第5話 愛人
助手席で香山がスマホを自身の膝に叩きつけた。狭い車内に鈍い音が響いて、湿った空気が一瞬重くなった。
「クソ!あの男なに考えてるんだ!」
香山は自身の甘く優美な顔に似合わない怒声を出して、怒りが臨界点にまで達していた。
香山は、ほんの数秒前、伊達眼鏡ごしにスマホでなにかを確認していた。須崎が、ちらっと彼のスマホに視線をやるとメールらしきものを読んでいる事が確認できた。
「ど、どうかされましたか」
普段は冷静な彼が大声を出した事に少し驚いた。上司は舌打ちして答える。
「詩織を預けてきた男が、勝手に彼女の編入先を修加学院にしたんだ」
修加学院というのは須崎と香山の母校だ。
都内随一の名門私立で、幼稚園から高校までの一貫校である。自分は高等部から入ったが、彼は幼稚園から高校まで通っている。
私立は教諭の異動という概念がない上に、香山は自須崎とは違い目立つ生徒だったので、詩織の保護者として学院内に入れば騒がしくなるだろう。
そうでなくても彼の男女問わず目を惹く容姿は目立つ。
「嫌がらせですね...」
香山は今目立ってはいけない仕事についている。少なくとも、詩織の叔父とやらは彼の素性や事情をそこはかとなく知っているはずだ。
それを踏まえた上で、彼が母校に立ち入らなければいけない状況を作るのは意地が悪すぎる。
「どうすればいいんだ...」
赤信号で停車している間、なぜか彼に視線がいった。疲労困憊といった顔の彼は、自身の少し色素の薄い茶色い髪をかきあげた。
彼の長い指をすり抜けた髪が、フロントガラスから差し込む夕日に染められる。その光景に男である須崎すらも見惚れていた。
ただ、感度の高い香山はそれを察知したのか、伊達眼鏡を外し、須崎に体を寄せた。西陽が香山の顔を半分影に沈めて、車内の空気が急に薄くなった気がした。
「ねえ、須崎が保護者役として行ってよ。須崎にしか頼めないんだ」
彼の端正な顔が近づく。彼の潤んだ瞳は情けない顔をした自分を捉えていた。
須崎は分かっている、香山が自身の願いを他人ににどうしても聞き入れて欲しいときにする顔だという事を。
「分かりました」
香山も相当意地が悪い、須崎が承諾するとすぐ身を引く。そうこうしている間に青信号に変わり車を発進させた。
「須崎ってハニートラップにすぐ引っかかりそう」
違う。自分はどちらかと言えばダメな物はダメと言う人間だ。ただ香山にだけは敵わない。
香山はふざけてやっているだけなのかも知れないが、時として彼の冗談や行動は、本人が思っている以上に破壊力がある。
「それ仕事以外でやらない方がいいですよ」
人並みに女性と付き合ってきたつもりではあるが、今までのどんな女性にですら、ここまで心を揺さぶられたことはない。
男の須崎でさえ香山を淫猥に感じるときがあった。彼の魅力は仕事でも武器になるほどで、部下ですらその刃先に翻弄されている。
「これも仕事。それに引っかかる須崎が悪い」
香山はいたずらに笑った。彼は昔から須崎が動揺するところを見て楽しんでいるような節がある。
「仮眠室を使えなくなってもいいならどうぞ」
マンションに着いた。車を香山さんに指定された駐車場に止めて、ハンドルから手を離して、冷静を装い答える。すると、彼はそんな反応すら面白いのか、とても楽しそうに笑って言った。
「怖いこと言わないでくれ」
◯◯◯
詩織は叔父からの通知が目に入り、田中さんが路肩に止めた車から降りた。
マンションのエントランスに足を踏み入れると、ホテルのロビーのような空間が広がっていた。季節のせいか少しひんやりしている。
彼女は少し震えながら制服のポケットに手を伸ばし、取り出したスマホで叔父へ電話を折り返す。
「もしもし。詩織です」
「ああ、詩織君。君の戸籍と編入手続きなんだが、私の方で済ませておいて良いか」
詩織の実家は今、記者に囲まれていて帰れる状態ではない。
それに、元から通っていた中学はここから遠すぎる。面倒な手続き関係をやってくれるのは、純粋にありがたい。
「助かります」
「あと生活費についても私の方から一旦送る。ただひとつ頼みがある」
「なんでしょう」
「車に佐藤くんの友達がいただろう。彼と佐藤くんについて少し調べてくれ」
友達というのはあの目つきの悪い田中さんの事だろう。なぜあの2人を調べて欲しいんだろう。
そもそも私に頼むより優秀な探偵を雇ったほうがいいと思うが、それとも、これからも彼と会うことが多い私の方が探りやすいと思ったのか。
「どこまで調べられるか分かりませんが、それでも良ければ調べます」
私は着ていた制服のスカートの上に手はわせた。面倒だが、それが援助の条件ならば素直に受け入れるしかない。
「ああ、助かるよ。佐藤くんの動きが最近怪しくてね。ただの浮気だったらいいのだが」
詩織はその言葉で優一と佐藤の関係を察した。
なるほど、彼が探偵に頼めないのは自分の趣味がバレるのを恐れているのか。
確かに佐藤ほど顔が良ければ男でも権力者の愛人なることは簡単だろう。
「とりあえず調べておきます」
「あぁ、時間がかかっても構わない」
詩織がそう返事をすると通話が切れた。彼女は急に後ろに気配を感じ、振り返った。
「ねぇ、誰と電話してるの?」
詩織は背筋が冷たくなっていくのを感じる。そこにいたのは優しく微笑んでいる佐藤としかめっ面の田中だった。
私が誤魔化そうとした瞬間、佐藤の後ろにいた田中さんが一歩踏み出してきて、影が私の足元に伸びた。