第一話 王宮錬金術師団を追放された日
査定の三日前、レイヴン・ノーチスは治療院から届いた薬瓶の底に、黒い沈殿を見つけた。
検査記録には、王宮の正式な認可印が押されていた。
認可済みの薬に欠陥があると報告すれば、査定を控えた自分の立場も危うくなる。
それでも、薬瓶の底に沈む黒い粒を見なかったことにはできなかった。
若い兵士の傷が何度も炎症を起こしている。
調べると、支給された回復薬に微量の毒性が残っていた。
レイヴンは製造工程を洗い直し、温度と保存時間の違いが原因だと突き止めた。
「この薬を作った者を罰するのか」
と医師長が尋ねた。
「いいえ。手順を変えれば、次の患者を守れます」
その日の夕方、若い助手が廊下で彼を追いかけた。
「報告書に名前を書いたら、僕も査定で落とされますか」
「分からない。だから署名は強要しない」
「でも、あの薬を使ったのは僕の妹です」
レイヴンは足を止めた。
助手の妹は、熱が引いたあとも手足の震えが続いていた。
治療院から戻った報告書には『回復』とだけ記されている。
「治ったという一語では、次に同じ薬を飲む人を守れない」
助手は震える手で自分の名を書き加えた。
レイヴンはその紙を受け取らず、複写を作って本人に返した。
証言が消されても、事実まで消えないようにするためだった。
査定前夜、治療院から
「危険でもいいから薬を届けてほしい」
という書状が届いた。
だが不純物の残る薬は出せない。
レイヴンは自分の給金で安全な旧式薬を買い、夜のうちに運んだ。
帰りの馬車賃はなくなった。
夜明け前、彼は保管棚を一つずつ確認した。
封印の緩い瓶を交換し、温度記録の欠けた欄には注意書きを残す。
通りかかった掃除係が首を傾げた。
「もう辞めさせられるかもしれないのに、そこまで?」
「ここを出たあとにも、薬を飲む人がいますから」
掃除係は何も言わず、棚の埃を拭き始めた。
王宮の鐘が九つ鳴った。
査定室には長い机が一つ。
奥にシュミット、左右に人事官と監査官が座り、製造実績の紙が並べられていた。
レイヴンの欄だけが赤く囲まれている。
「月間製造数、最下位。戦闘魔法適性なし。魔力総量、平均以下」
数字が読み上げられるたび、レイヴンは治療院の妹の震える指を思い出した。
救えなかった結果は査定表に残らない。
ならば、この場で誰かが口にしなければならなかった。
「品質検査の工程が数えられていません」
「言い訳は結構だ」
レイヴンは検査表を机に置いた。
「この三件は毒性が残っていたため出荷を止めました。数字には入りませんが、患者を危険にさらさずに済みました」
「止めたのはお前の勝手だ」
隣の若い錬金術師が一歩進んだ。
「師団長。昨日の薬を止めなければ、僕の妹が飲むところでした」
監査官の羽根ペンが止まった。
だが、その証言は記録されなかった。
シュミットは決裁書を突き出す。
国王の印が押されていた。
「本日付で解任する。王宮の設備も資料も置いていけ」
レイヴンは革表紙の研究ノートに手を伸ばした。
「失敗例だけでも返してください。次の事故を防ぐための記録です」
「王宮で書いたものは王宮の財産だ」
シュミットがノートを引き寄せた。
レイヴンは拳を握ったが、争えば助手まで処罰される。
何も持ち出さず、査定室を出た。
昼過ぎ、二着の服と古い鞄を持って裏門へ向かった。
門番の老人がパンと塩漬け肉を押しつけてくる。
「本当に行くのか。あんたの薬で、うちの孫は助かったんだ」
「役に立てたなら、それで十分です」
「十分なものか。礼くらい受け取れ」
門を出たところで、背後の窓から怒鳴り声がした。
「お前の代わりなど百人いる!」
レイヴンは振り返らなかった。
雨が石畳を濡らしている。
市場の宿代を思うと財布は軽い。
それでも、鞄の底には私物の安い計量匙が一本ある。
数年前、助けた兵士にもらった木彫りの鳥もあった。
片翼が欠けている。
直せるのに直さなかったのは、欠けたものにも価値があると忘れたくなかったからだ。
そのころ王宮の治療室では、医師が保存試験の結果に目を疑っていた。
通常の回復薬は七日で効力が落ちる。
ところが三十日前にレイヴンが試作し、保存試験に回していた一本だけは、今朝の測定でも変質していない。
「測定器の故障か?」
再測定しても、同じ数値だった。
レイヴンは知らない。
彼はパンを半分だけ食べ、残りを明日のために包んだ。
塔の影を抜けたところで、ようやく口にした。
「今度は、誰の許可もいらない場所で作ろう」
宿へ向かう途中、レイヴンは立ち止まった。
追放された悔しさより、明日から患者の薬を確かめる場所がないことが怖かった。
王宮の研究室には、まだ危険な瓶が残っている。
彼の名を消したところで、沈殿は消えない。
鞄から安い計量匙を取り出した。
金属の柄には何度も洗った傷がある。
これ一本で薬を作れるわけではない。
材料も、火も、検査する器具も要る。
それでも、何から始めるかは決められた。
「まず、誰かが飲んでも大丈夫な一本を」
その言葉を声にすると、ようやく足が前へ出た。
翌朝、王宮に残った助手は、棚の端に貼られた注意書きを見つけることになる。
『沈殿がある場合、出荷しないこと』
署名はなかった。
だが助手には、その文字が誰のものか分かった。
夜の宿で、レイヴンは財布の銅貨を数えた。
宿代には足りない。
女将に頼んで薪割りを手伝い、ようやく寝台を借りた。
慣れない斧で手のひらに傷を作ると、女将は呆れて布を渡した。
「薬を作る手なんだろう。大事にしな」
「もう王宮の薬師ではありません」
「肩書きを聞いたんじゃないよ」
その言葉に、レイヴンは返事ができなかった。
夜更け、机に紙を広げ、工房、材料、器具、検査法と書き出した。
どれも今の彼にはない。
けれど、危険な薬を見過ごさないという決意だけは失っていなかった。
窓の向こうの王宮の灯が一つずつ消える。
彼は紙を裏返し、明日最初にすることを記した。
『助けを求める声を聞く』
ほどなく、その言葉どおりの出会いが待っているとは、まだ知らなかった。
翌朝、レイヴンは薪割りの代金として受け取った銅貨を机に並べた。
薬瓶一つを買うにはまだ足りない。
女将が残した割れた陶器の小皿を借り、計量匙を洗う水の量まで紙に記した。
王宮の設備は失った。
けれど、間違った薬を渡さないという約束だけは、今も自分の手の中にあった。
出発するとき、彼は宿の女将に礼を言った。
「薬が必要になったら、南門の方へ探しに来てください」
女将は笑って首を振った。
「行き先も決まってないくせに」
レイヴンも苦笑した。
それでも、もう誰かに役立てる日を待つだけのつもりはなかった。
自分から探しに行くのだ。
追放の前夜、レイヴンは欠陥のある薬瓶と検査記録の写しを、別々の封筒に入れた。
一方は監査室へ、もう一方は治療院へ送った。
王宮が記録を消しても、患者の側に事実が残るようにするためだった。
翌朝、監査室の封筒だけが差し戻された。
封には
「受理不能」
とある。
治療院からは、短い返事が届いた。
「薬の使用を止めた。知らせてくれてありがとう」
その一文を読んだとき、彼は初めて、肩書を失うことより恐ろしいのは沈黙することだと思った。
雨上がりの石畳には、朝日が細く反射していた。
追放を言い渡された昨日と、同じ街の景色だった。
だがレイヴンは、もう王宮の塔を振り返らなかった。




