第六十五話 エリクサーの価格が金貨一枚になった
発表会でレイヴンは、標準品の製造原価が金貨一枚に近づいたと告げた。
拍手が起きたが、窓口にいた母親だけは動かなかった。
金貨一枚を払えば今月の家賃が足りない。
隣では一枚を持つ父親が子のために薬を買っていた。
リーナは母親を別室へ案内し、寄付箱ではなく医療基金の申請用紙を出した。
ところが書類には雇い主の署名欄があった。
病気を知られれば職を失うと母親は震えた。
レイヴンは発表を中断し、王女と基金の担当者を呼んだ。
「値札を下げた成果を誇るなら、この欄も変えなければならない」
所得確認を別経路で行い、勤務先への通知を不要にする修正案がその場で承認された。
会計係は継続財源を問い、レイヴンは高純度品の収益の一部と公的購入契約を示した。
翌日、母親は誰にも事情を知られず薬を受け取った。
レイヴンが掲げた新しい表には、価格だけでなく
「窓口で断られた件数」
も載せられた。
帳簿には薬草代だけでなく、検査員の給与、設備の修繕、輸送中の破損、緊急備蓄の費用が並んでいた。
レイヴンは全項目を公開する方針を決めた。
安いという言葉の裏に、誰かの無償労働を隠したくなかった。
レイヴンは頷き、原価と価格を分けて公表することにした。
標準品は製造原価が金貨一枚、販売価格は維持費を含む適正額。
低所得者への補助は各国の医療基金が担う。
高純度品と第二世代品は別工程として扱い、無理な値下げをしない。
市場の薬屋は値下げを恐れていた。
レイヴンは店主たちに正規品の販売研修を提案した。
病院から遠い村へ薬を届けるには、彼らの店が必要だった。
利幅を適正にし、品質を守る仕組みなら、商売と医療は両立できる。
発表会には商人も医師も農民も来た。
ある商人は不満げに言った。
「高価な薬ほど価値がある。安く売れば誰もありがたがらない」
レイヴンは答えた。
「価値は値札で決まりません。助かった人が翌朝を迎えられることです」
金貨一枚の値札を見た男が、笑いながら泣いた。
「昨日までは、娘のために家を売るつもりだった」
だが工房の会計係は、原料不足の数字を指した。
レイヴンは価格を維持する代わりに、無駄になった薬瓶の回収制度を始めた。
安くなったという一日の喜びを、来年も続く仕組みに変えなければならない。
仕立て職人の妻は、夫が再び針を持つ姿を見て涙をぬぐった。
完治にはまだ時間がかかる。
それでも、仕事へ戻る日を二人で相談できるようになった。
レイヴンはその会話を聞き、原価表の数字がようやく人の暮らしにつながったと感じた。
会場の後方に、手を痛めた仕立て職人が立っていた。
かつて治療費が払えず、針を持つ仕事を諦めかけた男だ。
公的補助を使えば、治療に必要な薬を受け取れると知り、何度も説明を聞き返した。
マリシアは手術や訓練も必要だと丁寧に話した。
薬一本で元通りになると約束はしなかった。
翌週、職人は診療所で治療を受け、少しずつ指を動かす訓練を始めた。
リーナは彼が初めて針を持ち上げた日を記録した。
男は笑って言った。
「昔は薬の値段を聞くだけで帰ってた。今日は、次に来る日を決められる」
価格の発表を受け、各国から注文が殺到した。
だがレイヴンは納期を偽らず、在庫と生産計画を公開した。
病院への優先供給、転売防止、緊急備蓄を同時に整える。
値下げが成功しても、必要なときに届かなければ意味がない。
レイヴンは販売価格を決める会議に患者代表を招いた。
医師や商人だけで決めれば、薬を買えない人の事情が抜け落ちる。
代表の女性は遠慮がちに、薬代より往復の馬車賃が高い村もあると話した。
次の議題に、移動診療所の費用が加わった。
市場の一角で、薬の価格表が張り替えられた。
人々は目を疑い、何度も店主に尋ねた。
店主は検査印と製造番号を見せ、安全な正規品だと説明した。
安くなったことだけでなく、安心して買えることが新しい価値になっていた。
マリシアは治療費の補助申請を簡単にするよう役所へ申し入れた。
難しい書類が何枚も必要なら、字を読めない人はまた診療所の前で引き返してしまう。
制度の入口を広げることも、薬を安くするのと同じくらい重要だった。
安い薬が届いた町で、薬屋の主人は戸惑っていた。
高価な在庫を抱えたまま価格が下がれば、店は潰れる。
レイヴンは旧在庫の買い取りと、品質管理研修への参加を提案した。
値下げの勝利が、別の暮らしを壊してはならなかった。
価格表の数字が変わった日も、工房ではいつもどおり検査が続いた。
薬瓶を光に透かし、異物がないか確かめる。
レイヴンはその地道な作業を見守った。
奇跡の値段が下がっても、一本の薬に託される命の重さは変わらない。
診療所の受付には新しい案内板が置かれた。
薬代だけでなく、補助を受ける方法も書いてある。
字の読めない人には職員が声に出して説明した。
値下げを発表した夜、工房の会計係がレイヴンを呼び止めた。
新しい価格では、遠方への輸送費が赤字になる地域がある。
レイヴンは帳簿を見て、販売価格を一律に下げるだけでは公平にならないと気づいた。
都市の近くに住む者ほど安く買え、遠い村ほど高くつく。
彼は各国の医療基金に共同輸送費の負担を提案した。
反対も出たが、村の診療所がなくなれば重症化した患者を都市へ運ぶ費用がさらに増えるという試算が支持を集めた。
翌月、山間の村に初めて定期便が届いた。
村長は薬瓶を受け取り、静かに礼を言った。
新しい価格制度が始まると、診療所の窓口では質問が増えた。
補助の対象はどこまでか。
治療後の通院費はどうなるのか。
リーナは一つずつ聞き取り、分かりにくい説明を直していった。
薬を安くする発明と、患者に届く言葉を作る仕事は、同じ改革の両輪だった。
翌月、基金の会計係が不正申請の疑いを持つ帳票を見つけた。
だが調べると、同じ住所からの申請は一人の病人を看病する親族たちのものだった。
リーナは患者を疑う前に受付の記入方法を直した。
基金は支給額と審査理由を匿名で公表し、商人と医師と住民が確認する仕組みになった。
値下げの日の拍手より、母親が次の通院日を安心して手帳に書けることが、レイヴンにはずっと大きな成果に思えた。
基金の担当者は翌月の申請件数を示した。
制度変更で窓口に来られる人が増えた一方、補助の審査が追いつかない。
レイヴンは職員を責めず、審査日数を公開することにした。
母親が次に薬を必要とするとき、偶然その場に自分がいなくても受け取れる仕組みにするためだった。




