第百一話 世界で最も貧しい国から届いた救援要請
レイヴンが第一線を退いてから数年。
リーナは医療支援機構を率い、農業研究者との共同調査も続けていた。
薬液そのものを土に使うのではなく、汚染を分離する工程だけを応用できるかが課題だった。
救援要請の封筒には、国王の印より小さな子供の絵が入っていた。
痩せた畑と空の皿。
リーナは絵を会議机の中央に置いた。
「この国の問題を数字だけで決めないでください」
国際医療支援機構の朝は、いつも患者の数から始まる。
リーナは各国の報告を読み終え、最後に差出人の印がない封筒を開いた。
紙は何度も水に濡れ、端が固くなっている。
『アルディア王国。
飢餓による死者、今月だけで四千二百人。
子供が先に死にます。
薬ではなく食べ物をください』
署名は国王ではなかった。
国境の診療所で働く看護師の名前があった。
救援要請の封蝋は、何度も開け閉めされた跡で欠けていた。
アルディアからの手紙は、各国の窓口をたらい回しにされて届いたものだった。
リーナは飢えた人数だけでなく、次の収穫までの月数を尋ねた。
レイヴンは返事を待つ彼女に、地図の端に書かれた古い水路の名を指し示した。
出発の準備をしていると、会計官が支援金の出所を尋ねた。
医療予算は病院や薬のために確保されている。
リーナは使途の一覧を一つずつ調べ、栄養失調の治療に必要な食糧と水の確保が医療行為の一部であることを説明した。
ただし、農地造成費まで医療予算から出すつもりはなかった。
各国の農業基金へ別途申請し、審査を公開することにした。
何でも救済の名で押し通せば、次に支援を求める人の信頼を失う。
「食糧支援の窓口に回したの?」
マリシアの後継者である事務局長が問う。
リーナは首を振った。
「三度回されて、ここへ戻ってきたの。各国とも備蓄を減らしたくないそうよ」
議場には二十か国の代表がいた。
疫病ならば即日救援隊が組まれる。
しかし飢餓という言葉が出た途端、誰もが予算と国境の話を始めた。
港で積み込みを見ていた少女が、リーナの袖を引いた。
少女の父親は昔、レイヴンの工房で働いていたという。
「父は、薬を一本作るのに百人の仕事があると言っていました」
リーナは頷いた。
「食べ物も同じね。種を育てる人、水を運ぶ人、袋を縫う人。みんな必要よ」
少女は救援用の袋に小さな麦の絵を描いた。
荷札に混じったその絵が、リーナにはどんな王家の印より頼もしく見えた。
「治癒薬を千本送れば?」
若い代表が提案した。
「空腹は病名ではありません」
とリーナは答えた。
「栄養失調の患者に薬を与えても、明日の食事がなければ助からない」
かつて自分が倒れていた貧民街の寝台を思い出した。
レイヴンは薬を飲ませる前に、温かい粥を用意してくれた。
あの順番を、彼女は忘れていなかった。
航海の途中、支援隊は食糧の配り方を練習した。
先着順では体力のある人ばかりが受け取ってしまう。
村ごとの人口と重症者の数を調べ、子供や妊婦、病人へ優先的に届ける。
名簿にない旅人も追い返さないため、緊急枠を残した。
ミレナは
「病院の受付より難しいわね」
とため息をついた。
リーナは答えた。
「だから、現地の人に教わらなくちゃ」
アルディアからの手紙には、救援を求める文章の下に、幼い手で描かれた麦の絵があった。
リーナは差出人の欄を見たが、村の名しか書かれていない。
「名前を書く余裕もなかったのね」
会議では輸送費の高さが問題になった。
リーナは絵を机の中央に置いた。
「まず、現地で何が育たないのかを確かめに行きます」
アルディアの地図は赤い印で埋まっていた。
百年にわたり収穫量が減り、ここ十年で飢饉が常態化した。
隣国から買った穀物は港に届く前に値が上がる。
井戸は枯れ、村から村へ人が逃げている。
医療機構の規約には、食糧生産の支援を禁じる条文などない。
ただ、誰も前例を作ろうとしなかった。
出航の日、レイヴンは港まで見送りに来なかった。
代わりに、土の入った小瓶と手紙が届いた。
『この土は、最初の工房の裏庭から取った。
昔は瓦礫だらけだった。
今は子供が花を育てている』
リーナは瓶を鞄の奥にしまった。
貧しい土地が豊かになるのは魔法の一瞬ではない。
誰かが石を拾い、水を運び、何度も種を蒔いた結果だ。
彼女はその時間を、アルディアでも作ろうとしていた。
リーナは議長席に立った。
「薬を配るだけでは足りません。医療機構の農業技術班を、アルディアへ派遣します」
反対の声が上がる。
「失敗したら責任は?」
「私が負います。ただし、失敗を恐れて何もしない責任も、議事録に残してください」
静寂の中で、かつて敵国の医師だったミレナが手を挙げた。
「現地医療班を出す。飢えた人を診た経験なら、私たちにもある」
一人、また一人と手が上がった。
その救援要請が届いたのは、レイヴンの生涯を記した記念式典から数年後のことだった。
リーナはすでに医療支援組織の責任者で、師から預かった古い計量匙を机に置いていた。
師の時代に築かれた制度は続いている。
だが、病を治せても飢えを治すことはできなかった。
船が出る前、リーナは支援隊の名簿に現地出身者が一人もいないことに気づいた。
港で働くアルディアの移民たちを訪ね、通訳と案内役を募った。
故郷を離れた人々は最初、顔を曇らせた。
「帰っても、もう家はないかもしれない」
一人の女性が申し出た。
「弟がまだ向こうにいます。道なら覚えています」
彼女の名前はフィオナ。
故郷の方言を知り、どの村がどの井戸を使うかまで覚えていた。
リーナは彼女を案内人ではなく、正式な調査員として雇った。
その夜、リーナはレイヴンの古い研究室を訪ねた。
老人は窓辺で薬草の苗を植え替えていた。
「先生、病気ではなく、大地を治したいんです」
レイヴンは手を止め、封筒の染みを見つめた。
「大地は人間より気が長い。だが、腹を空かせた子供は待ってくれない」
棚から古い土壌分析器を取り出す。
「まず土を調べなさい。奇跡を約束するのは、その後だ」
食糧の船積みが終わったころ、反対していた代表の一人が港へ来た。
「農業に手を出せば、医療機構は本来の仕事を忘れる」
リーナは荷を指さした。
「ここには消毒薬も包帯もあります。飢えた人には病気が増える。病気を減らすには食べ物も必要です」
代表は答えなかったが、翌朝、母国の井戸掘り技師を二人派遣した。
議場で賛成を得られなくても、現場の仕事が人を動かすことはある。
出発前、リーナは備蓄倉庫を開けた。
救援食糧は二週間分。
必要な量の十分の一にも満たない。
「足りません」
と隊員が言う。
「だから行くの」
彼女は封筒を鞄に入れた。
地図の上で赤く塗られた国にも、朝を待つ人々がいる。
最初の仕事は、彼らの顔を見ることだった。
航路の最後の夜、嵐で船が揺れた。
食糧袋が濡れないよう、隊員たちは交代で見回った。
リーナは甲板の端で、遠くの暗い海を見た。
昔、レイヴンが薬を持って自分の寝台に来てくれた夜も、外は雨だった。
救われた人間が次の誰かを救う。
それは美しい言葉だが、実際には濡れた袋を運び、眠い目で数を確かめることなのだと、彼女は思った。
翌朝、アルディアの海岸が見えた。
港の灯台は半分崩れ、岸壁には仕事を待つ人々が並んでいた。
船が近づくと、誰かが白い布を振った。
歓声は上がらない。
まだ何が運ばれてきたのか分からないからだ。
リーナは船倉へ降り、最初の食糧袋を自分の肩に担いだ。
袋の重みは、約束の重みだった。
アルディアからの救援書簡には、必要な薬の数より先に、種をまく土地がないと記されていた。
リーナは薬箱を閉じ、農業技術者を呼んだ。
「病人を治しても、明日また飢えさせるなら救援は終わらない」
彼女が初めて選んだ荷物は、薬だけでなく土壌を調べる道具だった。
出航前の最後の点呼で、フィオナが一人の少年を連れてきた。
港で荷運びをしていたアルディア出身の孤児だという。
「帰りたいんです。でも、向こうに家族がいるか分からない」
リーナは船に乗せることを即答しなかった。
未成年の保護手続きと身元確認が必要だったからだ。
支援隊の保護担当者が話を聞き、少年は正式に同行を認められた。
彼は甲板から故郷の方角を見つめた。
「帰ったら、学校を探します」
リーナはその言葉を胸に刻んだ。
飢えをなくすことは、子供が帰る場所を作ることでもある。




