だから、生まれてこなければ
高層マンションの最上階。
ソファに身を預け、ワインを含む男が一人。
向かいには、泣き腫らした瞳の少女がぽつんと立っていた。
部屋には通夜の線香の匂いが微かに残っている。
黒い喪服のまま、詩織は壁際に立っていた。
涙で濡れた髪が頬に張り付き、視線だけが鋭く香山を射抜いている。
14歳の少女には似つかわしくない、張り詰めた気配だった。
「詩織ちゃん。僕を見て、そんな怖い顔しないでよ。これからは一緒に暮らすんだから」
香山はテーブルに肘をつき、ワイングラスを揺らした。
赤い液体が照明を受け、血のように光る。
「あなたと暮らすなんて、冗談じゃありません」
詩織はまっすぐに睨みつけた。
涙の跡が乾ききらず、頬に残っている。
「そんなこと言わないでよ」
香山は小さく笑った。
「僕がなかなか結婚しないから、あの男が痺れを切らして――君みたいなのを送り込んできたんじゃないの?」
詩織の目が鋭く光る。
「気持ち悪いこと言わないでください」
「冗談だよ」
香山は軽く笑い、グラスを持ち上げた。
「僕だって独身生活を楽しんでたのに、君みたいな可愛げのない子どもを引き取るなんて、不本意だ」
「よりによって、なんであなたなんですか」
「僕が嫌だからじゃない? 皮肉な話だよね」
香山は肩をすくめ、続けた。
「安心して。僕は君を相手にするほど女性に困ってないよ」
「だとしても、私はあなたと生活したくありません」
「僕が嫌なら、あの男のところにでも行けばいいじゃない。君はまだ十四歳。保護者なしでは生きていけない。それに、あの男の方が――」
詩織は一歩、香山に近づく。
唇が震えている。
「……誰のせいで、私の家族が壊れたと思ってるの」
香山はしばらく黙ったまま、ワインを口に含んだ。
そして、わざと淡々と答えた。
「それはさ――」
乾いた音が響いた。
詩織の掌が香山の頬を叩いていた。
「全部、あの男のせいじゃない!」
詩織の声は泣き声に近かった。
「母を狂わせて、父を壊して、私は全部失った! あの男が、あなたの血のせいよ!」
香山は頬をさすりながら顔を上げた。
笑みとも、嘲りともつかぬ表情。
「君があの男を憎んでるのは分かる。でも、僕にはどうしようもない。――それくらい分かってるでしょ?」
詩織は答えない。
その沈黙に、香山が言葉を継いだ。
「それにさ、君が金銭的に豊かな暮らしを送れていたのは、あの男のおかげじゃないか」
ワイシャツの襟を掴まれた瞬間、次の平手が飛んだ。
赤い染みが胸元に広がる。それは香山の血だった。
「詩織ちゃん……。僕、一応あの男の息子なんだけど」
「あなた、あの男の息子じゃなくて――あの男の、間違いの証でしょ」
香山は短く笑った。
「僕が“間違い”だとしても、君より立場は上だよ。生まれで線を引かれる。それが僕たちの生きてる世界なんだ」
「ふざけないで!」
詩織の喉からかすれた声が漏れる。
「母をたぶらかして、父を壊して……挙句の果てには、あんたと私を一緒に暮らさせるなんて!」
「僕は、あの男じゃない」
香山は低く言った。
「文句があるなら向こうに言ってよ。僕が君を引き取ったのは“家”の判断だ。僕個人の感情じゃない」
詩織はソファの前に膝をつき、頭を抱えた。
「言えるわけないでしょ……」
香山は小さく笑った。
「詩織ちゃん。君も僕も、所詮あの男の掌の上にいる」
「私はあの男のペットなんかじゃない!」
「そう思えているうちは幸せだよ」
香山は静かに言う。
「僕らは飼われてるんだ。餌を与えられ、時々撫でられ、飽きられたら蹴られる。……まあ、僕は撫でられたことすらないけど」
詩織は顔を上げた。
その目に涙と怒りが混ざっている。
「そんなの違う! 私は……あの男を許さない!」
「許さなくていい」
香山の声はやさしい。だが、その奥にあるのは諦めに似た冷たさだった。
「けど、今の君は僕の鏡だよ」
「やめてよ……!」
詩織は両耳を塞ぐ。
「そんなふうに言わないで……! 私とあなたを同じにしないで!」
香山は静かに立ち上がる。
その仕草には威圧も哀れみもない。
ただ、無意識のまま――少女の肩に手を伸ばした。
「触らないで!」
詩織が叫び、手を振り払う。
喉の奥から、嗚咽がこぼれた。
香山は、微笑みのまま言った。
「でも、君の両親が生きていたところで、君の生き方はあの男に決められるんだよ?なにも変わらないじゃないか」
「あなたって……よく今まで刺されずに生きてこれたわね」
「運が良いんだよ。あと、みんな意外と“善人であろう”とするからね」
詩織は涙に濡れた声で言った。
「私はあなたのことが――あの男の次に嫌い。けど、あの男の庇護下でないと生きていけない自分はもっと嫌い」
香山はワインをもう一口含み、グラスを置く。
「いいよ」
「……何が」
「望むなら、その前に君が消されないよう、気をつけてあげる」
詩織は香山の前まで歩み寄ると、テーブルの上のワイングラスを乱暴に掴んだ。
香山が何か言うより早く、赤い液体が彼の顔へとぶちまけられる。
冷えた雫が、彼の頬を伝い、白いワイシャツに滲んだ。
「望むところよ。いつか全員で地獄に落ちて――その時は、ゆっくり三人でおしゃべりでもしましょ」
言い終えると同時に、手の中のグラスが滑り落ちた。
鋭い音を立てて床に砕ける。
香山はその光景をただ見下ろし、何も言わなかった。
彼女は振り返らず、ドアへ向かう。
足音が遠ざかり、扉が閉まる。
その音が、室内の沈黙を切り裂いた。
香山は割れたグラスの破片を拾い上げ、光にかざす。
掌に赤い線が浮かび、血が彼の細い指に這う。
それを見つめながら、小さく笑った。
「……だから、生まれてこなきゃ良かったのに」
一拍置いて、続けた。
「生まれさせた側も、ね」
誰もいない部屋に、その声だけが静かに残った。




