第百二十六話 かつて飢えた少女が、今度は百万人を救った
ミリナが初めて救援隊の前に立ったとき、彼女の手には半分に割れたパンしかなかった。
今、同じ手には、百万食分の食糧輸送計画が握られていた。
帝国北部の被災地で、食糧の配給が滞っているという。
道路は泥で塞がれ、橋は崩れ、役人たちは互いに責任を押し付け合っていた。
「私が行きます」
ミリナの申し出に、リーナはすぐ頷かなかった。
彼女はまだ若く、長距離輸送の指揮経験も少ない。
「怖くないの?」
「怖いです。でも、昔の私みたいな子が待っているなら、行きたい」
リーナは条件を付けた。
現地の輸送隊長と共同指揮にすること。
食糧の量だけでなく、実際に届いた人数を確認すること。
危険な橋を無理に渡らないこと。
ミリナは出発前に、村のパン屋で小さな包みを買った。
最初に救われた日に食べたのと同じ、硬い黒パンだった。
現地では予想以上に混乱していた。
穀物は港に積まれたまま、山間の村へ届かない。
軍の指揮官は大きな町から優先すべきだと主張した。
「人口が多いから当然だ」
「人数だけで決めれば、山の村は冬を越せません」
ミリナは地図に輸送日数を書き込んだ。
大きな町は近隣の倉庫からも補給できるが、山間の村はこの便を逃すと雪で孤立する。
彼女は必要量と到達可能性を比べ、配分を組み替えた。
途中、橋が崩れたという報告が届いた。
隊長は撤退を提案したが、ミリナは村人から古い渡し場の存在を聞き出した。
小舟で少しずつ運び、対岸では馬ではなく人の手で袋をつないだ。
何日もかかった。
配給所で最初の鍋に麦粥が煮えたとき、誰も歓声を上げなかった。
人々はただ、黙って食べた。
飢えた人にとって、感謝の言葉より先に必要なものがある。
ミリナは子供の一人に黒パンを渡した。
少年は半分を妹に差し出した。
その仕草を見た瞬間、彼女の胸が詰まった。
自分がかつて、同じようにパンを分けてもらったことを思い出したからだ。
輸送が終わるころ、支援を受けた人数は百万人に達した。
新聞は『少女が百万人を救う』と報じた。
だがミリナは記事を訂正させた。
「私一人じゃありません。農民が育て、職人が倉庫を作り、船乗りが運び、村の人が配ったんです」
百万食の輸送計画には、失敗しかけた瞬間が何度もあった。
最初の港では、役人が出荷証明の印章が足りないと言って荷を止めた。
ミリナは怒鳴りたくなったが、書類を確かめると、確かに保存状態の検査記録が抜けていた。
彼女は検査員を呼び、荷を一部ずつ確認させた。
急ぐからこそ、腐った食糧を届けるわけにはいかなかった。
山道では荷車が車輪を失った。
護衛兵は荷を捨てて進もうとしたが、村の鍛冶職人が即席の車軸を作った。
ミリナは職人の名を日誌に記した。
名もない人の仕事を『奇跡』という言葉で片づけたくなかった。
最も難しかったのは、配給所での順番だった。
強い人が先に並び、体の弱い人が後ろに残る。
ミリナは整理券を配り、歩けない人には訪問配給を行った。
だが、一人暮らしの老人が名簿から漏れていたことが分かった。
彼女は自分で家を訪ね、次から村の代表に確認してもらう仕組みを作った。
百万人への支援は、ミリナ一人の手柄ではなかった。
彼女が率いたのは、村の倉庫番、船員、農業技師、診療所の職員たちだ。
支援先の少年が麦の袋を抱え
「次は僕が運ぶ」
と言ったとき、ミリナはかつてパンを受け取った自分を思い出した。
夜、ミリナはリーナへの報告書を書いた。
『今日も届かなかった村があります』
何度も書き直したが、良い言い訳は見つからなかった。
翌朝、返事が届いた。
『届かなかったことを隠さないで。
明日の道を探すための記録です』
ミリナは手紙を胸にしまい、もう一度地図を広げた。
百万食に達したという知らせが来たとき、ミリナは計算をやり直させた。
出荷した数ではなく、受け取った人に渡った食事の数。
重複を除き、破損分を差し引く。
確認が終わるまで、彼女は祝賀会に出なかった。
帰国後、ミリナは学校で子供たちに話した。
「勇気があれば何でもできるわけじゃありません。私は何度も間違えました。でも、間違えたときに教えてくれる仲間がいました」
トーマは質問した。
「それでも怖いときは?」
ミリナは笑った。
「怖いまま、相談していいんです」
帰国したミリナをリーナが迎えた。
「おかえり」
ミリナが救援の報告をした日、帝国の村から一枚の絵が届いた。
雪に囲まれた家の前で、子供たちが鍋を囲んでいる。
絵の裏には『来年は自分たちで麦を育てたい』と書かれていた。
ミリナは農業技師を紹介し、春に種を送る約束をした。
食べ物を渡すことは終わりではなく、次の収穫への橋になる。
リーナはミリナの報告書に赤い印を付けた。
『百万人を救った』という見出しの横に、『次の冬に備えた村の数』も書くよう求めた。
ミリナは最初、不満そうだった。
ようやく終えた仕事が、まだ終わっていないと言われた気がしたからだ。
だが翌朝、彼女は新しい欄を作った。
人を救う仕事に終点はなくても、休んではいけないわけではない。
リーナは彼女に三日の休暇を命じた。
休暇の初日、ミリナは故郷の畑で父親と種を選んだ。
特別なことは何も起こらなかった。
夕食には温かいパンがあった。
ミリナはそれをゆっくり食べた。
遠い村の子供たちにも、こんな夜が訪れていることを願いながら。
「先生。私、あの日のパンを返せましたか」
ミリナの帰国を祝う宴で、国王は金の勲章を差し出した。
彼女は受け取る前に尋ねた。
「この勲章の費用で、何食分の給食が作れますか」
会場は静まった。
国王は苦笑し、勲章はそのまま渡したうえで、同額を学校給食へ寄付すると約束した。
ミリナは勲章を故郷の学校に預けた。
子供たちが触れられる高さに置き、横には輸送隊の全員の名前を書いた。
金色の飾りより、名前の列の方が長かった。
トーマはその名簿を読んで言った。
「僕もいつか、ここに名前が載るような仕事がしたい」
ミリナは答えた。
「大きな仕事じゃなくていい。困っている人に手を貸せたら、それで十分よ」
「返さなくていいのよ」
リーナは彼女を抱きしめた。
「あなたが誰かに渡したなら、それで十分」
ミリナは声を上げて泣いた。
泣き終わるまで、リーナは何も言わなかった。
ミリナが休暇から戻ると、救援隊の若者が新しい計画を持ってきた。
次の冬に備えて、山間の村へ小さな備蓄庫を作りたいという。
ミリナは自分が指揮するのではなく、若者たちに現地調査を任せた。
戻ってきた報告書には、村ごとの人数と保存できる食糧の量が丁寧に書かれていた。
「私がいなくても、できるんですね」
とミリナは呟いた。
リーナは頷いた。
「それが、いちばんいい結果よ」
最後の荷車を送り出したあと、ミリナは荷台の隅に落ちていた小さなパン屑を拾った。
幼い日に握りしめた半分のパンと、同じ匂いがした。
「全部届けられた?」
と隣の少年が聞く。
「まだ。次の村が待ってる」
ミリナはパン屑を口に入れず、少年の手に渡した。
そして救援隊の先頭へ走った。




