第七話 エリクサー一本で金貨一万枚
夜更け、工房の屋根から雨が落ちた。
レイヴンは桶を動かしながら、断った金貨で買えたはずの銅板を思った。
リーナが毛布を持って現れ、
「今日は誰も治せなかったの?」
と尋ねる。
「治せた人もいる。でも、もっと治せたかもしれない」
少女は首を振った。
「あの人、薬を買えない人には売らないって言ったよ」
レイヴンは何も答えられなかった。
自分の選択を、幼い少女に慰められている。
翌朝、マリシアは小商人たちを集め、薬を優先的に診療所へ届ける共同配送を提案した。
商人たちは最初、利益が少ないと渋った。
そこでレイヴンは品質検査と継続仕入れを約束した。
大金を失った代わりに、小さな契約が三つ結ばれた。
まだ屋根は直せない。
それでも薬を待つ患者の列を、商会の都合で閉ざさずに済んだ。
マリシアは三枚の契約書を並べ、患者の名前を読み上げた。
金貨一万枚よりずっと小さな数字が、誰かの明日を確かに支えていた。
高値を告げた商人の背後で、子を抱いた母親が店を出ていった。
レイヴンは契約書を裏返し、買い手の名前を確認した。
「一本を最高値で売る話なら、今日はここで終わりだ」
商人は笑みを消した。
噂が広まるのに三日はかからなかった。
寝たきりの老人が歩いた。
王宮でも作れない薬が貧民街にある。
話は尾ひれをつけ、ついには死者を蘇らせたという者まで現れた。
レイヴンは診療所の扉に紙を貼った。
『死者は蘇らせられません。
治療には診察が必要です』
それでも人は集まった。
マリシアは受付を設け、緊急度の高い患者から診るようにした。
午後、上等な馬車が路地に止まった。
降りてきたのは大商会の支配人を名乗る男だった。
「レイヴン殿。一本、金貨一万枚で買い取りましょう」
工房の作業台に重い革袋が置かれる。
中には金貨が詰まっていた。
「その代わり、今後作る薬はすべて当商会へ。販売先と価格は当方が決めます」
支配人の革靴は泥一つなかった。
だがレイヴンが目を離せなかったのは、契約書に添えられた前金の額だった。
屋根の修繕、薬草の仕入れ、冬の燃料。
すべて賄える。
その金があれば、診療所の寒さに震える患者たちを今日から救える。
レイヴンは一瞬だけ署名欄へ指を伸ばした。
ところが、販売先を指定する条項の下に、小さく『無償治療への提供を禁ず』とあった。
今夜救える命と、来月以降に見捨てる命。
その両方を選べと迫られていた。
レイヴンは契約書を読んだ。
細かい文字で、患者への直接提供を禁じる条項がある。
「この条件では契約できません」
支配人は笑顔を崩さなかった。
「あなたは錬金術師で、商人ではない。薬を作ることに専念すればよろしい。利益は私どもが保証します」
「誰に届くかを決められない薬は、作りたくありません」
支配人が帰ったあと、レイヴンはしばらく金貨の置かれていた机を見ていた。
マリシアが茶を持ってくる。
「迷った?」
「迷いました。あれだけあれば、設備を買える」
彼女は責めなかった。
「断ったことと、迷ったことは矛盾しないわ」
その言葉にレイヴンは救われた。
正しい選択をするときにも、惜しいと思う気持ちはある。
夕方、バルトが訪れ、契約書の条項を読んだ。
「独占を取る商会は、最初だけ高く買う。次に原料を押さえ、最後は作り手の値段も決める」
老人は指で紙を叩いた。
「ただし商人全部を敵にするな。運ぶ者がいなけりゃ薬は届かん」
レイヴンはその場で、地域の小商会へ出す取引条件を書き始めた。
価格の透明性、患者への供給枠、品質の保証。
理想を形にするには、契約も必要だった。
マリシアは契約書の細かな字を読み、患者への販売制限を見つけた。
マリシアは患者の順番札を机に並べた。
「この三人は金貨なんて一枚も持っていない。契約したら、明日からこの札を捨てるの?」
レイヴンは署名用の羽根ペンを置いた。
失う金額の大きさを、初めて正面から理解したうえでの拒絶だった。
夜、リーナが描いた絵を持ってきた。
大きな薬瓶の周りに、笑っている人が何人もいる。
「これ、お店に貼っていい?」
レイヴンは頷いた。
絵の真ん中にいる自分は、実物よりずっと立派な帽子をかぶっていた。
「感情で商売はできませんよ」
レイヴンはバルトの地図を思い出した。
薬草を集め、運び、売るには資金が必要だ。
商人の仕事を軽んじるつもりはない。
だが、独占契約は別だった。
「適正な価格で運んでくださるなら、ぜひ協力したい。でも患者を選ぶ権利は渡せません」
支配人の笑顔が消えた。
契約の重さ。
レイヴンは金貨を数えず、契約が続く年数を確かめた。
金貨一万枚は、貧民街の家を何軒も建て直せる額だった。
レイヴンにも一瞬の迷いがあった。
受け取れば工房を整え、今より多くの薬を作れる。
だが独占契約を結べば、いつか薬を必要とする少女に
「売れない」
と告げる日が来る。
その顔を想像した途端、答えは決まった。
「後悔しますよ。この街で材料を買えると思わないことです」
男は革袋を閉じ、馬車へ戻った。
マリシアが契約書の控えを見て眉を寄せる。
「商会の印章の隣に、宰相府の許可印がある」
「宰相が?」
「医療品の流通にまで手を伸ばしているのかもしれない」
リーナは大人たちの難しい顔を見て、パンを分けようと思った。
夕刻、リーナが工房にやってきた。
小さな籠に焼きたてのパンを入れている。
「その金貨で、工房の屋根も直せたんですよね」
マリシアは雨漏りの下に置かれた空瓶を見た。
今夜の製造は中止になり、明朝の患者三人に渡す分が遅れる。
レイヴンは商会の契約書を暖炉に投げなかった。
破棄すれば怒りは晴れるが、何を拒んだのかという証拠も消える。
「断っただけで済ませない。明日までに代わりの配送路を作る」
彼は濡れた帳面を開き、夜勤明けの薬師に頭を下げて回った。
翌朝、三人の患者に薬を届けたのは、王都で最も小さな三軒の店だった。
商人の理屈。
支配人の言葉には、正しい部分もあった。
薬が優れていても、遠い村へ届かなければ意味がない。
輸送する馬車、保管する倉庫、壊れた瓶の損失。
それらを誰かが負担する。
だからこそレイヴンは、商売を否定するのではなく、患者を排除しない取引を探したかった。
断ったのは金ではなく、決定権をすべて手放す契約だった。
「お兄ちゃん、金貨いっぱいもらえた?」
「断ったよ」
「どうして?」
夜の工房では材料不足に備えて、安価な代替原料の一覧を作った。
「この薬を買える人が、お金持ちだけになってしまうから」
商会の支配人が去ったあと、マリシアは破れた屋根を見上げた。
「断った金貨で、この屋根も直せたのよ」
レイヴンは答えられなかった。
翌朝、彼は支配人に独占権のない融資契約を提案する手紙を書いた。
断るだけで終わらず、患者を守る資金の道を探すためだった。
支配人が去ったあと、マリシアは雨漏りする天井を見上げた。
「あの金があれば、今夜の患者をもっと救えた」
レイヴンは否定しなかった。
断ったことを美談にはできない。
彼はバルトの地図に印を付け、明日訪ねる小さな薬草農家を三軒選んだ。
失った一万枚の代わりに、まだ誰にも奪われていない仕入れの道を探す。
リーナは少し考え、籠から一番大きなパンを差し出した。
「じゃあ、これあげる。お腹すいたら薬作れないもん」
レイヴンは受け取り、思わず笑った。
その夜、商会の倉庫では薬草の買い付け命令が出されていた。
王都周辺の主要な薬草を、通常価格の三倍で押さえるという。
レイヴンはまだ知らない。
だが彼の机には、バルトから借りた流通地図が広げられていた。
高い薬草が買えなくなるなら、別の材料を探すしかない。
彼は古代文献の写しを開き、薬草の成分表を一つずつ読み直した。




