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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵
第一章 麗しい官僚の隠し子

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5/10

だから、生まれてこなければ

高層マンションの最上階。

ソファに身を預け、ワインを含む男が一人。

向かいには、泣き腫らした瞳の少女がぽつんと立っていた。

部屋には通夜の線香の匂いが微かに残っている。


黒い喪服のまま、詩織(しおり)は壁際に立っていた。

涙で濡れた髪が頬に張り付き、視線だけが鋭く香山(かやま)を射抜いている。

14歳の少女には似つかわしくない、張り詰めた気配だった。


「詩織ちゃん。僕を見て、そんな怖い顔しないでよ。これからは一緒に暮らすんだから」

香山はテーブルに肘をつき、ワイングラスを揺らした。

赤い液体が照明を受け、血のように光る。


「あなたと暮らすなんて、冗談じゃありません」

詩織はまっすぐに睨みつけた。

涙の跡が乾ききらず、頬に残っている。


「そんなこと言わないでよ」

香山は小さく笑った。

「僕がなかなか結婚しないから、あの男が痺れを切らして――君みたいなのを送り込んできたんじゃないの?」


詩織の目が鋭く光る。

「気持ち悪いこと言わないでください」


「冗談だよ」

香山は軽く笑い、グラスを持ち上げた。

「僕だって独身生活を楽しんでたのに、君みたいな可愛げのない子どもを引き取るなんて、不本意だ」


「よりによって、なんであなたなんですか」


「僕が嫌だからじゃない? 皮肉な話だよね」

香山は肩をすくめ、続けた。

「安心して。僕は君を相手にするほど女性に困ってないよ」


「だとしても、私はあなたと生活したくありません」


「僕が嫌なら、あの男のところにでも行けばいいじゃない。君はまだ十四歳。保護者なしでは生きていけない。それに、あの男の方が――」


詩織は一歩、香山に近づく。

唇が震えている。

「……誰のせいで、私の家族が壊れたと思ってるの」


香山はしばらく黙ったまま、ワインを口に含んだ。

そして、わざと淡々と答えた。

「それはさ――」


乾いた音が響いた。

詩織の掌が香山の頬を叩いていた。


「全部、あの男のせいじゃない!」

詩織の声は泣き声に近かった。

「母を狂わせて、父を壊して、私は全部失った! あの男が、あなたの血のせいよ!」


香山は頬をさすりながら顔を上げた。

笑みとも、嘲りともつかぬ表情。

「君があの男を憎んでるのは分かる。でも、僕にはどうしようもない。――それくらい分かってるでしょ?」


詩織は答えない。

その沈黙に、香山が言葉を継いだ。

「それにさ、君が金銭的に豊かな暮らしを送れていたのは、あの男のおかげじゃないか」


ワイシャツの襟を掴まれた瞬間、次の平手が飛んだ。

赤い染みが胸元に広がる。それは香山の血だった。


「詩織ちゃん……。僕、一応あの男の息子なんだけど」


「あなた、あの男の息子じゃなくて――あの男の、間違いの証でしょ」


香山は短く笑った。

「僕が“間違い”だとしても、君より立場は上だよ。生まれで線を引かれる。それが僕たちの生きてる世界なんだ」


「ふざけないで!」

詩織の喉からかすれた声が漏れる。

「母をたぶらかして、父を壊して……挙句の果てには、あんたと私を一緒に暮らさせるなんて!」


「僕は、あの男じゃない」

香山は低く言った。

「文句があるなら向こうに言ってよ。僕が君を引き取ったのは“家”の判断だ。僕個人の感情じゃない」


詩織はソファの前に膝をつき、頭を抱えた。

「言えるわけないでしょ……」


香山は小さく笑った。

「詩織ちゃん。君も僕も、所詮あの男の掌の上にいる」


「私はあの男のペットなんかじゃない!」


「そう思えているうちは幸せだよ」

香山は静かに言う。

「僕らは飼われてるんだ。餌を与えられ、時々撫でられ、飽きられたら蹴られる。……まあ、僕は撫でられたことすらないけど」


詩織は顔を上げた。

その目に涙と怒りが混ざっている。

「そんなの違う! 私は……あの男を許さない!」


「許さなくていい」

香山の声はやさしい。だが、その奥にあるのは諦めに似た冷たさだった。

「けど、今の君は僕の鏡だよ」


「やめてよ……!」

詩織は両耳を塞ぐ。

「そんなふうに言わないで……! 私とあなたを同じにしないで!」


香山は静かに立ち上がる。

その仕草には威圧も哀れみもない。

ただ、無意識のまま――少女の肩に手を伸ばした。


「触らないで!」

詩織が叫び、手を振り払う。

喉の奥から、嗚咽がこぼれた。


香山は、微笑みのまま言った。

「でも、君の両親が生きていたところで、君の生き方はあの男に決められるんだよ?なにも変わらないじゃないか」


「あなたって……よく今まで刺されずに生きてこれたわね」


「運が良いんだよ。あと、みんな意外と“善人であろう”とするからね」


詩織は涙に濡れた声で言った。

「私はあなたのことが――あの男の次に嫌い。けど、あの男の庇護下でないと生きていけない自分はもっと嫌い」


香山はワインをもう一口含み、グラスを置く。

「いいよ」


「……何が」


「望むなら、その前に君が消されないよう、気をつけてあげる」


詩織は香山の前まで歩み寄ると、テーブルの上のワイングラスを乱暴に掴んだ。

香山が何か言うより早く、赤い液体が彼の顔へとぶちまけられる。

冷えた雫が、彼の頬を伝い、白いワイシャツに滲んだ。


「望むところよ。いつか全員で地獄に落ちて――その時は、ゆっくり三人でおしゃべりでもしましょ」


言い終えると同時に、手の中のグラスが滑り落ちた。

鋭い音を立てて床に砕ける。

香山はその光景をただ見下ろし、何も言わなかった。


彼女は振り返らず、ドアへ向かう。

足音が遠ざかり、扉が閉まる。

その音が、室内の沈黙を切り裂いた。


香山は割れたグラスの破片を拾い上げ、光にかざす。

掌に赤い線が浮かび、血が彼の細い指に這う。

それを見つめながら、小さく笑った。


「……だから、生まれてこなきゃ良かったのに」

一拍置いて、続けた。

「生まれさせた側も、ね」


誰もいない部屋に、その声だけが静かに残った。

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