第一話 美しい官僚
「いやぁ、今年も地方に飛ばされなくて命拾いしたよ」
「俺なんか国会答弁の資料、返信きたの深夜一時だぞ。あれ、人間に送る時間じゃないだろ」
昼休みのフロアには、弁当の匂いと、冷めたコーヒーと、男たちの乾いた笑いが薄く混ざっていた。
笑っているのに、誰も楽しそうではない。
警察庁に入ってそれなりの年月が経ち、須崎透はこの種類の笑いを覚えた。
疲労を愚痴にして、愚痴を冗談にして、冗談にしきれなかったものだけが目の下に残る。
須崎はデスクで簡単な昼食を終えると、朝、コンビニで買った新聞を広げた。
紙はまだ少し硬く、インクの匂いが残っている。
社会面をめくった指が、ある見出しの前で止まった。
『若手官僚の退職率上昇――残業時間の減少が“やりがい喪失”に?』
須崎は、しばらくその文字列を眺めた。
やりがい。
深夜一時に国会答弁資料の修正を投げてくる人間たちが、そんな言葉を使うらしい。
辞めた同期の顔が、何人か浮かんだ。
罵倒に耐え、徹夜に耐え、最後には何かを言い訳にする気力すら失って、庁舎から消えていった顔だった。
須崎の口元が、わずかに歪む。
怒りではない。
怒るほど、この記事に期待していない。
ただ、胸の奥に冷たい澱のようなものが沈んだ。
「……現場を知らない奴ほど、面白い記事を書くな」
声に出してから、須崎は眼鏡を指の関節で押し上げた。
須崎は新聞を丁寧に二つ折りにした。
見出しは、折り目の内側に消えた。
そうやって、見たくないものを処理する癖だけは、この数年でずいぶん上達した。
引き出しを閉める音に重なるように、隣の席から明るい声が飛んできた。
「須崎さん、顔怖いっすよ」
顔を上げると、佐藤大地がこちらを見て笑っていた。
季節はまだ、袖を捲るには早い。
にもかかわらず、佐藤はいつものようにシャツの袖を肘まで上げ、筋肉質な腕を惜しげもなく晒している。寒さより代謝が勝つ人間、というものが世の中にはいるらしい。
「新聞相手にそんな顔する人、初めて見ました」
「新聞相手だから、この程度で済んでる」
須崎が答えると、佐藤は声を立てて笑った。
そこへ、もう一人の部下が戻ってくる。
岡田誠司。
皺ひとつないスーツ。七三に分けた髪。細い銀縁の眼鏡。
本人にその自覚があるかは知らないが、岡田は世間が想像する“官僚”を、そのまま人の形にしたような男だった。
「また若手官僚退職の記事ですか」
岡田は、須崎の机の端にまだ残っていた新聞を一瞥し、鼻で笑った。
「外から見る分には、官僚はまだ特権階級らしいですからね。深夜に資料を作って、朝に罵倒される特権ですけど」
「お前は言い方が悪い」
「事実ですよ」
岡田は悪びれない。
佐藤は苦笑しながら、スマートフォンの画面を指で流していた。
昼休みの終わり際、誰もが仕事に戻るふりをしながら、少しだけ現実から目を逸らす時間だった。
ふと、佐藤の視線がフロアの奥へ流れた。
「ああ、また囲まれてる」
つられて須崎もそちらを見る。
香山慎之介が、若い女性職員に資料の場所を尋ねられたのか、少し身を屈めて何かを説明していた。
穏やかな笑みを浮かべているだけなのに、その周囲だけ昼休みの空気が少し違って見える。
女性職員は無意識に声の高さを整え、近くを通る男性職員は理由の分からない苛立ちを顔に滲ませる。
誰もがそれを認めない。
だが、誰もが一度は彼を見る。
香山慎之介は、そういう現象を起こす男だった。
「新体制になって二ヶ月も経ったのに、香山さんへの熱、全然冷めませんね」
佐藤が小声で言った。
岡田が鼻で笑う。
「毎日見ててよく飽きないよな。美人は三日で飽きるって言葉は大嘘だ」
須崎は顔をしかめた。
「男に美人なんて言葉を使うな」
確かに香山は、同性の須崎から見ても綺麗、と形容せざるを得ない容貌をしている。
だが、美人という言葉を男に着せると、途端に座りが悪い。
岡田は頬杖をつき、声をひそめて、ため息交じりに呟いた。
「容姿端麗、経歴も完璧、おまけに育ちも良さそうで野心を感じない。女だったら良かったんですけどね」
「どこに理想を置いてるんだ、お前は」
須崎が呆れると、佐藤が笑った。
「無理ですよ。香山さん、港区のマンション暮らしらしいですし。女性だったとしても、俺らの収入じゃ門前払いです」
港区のマンション。
須崎は、フロアの奥にいる香山の横顔を見た。
たしかに、庁舎近くの古い官舎や、駅から離れた賃貸に住んでいる姿は想像できなかった。
あの身なりと所作からは、生活の苦労がまるで見えない。
金の匂いをさせないのに、貧しさからは最も遠い立ち姿だった。
「ああいうタイプが一番金がかかる。俺たちの収入じゃ門前払いだ」
「須崎さん、言い方が現実的すぎます」
佐藤は笑い、再びスマートフォンへ視線を落とした。
「そういえば、医療系のニュースも多いですね。感染症対策だの、備蓄だの」
その言葉に、岡田がわずかに反応した。
「最近その手の話ばかりだな」
「たぶん。佐田製薬って、最近よく名前見るじゃないですか。大学の同期がいるんですけど、最近ずっと忙しいってぼやいてて」
佐藤は、あくまで雑談の調子で続けようとした。
「まあ、大手って――」
「佐藤くん」
柔らかな声が、すぐ近くで落ちた。
須崎は反射的に顔を上げた。
いつの間に近づいていたのか、香山慎之介が資料の束を胸に抱えたまま、佐藤の机の横に立っていた。
近くに立たれると、遠目に見ていた時よりも圧があった。
色素の薄い髪。
蛍光灯の下で、どこか人工物めいて見える肌の白さ。
細い骨格の上に、上質な布が静かに沿っている。
遠くにいる時より、近くに立たれる方が落ち着かない。
香山慎之介は、距離が縮まるほど人間味が薄れる。
佐藤の笑顔が、すっと引っ込んだ。
香山は困ったように微笑む。
「その話、そこまでにしようか」
叱責というほどではなかった。
昼休みの雑談を、軽くたしなめる程度の声音。
それなのに、佐藤の顔から笑みが消えた。
「すみません。そういうつもりじゃなくて」
「うん。そういうつもりじゃない人が、一番危ないからね」
香山は笑った。
いつもの笑みだった。
人懐っこく、軽く、どこか冗談めいている。
だが須崎は、その声の底に、紙で指を切った時のような薄い冷たさを聞いた気がした。
「その会社に限らず、いま医療関連は変な憶測が出やすいから。僕らが軽々しく名前を出すべきじゃない」
理由は通っていた。
官僚としては、むしろ正しい注意だった。
政策案件に関わる可能性のある企業名を、職場で雑談の種にするべきではない。
佐藤の雑談を、香山が少し大げさに止めた。
ただ、それだけのはずだった。
それなのに、須崎の中で何かが小さく引っかかった。
香山は佐藤を注意しているようでいて、どこか別のものを遠ざけているように見えた。
「……香山課長補佐」
須崎が呼ぶと、香山は首を傾げ、少し困ったように目を細めた。
「嫌だな。君も今年から課長補佐じゃないか。それに、僕は君より年下だし、かしこまられると僕が緊張するよ」
「いえ、そういうわけには」
香山慎之介。
警備企画課の課長補佐にして、この庁舎でもっとも官僚らしくない男。
須崎より二歳年下。
だが、入庁したのは香山の方が早い。
同じ課長補佐という肩書きであっても、庁内の調整に呼ばれるのは香山で、その後始末を任されるのは須崎だった。
肩書きでは隠すことのできない差がある。
しかも香山は、その差をひけらかさない。
ひけらかさないからこそ、余計に目立つ。
「須崎くん」
香山は、今思い出したように胸元の資料を持ち直し、一束を差し出した。
「あ、これ。NBPの安全保障関連の共有資料。扱いを誤ると省庁間で揉めるから、最初の確認は君にお願いしたいと思って」
須崎は書類を受け取り、軽くめくった。
NBP。
内閣官房主導の、未知の感染症蔓延に備えた非公開プロジェクト。
重要施設、検体輸送、民間企業との連携、警備計画。
表に出れば、省庁間だけでなく政財界まで巻き込む案件だった。
「……承知しました」
返事をしながら、須崎は数ページ先の参画企業一覧で指を止めた。
佐田製薬。
さきほど佐藤が口にした名前が、そこにあった。
大手製薬会社が医療関連の国家プロジェクトに名を連ねていること自体は、不自然ではない。
佐藤の雑談も、香山の注意も、官僚としての常識の範囲に収まっている。
だから須崎は、偶然だと処理しかけた。
そのとき、香山と目が合った。
温度のない目だった。
切っ先だけが触れるような、理由の分からない一瞥。
その目は、佐藤を見ていなかった。
岡田も見ていなかった。
須崎だけを、確かに捉えていた。
次の瞬間には、その鋭さは跡形もなく消えた。
香山はいつもの柔らかい笑みを浮かべる。
「よろしくね、須崎くん」
それだけ言うと、軽やかに背を向けた。
香山が去ると、フロアに微妙な沈黙が残った。
佐藤が小声で呟く。
「俺、そんなにまずいこと言いました?」
須崎は資料から目を離さなかった。
「職場で企業名を出すな。特に、政策案件に絡む可能性のある会社は」
「はい……」
岡田が眼鏡の位置を直しながら言う。
「正論ですね。香山さんに言われると、なぜか嫌な感じがしますけど」
須崎は返事をしなかった。
赤いボールペンを手に取り、資料の重要語句を囲っていく。
佐田製薬。
検体輸送。
警備計画。
非公開。
丸をつけるたび、胸の奥にざらついたものが残った。
香山慎之介は、ただ部下を注意しただけだ。
そう考えれば、何もおかしくない。
だが須崎は、さきほどの一瞬の目を忘れられなかった。
正しいことしか言っていない人間が、なぜあれほど不吉に見えたのか。
香山の冷たい視線が、今もなお、こちらに向いているような感覚になった。




