【第十章】第75話 異質な空気
ダンジョンの入口を越えた瞬間、温度が一段下がった気がした。
実際に冷えているのかは分からない。だが、肌に触れる空気の質が変わる。外の風のような流れがなく、どこか閉じ込められたような感触がある。
「……静かだな」前衛が小さく言う。
声は普通の大きさだが、やけに遠くに聞こえる。反響が弱い。
音が広がらず、その場で沈むように消えていく。
「壁の材質かもね」補助役が軽く返す。
軽口に近いが、どこか探るような調子だった。
「違う」思わず口に出る。
三人の視線が、わずかにこちらに向いた。
「音が吸われてるんじゃない。広がってない」
言いながら、自分でも違和感の正体を探る。
反響が弱いのではなく、そもそも伝播が弱い。空気が、動いていない。
「……空気の問題?」感知役が眉を寄せる。
「分からない。でも、流れがない」
いつもなら、空気は常に揺れている。
わずかな風、温度差、人の動き。それらが重なって、複雑な流れを作る。
だがここには、それがない。あるのは、均一な“止まり”。
「気のせいじゃないの?」補助役が肩をすくめる。
否定ではない。ただの確認だ。
「かもしれない」そう答えつつも、納得はしていない。
違和感は、はっきりとある。
「……進むぞ」指揮官が言う。判断は早い。ここで立ち止まる理由はない。
四人で陣形を組み、内部へ進む。
通路は広くない。左右は岩壁、天井も低めで圧迫感がある。
だが、それ以上に気になるのは空気だ。動かない。足を踏み出しても、風が起きない。
本来なら、人が動くだけで流れが生まれるはずなのに、それが感じられない。
「……」
試しに、わずかに魔力を広げる。空気を撫でるように。
いつもなら、それだけで微細な流れが掴める。
だが。「……引っかからない」
空気があるのは分かる。だが、掴めない。手応えがない。
水面に触れているはずなのに、波紋が立たないような感覚。
「どうした」前衛が振り返る。
「いや……」言葉を濁す。
まだ断定できるほどのものじゃない。
「少し、やりにくい」それだけにしておく。
「戦ってみれば分かる」指揮官が言う。
その通りだ。感覚だけで結論を出すには早い。
「前方、反応」感知役の声。
即座に空気が引き締まる。思考が切り替わる。
違和感は後回しだ。まずは目の前の敵。
「数は三。近い」配置は不明。だが、距離は詰まっている。
「正面で受ける」指揮官の指示。
前衛が一歩前に出る。それに合わせて、他の三人が配置につく。
いつも通り。そう思った瞬間、わずかなズレを感じた。
リズムが合わない。ほんの一拍。だが、確かに遅れている。
「……」気のせいか。
いや、違う。流れが繋がらない。
「行く」前衛が踏み込む。
速い。だが、予測が少し遅れる。
空気が動かないせいで、動きの“予兆”が掴めない。
敵が現れる。三体。人型に近いが、動きはぎこちない。
「右、来る」感知役の声。
その瞬間、空気を動かそうとする。
足元に流れを作る。だが「……重い」
動かないわけではない。だが、遅い。反応が鈍い。
意図した流れが、半拍遅れて発生する。
その間に、敵が踏み込む。
「ちっ……!」前衛が受ける。剣がぶつかる音が、やけに鈍い。
響かない。衝撃が、その場で止まる。
「合わせる!」声に出して、空気を流す。
今度は強めに。無理やり動かす。遅れて、流れが生まれる。
それに乗るように、前衛が踏み込む。
一撃。浅いが、当たる。
「……やれる」完全ではない。だが、機能はする。
問題は精度だ。
「左!」声が飛ぶ。
今度は早めに動かす。予測して、先に流れを作る。その上に、動きを乗せる。
今度は間に合う。斬撃が深く入る。一体、崩れる。
「残り二」冷静な報告。
だが、余裕はない。ズレは消えていない。補助が入る。だが、タイミングが微妙にずれる。重なりきらない。
「……繋がらない」小さく呟く。
連携は成立している。だが、滑らかじゃない。どこか引っかかる。
それでも、戦闘自体は問題ない。個々の能力で押し切れる。
二体目を処理。最後の一体も、連携というよりは力で仕留める。
静寂が戻る。呼吸を整える音だけが、やけに近くに聞こえる。
「……どうだ」指揮官が聞く。
短い問い。
「勝てる」まず結論を言う。
問題はそこじゃない。
「でも、やりにくい」
続ける。
「流れが作りづらい」
「さっき言ってたやつか」前衛が言う。
「そう」頷く。
「空気が……動かない」
言葉にすると、違和感がはっきりする。
「動かせないわけじゃない。でも、反応が遅い」
「……環境の影響か」補助役が呟く。
「かもしれない」まだ確証はない。だが、確実に何かが違う。
「……進むか?」感知役が聞く。その目は冷静だ。危険を察している。
「進む」指揮官は迷わない。
「この程度なら問題ない」
事実だ。今のところ、勝てている。
ただし。「……分かった」俺も頷く。
だが、胸の奥に引っかかるものは消えない。
これは、ただの違和感じゃない。もっと根本的な何かだ。
四人で再び歩き出す。ダンジョンの奥へ。空気は、相変わらず静止している。
流れがない。揺れがない。まるで、最初から“そういうもの”として存在しているかのように。
その中で、ふと気づく。さっきよりも、さらに動きが鈍くなっている。
ほんのわずかだが、確実に。
「……」口には出さない。
まだ断定できる段階じゃない。
だが、この先に行くほど、状況は悪くなる。
そんな予感だけが、はっきりとあった。




