第九十六話 新しい女王が最初に署名した法律
エレオノーラ女王の即位後、最初の議会は華やかな祝賀ではなく、医療費をめぐる討論で始まった。
王国の財政官は眉間に皺を寄せる。
「すべての国民に基本医療を保障すれば、国庫が持ちません」
女王は静かに答えた。
「病を放置して働けなくなる人が増えれば、国はもっと貧しくなります」
新しい女王が最初の法律に署名すると、広間には拍手が起きた。
だが地方の診療所まで届くには、医師も予算も必要になる。
女王は祝いの席を短く切り上げ、実施を監督する人員の名簿を求めた。
リーナはその姿を見て、紙の上の約束が町の暮らしに届くまでが改革なのだと思った。
新女王の最初の法案には、国境を越える薬の品質検査が含まれていた。
臣下は即位祝いにふさわしくないと眉をひそめた。
女王は
「祝われるのは今日だけ。薬を飲む人は明日もいる」
と署名した。
レイヴンは議場の後方に座っていた。
法案には、診療所で受けられる基本診療、予防接種に相当する魔力汚染予防処置、出産と小児医療の補助、救急搬送の費用負担が記されている。
高価な第二世代エリクサーは必要性に応じて審査する。
何でも無料にすると約束するのではなく、続けられる制度を作るためだった。
反対派の議員は
「貧しい者が無駄に医者へ行く」
と主張した。
するとリーナが証人席に立った。
「私が子供だった頃、熱が出ても診療所に行けませんでした。無駄だからじゃありません。お金がなかったからです」
彼女は一拍置いた。
「早く診てもらえれば、エリクサーを使わずに済む病気もあります」
議場の空気が変わった。
法案の草稿を作る間、医師たちは理想だけでなく限界を話し合った。
山村に病院を建てても、働く医師がいなければ意味がない。
移動診療と遠隔の魔力通信を組み合わせ、緊急時には隣国の医師も派遣できる条項が加えられた。
財源は国庫だけに頼らない。
大規模工房の利益の一部、共同基金、地方自治体の負担を組み合わせ、帳簿は公開する。
マリシアは医師の配置基準を、エルナは農村の巡回診療を、ゴルバは薬の品質検査を説明した。
誰もが自分の専門を持ち寄った。
採決前夜、エレオノーラはレイヴンを呼んだ。
「私が倒れた夜を覚えていますか」
レイヴンは頷いた。
彼女は続けた。
「王女だったから助かったのだと、ずっと怖かったんです。もし普通の家に生まれていたら、私は今ここにいない」
女王は法案の最初の頁を指で押さえた。
「だから、これに署名したい」
女王が法律に署名する前、補佐官は一条の削除を求めた。
「辺境の無戸籍者まで対象にすれば費用が増えます」
女王は筆を置き、リーナが送ってきた患者の名簿を開いた。
そこには姓を持たない子供がいた。
「名前のない子を、法律の外へ置くわけにはいきません」
署名の後、補佐官は新しい予算表を作り直した。
工房主の組合は負担金に反対したが、ゴルバが発言した。
「俺たちは患者が生きているから仕事ができる。薬を作る側だけが得をする仕組みなら、いつか壊れる」
若い職人たちは拍手し、組合は段階的な負担に合意した。
翌朝、法案は可決された。
反対票も残った。
女王はそれを消そうとせず、施行後三年ごとの見直しと公開監査を条文に加えた。
完璧な法律などない。
だから修正できる道を残す。
レイヴンはその判断に、かつて病床で歩くことを夢見た少女の強さを見た。
署名の後、エレオノーラは壇上から降り、最初の患者として診療所へ登録した。
女王にも同じ診察券が発行される。
貴族たちは驚いたが、彼女は笑った。
「特別扱いをなくす法律ですもの」
レイヴンは小さく拍手した。
王宮に戻らなかった自分の選択が、こうして王宮そのものを変えたのだ。
法案可決の知らせが地方の診療所へ届くと、ある母親が子供の手を引いて受付へ来た。
これまで費用を恐れて受診を遅らせていたのだ。
医師は早期の症状を見つけ、簡単な処置で治療した。
高価な薬を使わずに済んだと聞き、レイヴンは制度の価値を実感した。
施行の初日、地方の役人は申請書の山に囲まれた。
難しい言葉が多く、読み書きのできない住民が戸惑っている。
リーナは窓口の説明を絵に描き直し、手続きを短くするよう提案した。
法律は議場で完成しても、窓口で使えなければ人を救えない。
女王は法案成立後、最初の監査会議にも出席した。
数字に誤りが見つかると、担当官が青ざめた。
だが彼女は隠すことを許さず、修正の期限を定めた。
「間違いを報告した者を罰すれば、次から誰も報告しません」
レイヴンはその言葉に、工房の品質管理と同じ考えを聞いた。
女王の署名が乾く頃、遠い村では一人の母親が安心して子供を診療所へ連れていった。
議場の拍手は聞こえない。
それでも法律が初めて誰かの暮らしに届いた瞬間だった。
地方の診療所には、これまで診察を受けたことのない老人が訪れた。
膝の痛みを我慢し続けていたという。
医師は重い病気が隠れていないか調べ、生活の工夫を伝えた。
老人は
「こんなことで来てよかったのか」
と尋ねた。
「早く来てくれてよかったんです」
と医師は答えた。
財政官は制度の継続を心配し、無駄な支出を減らす提案を出した。
レイヴンは賛成したが、患者に必要な治療を削る案には反対した。
まず薬の廃棄量、輸送の重複、空いた設備を調べる。
ゴルバの工房で行った工程改善が、今度は国の医療制度にも役立った。
エレオノーラは女王として初めて地方の診療所を訪れた。
護衛が入口を塞ごうとすると、彼女は止めた。
「ここは患者のための場所です」
待合室で母親の話を聞き、窓口の説明が難しいと知る。
翌週には案内文が書き直された。
レイヴンは法案の写しを工房の壁に貼った。
若い職人が
「薬の作り方と関係ありますか」
と尋ねる。
「大いにある。薬を作れても、使える人が限られたら意味がない」
職人はしばらく考え、製造番号の印字をもっと読みやすくする案を出した。
医療保障の案内が届いた村では、役人が広場で内容を読み上げた。
難しい言葉に質問が相次いだが、役人は一つずつ答えた。
制度が人々の言葉に置き換わっていく。
女王は施行の半年後に再び議会を開き、届かなかった地域の報告を求めた。
成功例だけで満足しない姿勢に、反対派の議員も少しずつ協力するようになった。
レイヴンは診療所で、安心して帰る親子を見送った。
母親は薬の袋を大切に抱えていた。
あの袋の値段を気にせず済むことが、どれほど大きな変化か。
彼は誰にも聞こえない声で
「よかった」
と呟いた。
最初の一年で、早期に治療を受けた患者の数は増えた。
財政官は費用の増加に青ざめたが、マリシアは
「今まで見えなかった病気が見つかったのです」
と説明した。
短期の数字だけで制度を裁いてはいけない。
重症化を防げた患者の記録を、次の年まで追うことになった。
エレオノーラはその報告に署名し、王宮の医師だけでなく地方の看護員も評価会議に招いた。
レイヴンは議事録を読み、王女を救った夜のことを思い出した。
あの一人の命が、今は数え切れない人の道を開いている。
新女王の署名を見守る人々の中に、かつて診療所の門前で追い返された女性がいた。
法律の文言が難しいと訴えると、女王は公布文に平易な説明を添えるよう命じた。
権利は書かれただけでは届かない。
読める言葉で知らせることも、政治の仕事だった。
新しい法律の説明会が終わると、エレオノーラは窓から王都を眺めた。
病床で歩けなかった頃、遠い街は夢のような場所だった。
今はその街の人々の暮らしに責任を持つ。
彼女はもう一度、施行の報告書を読み始めた。




