから」
そんな三人の会話が耳に届いたのか、香山がふいにこちらを向いた。
“今気づきました”という仕草で、柔らかく手を振る。
「……須崎くん?」
その瞬間、取り巻きの女性陣が一斉にざわめいた。
「今、“須崎くん”って……」
「え、名前呼び……?」
視線が痛いほど突き刺さる。
須崎は、無表情のまま低く呟いた。
「……撤退するぞ。今なら巻き込まれずに済む」
岡田が目を丸くする。
「須崎さんが逃げの選択って、なかなかレアですね」
「じゃあ急ぎましょう! あれは半径五メートルが危険地帯です!」
林は、すでに逃走態勢に入っていた。
佐藤も静かに頷く。
「賢明な判断ですね。昼飯食べ損ねたら、午後の能率に直結しますから」
四人は足並みを揃え、香山の“モテ災害ゾーン”から距離を取るように廊下を進んだ。
その背中を追いかけるように、甘ったるい声が伸びてくる。
「すーざきーくーん……?」
須崎の足が、ほんの一瞬だけ鈍った。
「……完全にわざとだな」
佐藤が苦笑しながら肩をすくめる。
「須崎さんに構ってほしいときの声ですよ、あれ。犬の“遊んで”と同じ顔してました」
林は、なぜか誇らしげに親指を立てた。
「須崎さん! 今日、無事に生還ですよ!」
須崎は、少しだけ肩を落として答える。
「“生還”じゃない。“危険を回避した”だけだ」
四人はそのまま、昼休みの喧騒へと歩き去る。
背後にはまだ、名を呼ぶ甘い声の余韻と──袖口から覗いた、あざの色だけが、妙に生々しく頭に残っていた。




