戦いのあとに
ジャスミンから罵倒とともに治癒を受けつつ、カイトは、達成感に包まれていた。最後の最後、やった、という油断から、つい着地を忘れ、頭から瓦礫の上に落ちたのだ。一歩間違えれば、首の骨を折っていただろう。いつ壊れたのか、命の身代りとなってくれる魔法の石は、とっくに粉々になっていた。
「ほんとカイトってバカじゃないの、なんで危ないことをわざわざするの。イナンナのこと言えたもんじゃないわ、まったく。誰に似たんだか!」
まるで母親のような口ぶりに、思わず笑いが出る。見た目にはそう変わらない年頃だが、ジャスミンは確かにカイトの倍近く年嵩なのだ。
「なに笑ってんの、カイト! こっちは真剣なんだからね」
「まーまー、ジャスミン、いいじゃないのぉ、終わりよければさぁ」
キャンディが、いつもの明るい笑顔を浮かべてジャスミンをなだめる。その手には、いつの間に拾ったのか、カイトの折れた角があった。キャンディはそれを手先でもてあそびつつ、ぼやいた。
「あーあぁ、愛しのエイファッドは片翼なのに、わたしときたら、両方なくなっちゃった! これじゃあ、わたし、自分がどの種族だか忘れてしまうわ」
根元の骨からちぎれて失われた翼は、その大きな傷跡だけを名残として、キャンディの背に残った。どれほど優れた治癒の使い手でも、一度失われた四肢や翼を戻すことはできないのだ。カイトの心臓が跳ね、笑顔が消えた。ジャスミンもそばで、気まずげに顔を伏せた。キャンディはそれを察したのか、声を立てて笑う。
「でも、わたしはわたしだもんねえ。大丈夫、これくらいでへこたれないよー」
カイトは知っている。キャンディは、いつでも明るく、前向きであろうとしている。それはとほうもなく辛く、苦しいときもあるだろう。どんな重荷を背負っても、彼女は笑っている。その強さが眩しい。
カイトはキャンディの手から角を受け取った。自分のこれも、治癒のしようのないものだ。歯と違い、角はまた伸びるというものではない。長さを揃えようと思ったら、もう片方も折って、やすりで形を整えるくらいしなければならない。ダイモンは年齢とともに角が伸びるので、それではだいぶみっともないことになるだろう。ならば、このまま片方でいるほうがましというものだ。
イナンナは、メルクリアの眼窩から折り取った矢を握って、その亡骸を見下ろしていた。泣くこともなく、ただ静かに、見つめていた。やがて、矢をぽいと投げ捨て、ふいとメルクリアから背を向けた。まるで、決別するかのように。
カイトは納得した。今、やっとヴィナは消えたのだ、と。
イナンナの周囲に、橙の力が収束していった。あたりの瓦礫がよけられ、モスの亡骸がそこに現れた。イナンナは、導くように手を振る。メルクリアの亡骸が、地中にうずめられた。イナンナはさらに守護魔を呼び、炎を呼んだ。モスの亡骸が、燃える。カイトはそれを見つめていた。モスは、戦いのなかで死ぬと宣言した。彼は本望だったろう。かつてサロを封じた英傑の子孫として、恥じることのない奮闘を見せた。著しく損壊した亡骸で葬儀を挙げるよりは、灰へと返したほうがよいだろう。イナンナがまた呼ぶと、緑色の閃光とともに風が吹き抜けていき、モスの灰を散らした。イナンナは歩み寄っていき、モスの残された骨を拾った。
カイトは立ち上がり、イナンナの背後に立った。小さな肩が、びくりと震えた。カイトは何も言わず、ジャスミンに振り向く。彼女はすでに布を広げ、モスの骨を集める用意を整えていた。彼の金属製の武具は歪んだまま、燃え残っている。カイトはそれを見下ろして、呟いた。
「さて、後継人を誰にしてたんだかな、このジジイは」
後ろから、キャンディの歌う声が聞こえる。モスの武勇を讃える歌だ。優しきドワーフの勇猛な戦いを、いつまでも忘れないための歌だ。
居心地悪そうに一所に集まっているのは、ミランとその配下のシノビたちだ。ほかの配下たちは、サロの崩落と同時にとっくに逃げ去ってしまったらしい。ミランはカイトへ、尖った声を向けてくる。
「それで、僕をどうする?」
「どうもしねえよ、自分の落とし前くらい、自分でつけろ」
カイトは面倒くさいという気持ちを隠さず返した。少しの沈黙。ヒイラギの焦る声。
「ミラン様、なにを?」
カイトが見やると、ミランはヒイラギの懐に手を入れて、彼の隠したものを探っていた。
「落とし前とやらをつけるだけだ、毒を借りるぞ」
「だめです!」
ヒイラギはミランの手を払い、跳び退いた。配下のシノビたちにも同様に、ミランと距離をとるよう手で合図する。ミランはヒイラギを睨む。
「まだ僕に恥をかかせるつもりか。それとも、自分で喉を突き、苦しみながら死ねと?」
「なにも死ぬばかりが道ではないはずです」
「死よりほかの道には、屈辱と絶望しか見えない。今の僕に、死は救いだ」
ミランの表情は、ひどく歪んでいた。元の顔が美しいだけに、それはより悲壮で、醜いように見える。カイトは思わず目をそむけた。ヒイラギがなおもミランに、自決を思いとどまるよう願う。ミランは頑として応じず、ただ自分を死に至らしめるよう命じるばかりだ。シノビたちのあいだに、動揺が広がっていた。捨て石となって死ぬことはあれど、主人を傷つけることは決してしてはならない。それがシノビだ。それが今、主人を殺すことを命じられて、揺れている。カイトはヒイラギに同情した。刃を交わしてその本懐を知ったからこそ、ミランが無茶な命令を下していることがはっきりとわかる。ミランにはそれさえ理解できないのだ。おそらく、カイトがいくら言葉を尽くしても無駄だろう。
いっそ殺してやったほうが幸せか、と頭をよぎり、そうすればすぐヒイラギたちに殺されるだろうという想像があまりにも鮮明に浮かんできて、苦笑する。と、イナンナが、ずいずいと大股でミランに歩み寄っていった。カイトはあっけにとられて、それを目で追った。キャンディもジャスミンも同じように、イナンナを見つめている。シノビたちも、なにも言わない。
ぱん、と小気味よい音が響いた。イナンナが平手を振り抜いたのだ。ミランの頬に、赤い跡がついた。
「あなたが死ぬのは、許さない。逃げるのは許さない」
はっきりと、ミランの目を見つめながら、少女は言い放った。
「わたしは逃げない。ユニオンに戻って、自分が壊したものをぜんぶ見て、たくさん、たくさん、謝らなきゃいけない。そうしなきゃいけないの」
声が震えていた。泣いているのだろう。カイトにはその小さな背中しか見えない。
「わたし、自分が死んじゃえばいいって、思ってた。でも、違った。わたしがそんなこと思ったせいで、モスが……モスが」
声を詰まらせる。少女は服の袖で乱暴に目をぬぐい、ふたたびミランを見上げる。
「死ぬのは許さない。わたしが償い終わるまで、見てて」
両手を伸ばし、彼の頬を優しく挟む。
「そのかわり、あなたはもう、ミランじゃなくていいから」
カイトは少女の言葉に、はっと息をのんだ。ジャスミンを見る。彼女もまた、カイトに視線を返してきた。かつてヴィナだった少女、ただ魔法の実験道具でしかなかった彼女に生を与えたのは、新たな名を与えたのは、自分たちだった。イナンナはまだ、自分たちに生かされていた。今、イナンナはやっと、生きようとしている。イナンナの目に、今のミランは、あのときの自分に重なって見えているのだろう。魔法研究院から逃げ出して、力を尽くしたのに見つかってしまった、あの雨の夜の自分に。
ミランが招いたことを、カイトは許せる気がしない。キャンディの翼を奪い、モスの命を散らせ、多くの者たちの日常を壊した。それは、償いきれるものではないだろう。ミラン自身、償おうとも思わないはずだ。けれど、イナンナは信じているのだ。自分の犯した過ちを償い、それをミランに示すことに、意味があるのだと。
カイトがなにか言う前に、キャンディが明るい声を弾けさせた。
「じゃあ、まずはイナンナに、わたしの翼の代償を払ってもらわなきゃねぇ」
びくりと震えて、イナンナがゆっくりと振り返る。キャンディがそこへ、じりじりと近づいていく。まるで獲物を狙う猫のように、身構えて。
「うひひ、甘んじて受け入れるのだ!」
キャンディはイナンナを抱きしめる。強く、優しく。
「エイファッドとわたしが結婚したら、あなたを養女にしようと思うの」
イナンナは言葉を失った。ジャスミンも驚きに声を上げた。キャンディは笑う。
「だって、翼がなくなったら、人間とそんなに違わないもん。地面を走るってことや、狭いところにもぐりこむことを、誰かに教えてもらわなきゃいけないでしょ?」
種族の象徴たる翼を失ってなお、彼女は前向きであろうとする。希望を見出し、生きようとする。不幸を嘆かず、次へ進む。そのために、今あるどのような苦境も利用する。キャンディはそんな女性だ。いちおう、とジャスミンが口を挟む。
「エイファッドに相談しなくていいの?」
「いいよぉ、きっと翼を失くしたわたしを可哀そうがって、なんでも言うこときいてくれるよー」
「……エイファッド、イナンナに怒らない?」
恐る恐る続けるジャスミンに、キャンディはあっけらかんと返す。
「えー、だってこれ、結局わたしが油断しただけだしなぁ。あえて言うなら、あっちの人だけど」
ヒイラギのほうへちらりと視線を向ける。
「わたしも殺す気で攻撃してたし、むしろ翼だけで済んでよかったくらいだよねぇ」
ヒイラギは何も言わない。横目でミランを見、配下のシノビたちを見やってから、キャンディへ向く。
「償いとなるならば、この身にいくらでも罰を与えて構わない」
「いやぁ、剣で切られたからって剣を憎んでも、どうしようもないしねー」
キャンディは思わせぶりな視線をミランへ送る。ヒイラギは表情を強張らせ、声を張る。
「翼を奪ったのは自分の一存であり、ミラン様の計略のうちにはなかったことだ!」
焦った顔のヒイラギに、キャンディはけらけらと声を立てる。カイトは肩を落とした。一度、キャンディに乗せられたら、もう勝てない。ミランは、キャンディが望むとおりにしなければならないだろう。つまり、イナンナの償いを傍で見て、貴族でも何者でもなくなった自分について、考え続けるのだ。その答えが出たとしたら、ミランは自分から償いを始めるかもしれない。そんな未来があっても、よいかもしれない。
ジャスミンも同じことを思ったのだろう。彼女は腰からナイフを抜いて、ミランの背後に回った。シノビたちが色めきたつ。ジャスミンは、ミランの束ねられた髪を掴み、ナイフでそれを切った。誰が止める間もなかった。ミランはあっけにとられた顔をして、ジャスミンに振り返った。
「ジャスミン、なにを?」
「イナンナが言ったでしょ、ミランは死んだの」
ジャスミンはそれを、ひとりのシノビの手に押し付けた。
「プラナウス公のところへ、おつかいに行ってきなさい、息子は死んだって」
ミランが戸惑い、自身の失態は一族の失脚と没落を招くと主張した。が、ジャスミンはそれを、知らない、の一言でばっさりと切り捨てた。家族が死んで喜ぶ家なぞ滅びたほうが、王国も少しはまともになる。そう主張して、自信たっぷりの笑顔を見せる。
「ってのはまあ、冗談として、なんとかするわよ。小さい頃から悪さばっかりしてきたんだもの、言い訳をでっちあげるのは得意だわ」
あえて、エルフには似つかわしくない、下品な顔で笑って見せるジャスミンは、もう、ミランを責め立てるつもりはないようだ。今のミランを責めてもどうしようもない、というのが本音だろうし、ことをうまく収めたほうが、最終的に敵を作らなくて済む。そのあたりは、親も巻きこんでうまくやるだろう。カイトは内心、舌を巻いた。
イナンナを見る。先ほどから、目が合わない。怒られたくないのか、気まずいのか、こちらとは話をしようとしない。同じ立場であるミランとは話すのに、と少しばかり苛立たしく思う。
名前を、呼ぶ。自分が与えた、彼女を生かした名を。
「イナンナ」
少女の背が強張った。カイトは、その小さな肩に手を置く。
「おまえが俺たちを助けようとしたのは、お前の勝手だ。だから、俺たちは俺たちの勝手で、お前を助けた」
それでいい、と静かに、言いきかせる。キャンディが翼を、モスが命を投げだしてまで取り戻した、小さな、けれども大切な、未来。
「生きることを選んでくれて、ありがとう」
少女がこちらへ向いた。その瞳に、涙があふれていた。彼女はそのまま、カイトに抱きついてきた。カイトはそれを、しっかりと抱きしめた。腕の中で、イナンナが声を上げて泣いた。幼い子どものように、ただ泣いた。カイトはそれを受け止めながら、微笑んだ。




