第十四話 金貨千枚の薬が百枚になった日
工房の机に、三枚の原価表が並んだ。
最初のエリクサーは材料だけで金貨三千枚。
七日製法で千枚。
今度の試作では、百枚まで下がっていた。
薬の値札を書き換えた日、店先の人々は歓声を上げなかった。
安くなった数字を何度も読み返し、間違いではないかと尋ねた。
レイヴンは原料と製造費の内訳を見せ、価格を下げても品質検査を省いていないと説明した。
母親がようやく財布を開いたとき、彼は値下げが人の選択を変えることを知った。
値下げを発表した直後、診療所の医師が駆け込んだ。
「安くなった分、予約が三倍です」
レイヴンは喜ぶ職人たちに、今夜出荷できる本数を問い直した。
価格の数字より、約束を守れるかが問われていた。
「計算を間違えていませんか」
マリシアが三度目の確認を終えて言った。
「間違いなら、僕も嬉しいんだけどね」
完成した薬瓶を見たリーナは、
「これでみんな治るの?」
と尋ねた。
レイヴンは少し考えてから答えた。
「治せる病気は増える。でも、どんな病気でも必ず治るわけじゃない。それに、一本作るだけでもまだ高いんだ」
値札を百枚に書き換える直前、ゴルバは原料の支払票を突き出した。
「安くするのはいい。だが、次の月に畑の人間が賃金を受け取れなければ終わりだ」
レイヴンは値下げを一度止め、薬草農家への支払額と工房の備蓄を計算し直した。
安さを誇るために、薬を育てる者を飢えさせるわけにはいかなかった。
価格を下げた日の夕方、古参の薬草商がレイヴンに尋ねた。
「安くした分、誰が泣く?」
彼は仕入れ票を広げ、農家への支払いを削っていないことを示した。
だが輸送を担う人足の賃金だけが薄かった。
レイヴンは値下げの成功を祝う前に、その欄を修正した。
「じゃあ、もっと安くして」
子供らしい、まっすぐな言葉だった。
「うん。そうするために、みんなで働いてる」
その夜、ゴルバという鍛冶職人の名前が、古い商人から届いた手紙に書かれていた。
安全装置に詳しいが、軍の工房を追い出された頑固者らしい。
レイヴンはその紹介状を何度も読み返した。
製造原価を下げる次の一歩は、自分の手で釜をかき混ぜることをやめることかもしれない。
レイヴンは銀斑草の抽出液を小瓶に注いだ。
エルナが育てた試験農園の初収穫から採ったものだ。
濃度は安定していない。
だからこそ、原料ごとに魔力反応を測り、必要な分だけ触媒を足す仕組みを考えた。
最大の節約は、触媒を一度で捨てないことだった。
使用後の触媒を洗浄し、傷んだ部分だけ補修する。
これまで誰も試さなかったのは、触媒は使い捨てるものだと教科書に書かれていたからだ。
「古い方法を疑うのはいい。でも、新しい方法を信じすぎてもいけない」
レイヴンは試験管を並べ、再利用回数ごとの純度を比較した。
三回目までは安全域。
四回目から急に不純物が増える。
使える回数を決め、越えたものは必ず廃棄することにした。
試作品が完成したのは夜明け前だった。
黄金色の薬液は澄み、魔力の揺らぎも少ない。
だが、製造に成功したことと患者に使えることは違う。
マリシアが検査項目を読み上げ、レイヴンが一つずつ確認する。
翌日、マリシアは新しい原価表を持って診療所へ行った。
そこには金貨百枚という数字が書かれていたが、待合室の患者たちは喜ぶどころか困った顔をした。
「百枚なんて、うちの家を売っても届かない」
老人の言葉に、マリシアは黙った。
王宮では金貨千枚の薬が百枚になるだけで革命と呼べる。
だが、貧しい人にとってはどちらも手の届かない値段だ。
レイヴンはその話を聞き、製造原価と販売価格の違いを帳面に書き出した。
設備を維持する費用、職人の賃金、検査に使う薬品、壊れた装置を直すための備え。
原価だけ下げても、工房が潰れれば供給は止まる。
「続けられる形で安くする。それが一番難しい」
エルナは頷いた。
「畑も同じです。今年だけ収穫できても、来年土が痩せたら意味がありません」
二人は次の試験計画を作り始めた。
「純度、合格。安定性、合格。既知の毒性反応、なし」
レイヴンは金貨百枚の薬瓶を手に取った。
かつてなら、こんな薬を自分が作れるだけで満足していたかもしれない。
だが今は、薬瓶の向こうに待合室の顔が見える。
「まだ遠いな」
呟くと、マリシアが答えた。
「遠くても、前より近づきました」
確かにそうだった。
最初は作り方すら分からなかった。
今は費用を数え、改善点を挙げられる。
次に必要なのは、製造の手を増やすこと。
レイヴンは新しい装置の設計図を広げた。
マリシアの声が震えた。
「百枚です。
金貨百枚で、本当に作れました」
窓の外では、農園へ向かう人々が朝の挨拶を交わしていた。
彼らの手で育てた草が、誰かの命を救う薬になる。
収穫した薬草を量り終えると、農夫は買い取り票を何度も見返した。
「約束した値段のままだな」
エルナは頷いた。
レイヴンは薬房へ戻り、値札を下げた。
畑での改善が患者の手に届いたと確かめるまで、成功とは呼ばないつもりだった。
値下げを告げた日、最初の客は薬瓶を買わずに帰ろうとした。
「百枚でも、うちには払えない」
レイヴンは呼び止めず、マリシアと分割払いの仕組みを相談した。
千枚から百枚になった数字を祝うだけでは足りない。
店の扉の外に残る人を数えることから、次の改良が始まった。
レイヴンは原価表の隅に書いた。
「次の目標――百枚でも買えない人へ届ける方法」
安くなっただけでは、まだ十分ではなかった。
原価表の最後に、レイヴンは小さく
「継続」
と書き込んだ。
今日だけ安く作れても意味はない。
明日も、来月も、来年も、同じ品質の薬を届ける。
そのためには、まだ学ぶことが山ほどあった。
原価が下がったという噂を聞き、王都の小さな診療所から使者が訪れた。
足の悪い母親を抱える青年だった。
「金貨百枚なら、皆で金を出し合えば買えるかもしれない」
レイヴンは彼の話を聞き、患者の状態を確認した。
エリクサーが必要な症状かどうかを判断するためだ。
マリシアの診察では、もっと安価な回復薬と適切な処置で改善できる可能性が高かった。
青年は拍子抜けした顔になった。
「高い薬を買わなくてもいいんですか」
「必要のない薬を売るのは、治療ではありません」
青年は深く頭を下げた。
帰り際、彼は農園で働きたいと申し出た。
レイヴンはエルナを紹介した。
薬を必要とする人が減ることも、彼らの仕事の成果だった。
マリシアは診療所の壁に、新しい薬の使用条件を書いた。
どんな症状に向くか、どんな場合は医師の判断が必要か、保存期間はどれほどか。
安く作れるようになったからこそ、使い方を誤る人が増えてはいけない。
レイヴンは説明を読み直し、専門用語を減らした。
患者が理解できることも、薬の品質の一部なのだと思った。
翌朝、レイヴンは工房の仲間を集め、原価表を壁に貼った。
高価な材料、燃料、触媒、器具の交換費用。
数字を隠さず見せると、作業員たちは意外そうな顔をした。
「こんなにお金がかかっていたんですね」
とミリナが呟く。
「だから、どこを改善できるか皆で考えたい」
ゴルバは古い釜の燃料効率を指摘し、エルナは収穫後の乾燥方法を変えれば廃棄が減ると言った。
マリシアは品質検査の順序を見直し、無駄な再試験を減らせると提案した。
レイヴンは意見を一つずつ書き留めた。
天才一人が奇跡を起こすのではない。
毎日同じ仕事をする人々の気づきが、薬を安くしていく。
彼はそのことを、王宮を追われてから初めて知った。
レイヴンは工房の灯りを落とし、窓から畑を見た。
暗がりの向こうに、収穫を終えた農民たちの家の明かりが点々と続いている。
一本の薬を安く作るために、多くの人が働いてくれた。
次に挑むべきは、同じ品質をもっと速く、もっと安全に作ること。
彼は設計図を丸め、鍛冶職人に会う予定を明日の帳面へ書き込んだ。
マリシアは金貨百枚の数字を指でなぞった。
まだ高い。
それでも千枚だった頃より、確かに救える人は増える。
彼女は帳面を閉じず、次の患者のためにできることを考え始めた。




