第七話 少女からの不穏なメッセージ
須崎達は無事に地下一階の和食堂にて、昼食にありつけた。
炊き立ての白米、湯気の立つ温かい味噌汁。鰆の塩焼き。
人が作ったまともな食事を食べるのはいつぶりだろうか。須崎は、食堂もたまには悪くない──そう思いながら手を合わせた。
よく味の染みていそうな角煮を美味しそうに頬張る林が、須崎の質素な魚定食を見て話しかけてくる。
「須崎さん角煮にしなくて良かったんですか?もしかして胃がもたれるとか?」
「魚の方が健康に良いからな」
図星を突かれてしまった。須崎以外の三人──林、岡田、佐藤は、全員日替わりの角煮定食を注文している。
須崎とこの三人の間にある壁は年齢だ。
林は二十四歳。岡田と佐藤は二十六歳。
1人だけ健康的な食事をつついている須崎は三十歳である。いつの間にか角煮の脂を重たく感じる年齢になってしまった。
佐藤が呟く。
「そういえば、香山さんが食事してるとこ見た事無いですよね。普段なに食べてるんだろ」
岡田は味噌汁椀を置く。
「霞でも食ってんじゃねぇの」
須崎はその言葉に吹きかけた。吹くのを我慢してむせた。気道に熱い液体が流れ込む。
「......なんだその面白くない官僚ギャグは」
林は若い胃袋で、角煮定食1番先に平らげて笑う。
「香山さん昼になると大体消えますし......。きっと女──」
須崎はお冷を口に含みながら、食堂でしてはならない発言をしかけた林に釘を刺す。
「それ以上喋るな。お前の発言は3手先まで読める」
「酷いですよ須崎さん」
林が椅子の背もたれに身を放った。
彼の反応を見て皆が呆れたように微笑むと、食堂のテレビで暗いニュースを読み上げ始められる。
『続いてのニュースです。
都内の女子中学生(15)が自宅マンションから転落し、死亡しました。
警察によりますと、部屋からは本人が書いたとみられるメモが見つかり、『受験勉強がしんどかった。相談できる人がいなかった』と記されていたとのことです──』
キャスターから、高層マンションの前に複数の黄色い規制線が張られているカットに移った。
須崎の箸を動かす手が止まる。
彼だけではない。箸を動かしていた職員達の手が、数名ほど止まった。
警備企画の須崎を含む三人も、もれなく苦虫を噛み締めた様な顔になっている。林は三人の顔を順々に見て、呆気にとられた顔をしていた。
受験。逃げ場のない苦しさを知っている者ほど、このニュースに反応する。
一番最初に口を開いたのは岡田だ。
「……俺の学校は年に数人いたな」
「言い方考えろよ。さすがに心が痛むだろ」
佐藤の苦笑いに、岡田は失笑で返す。
「お前の学校にもいただろ。受験ストレスから飛び降りる奴の一人や二人」
「まあ、いたけどさ」
林を除く三人は少なからず、受験というものに苦い記憶を抱えているという事だった。須崎にとってそれは、「金をやるからもう一度やれ」と言われても、断る種類の記憶だ。
林は理解できないものを見てしまったような表情で、受験戦争に揉まれた三人の負傷兵に尋ねた。
「え、え? 日本の学校ってそんなに殺伐としてるんすか?」
「日本の学校? 林は“どの国”に学校に行ってたんだ?」
林の日本の学校という、おかしな日本語に違和感を覚えた。まるで、日本以外の学校に通っていたような表現だ。
林は「あぁ!」と手を叩いて答える。
「俺、高校までスイスの寄宿制の学校に!」
林は得意げに「スイスの寄宿制」と口にしたが、その手の学校は、年間の学費だけで高級外車が買える世界だ。
須崎は現実味のない林の話に、ただ呆然とした。
「貴族なのか?林は──」
林は普段の表情に戻し、須崎に尋ねる。
「いやいや。ってか、須崎さんはどんな学生生活送ってたんですか!」
純粋な質問だった。けれど、須崎は答える事をしなかった。お冷に反射する自分の顔を見ながら答えた。
「俺は......普通の学生生活だった。──で、林。お前は前に渡されたNBPの資料読んだか?」
須崎は話題を変える。
「NBPってなんでしたっけ?書類で……名前だけ見た……ような……見てないような……」
岡田が水を飲みながら笑う。
「お前、書類って“文字が羅列された壁紙”だと思ってんだろ」
「そんなことないですよ!?半分くらいは内容覚えてます!」
岡田はNBPの意味を覚えていない林に嫌味ったらしく、懇切丁寧に教えた。
「で、NBPは内閣官房主導の“国家生物防衛技術プロジェクト”だ。ここまで言ってもまだ分からない顔してるのがすげぇよ」
「あ〜〜……National・bio……なんとか? って、この国は生物兵器でも作ってるんですか!?」
林の発音は完璧すぎるほどに完璧だった。むしろ、ネイティブの発音ができて、ここまで馬鹿なのも珍しい。
佐藤は林の頭に手を乗せる。
「英語だけ完成度100なんだよ、林は」
須崎はスマホでネットニュースを見ながら思ったことをそのまま口にした。
「林。発音だけ外交官、理解度は小学生だな」
林は唇を尖らせた。童顔がより誇張される。
「褒めてます?ねぇ褒めてます??」
岡田が全員が思っている事を、言語化した。
「褒めてねぇよ。言語能力と知能指数が、綺麗に他人なんだよお前は」
須崎が林に尋ねる。
「で、NBPを生物兵器だと思ってる理由は?」
「映画だと大体……漏れるじゃないですか。ウイルスが。衛生省とかから」
日本に“衛生省”なんて省庁は存在しない。
映画で漏れるのは、大体どこの国かも分からない影の研究所だ。
そもそも官僚の仕事は、ウイルスを握りしめて走り回ることではない。
岡田は肩を落として項垂れ、ため息まじりに顔だけ林へ向けた。
「日本の省庁を“ゾンビ工場”みたいに言うな。作ったら国際的に即死だっての」
須崎は岡田に心の中で同調する。そもそも、林の親は外務省勤めなのだろう。親の仕事を増やしてどうするんだ──。須崎は林に呆れた。
「え、じゃあ攻撃じゃないんです?」
「攻撃だったらまず林の脳みそに使われただろうな。NBPは防御だ。感染症対策にまつわる国の極秘研究だよ」
佐藤が話を逸らした。
「NBPに関わってる企業は多いですね。佐田製薬とか」
林は佐田製薬という言葉に目を輝かせた。
「あ!可愛い猫のCMのとこ!“にゃんでも治す〜”って──」
岡田は食い気味にツッコミを入れた。
「そこじゃねぇ。猫で国家プロジェクト語るな」
須崎のスマホが、机の上で小さく震えた。
三人の雑談を聞き流しながら、彼はそっと視線だけを落とし、画面を確かめる。
『香山さんについて相談したいことがあります。明後日、——町の喫茶店に来ていただくことは可能ですか。佐田詩織』
画面を見た瞬間、
須崎の視界の端から色が抜け落ちた。
音が遠のき、
食堂のざわめきが薄い膜の向こう側に追いやられる。
気づけばスマホが手の中から落ちていた。
机に当たる直前弾かれたグラスが横倒しになり、薄氷の割れるような乾いた音が響いた。
周囲の視線が一瞬だけ収束する。
だが、須崎には届かない。
喉が詰まり、
呼吸の仕方を忘れたような感覚だけが残る。
「……須崎さん?」
佐藤の声が、妙にゆっくり聞こえた。
須崎は俯いたまま、水の広がる音を眺める。
一滴、また一滴。
“もう戻れない”ことを告げるように、机の縁から滴り落ちていく。
「……手が、滑っただけだ」
言葉は正しく並んでいるのに、
感情がどこにも乗っていなかった。
佐藤が慌ててタオルを取る気配だけが残り、
須崎は遅れて立ち上がる。
椅子が床を擦る音だけが、生々しく耳に残った。
その水跡は、
まるで何かの境界線のように机の表面を走っていく。
この瞬間、須崎は何も知らないまま、規制線を越えるかどうかの選択を迫られていた。




