第50話 空気の先へ(第六章・完)
学園の門をくぐった瞬間、空気の質が変わった気がした。
ダンジョンの重い気配とは違う、整えられた空間。石畳の上を行き交う学生たちの声、遠くで響く訓練の音。見慣れたはずの光景が、どこか現実味を失っている。
戻ってきた。それは間違いない。だが、同時に、何かが戻っていない。
「……妙だな」思わず呟く。
隣を歩くリナが肩をすくめた。「そりゃ妙でしょ。あんなの倒して帰ってきたんだから」
軽い口調だが、視線は落ち着かない。周囲を気にしている。
それも当然だ。すでに、視線が集まっている。
「あれじゃないか?」「本当に空気魔法で?」「いや、そんなわけ……」
ささやきが、隠しきれずに漏れている。
以前なら、そんな視線はなかった。あったとしても、嘲笑か無関心。だが今は違う。
「……なんか、居心地悪いね」
リナが小さく言う。
「前より見られてる気がする」
「気のせいじゃないな」
短く返す。明確に、変わっている。評価が。立ち位置が。
「……で、どうすんの?」
リナがちらりとこちらを見る。
「どう、って?」
「このまま普通に授業戻るの? それとも」
言いかけて、口を閉じる。
その意味は分かる。“普通”に戻れるのか、という問いだ。一瞬だけ考える。
そして、答えはすぐに出た。
「戻るさ」
「え?」
「やることは変わらない」
歩みを止めずに言う。
「観察して、仮説立てて、実験する。それだけだ」
リナは一瞬、呆れたような顔をした。それから、ふっと笑う。
「……ほんとブレないね」
「そういうものだろ」
むしろ、それしかできない。
戦いも、勝利も、結果に過ぎない。重要なのは、その過程だ。
何が起きたのか。なぜ起きたのか。そして、どうすれば再現できるのか。
「……あれも、まだ不完全だしな」
「え、あれで?」
リナが思わず声を上げる。
「いや、あれ以上って何?」
「安定してない」
簡単に答える。
「条件が揃わないと使えない。再現性も低い」
「……」
リナはしばらく無言になり、やがて深く息を吐いた。
「……ほんと怖いわ、それ」
怖い、か。その感覚は、少しだけ理解できる。
後ろから足音が近づく。振り向かなくても分かる。ライバルだ。
「……あの魔法」
低い声で言う。
「再現できるのか?」
「できる」
即答する。
「ただし、条件付きだ」
「条件?」
「空気の流れと、圧力差と、タイミング」
簡潔にまとめる。
「どれか一つでもズレれば成立しない」
ライバルはしばらく考え込む。やがて、小さく息を吐いた。
「……理屈は通ってる」
それは、初めての“肯定”だった。
「だが」
続ける。
「普通はそこまで考えない」
「そうかもな」
否定はしない。だが、それだけだ。
「……面白い」
ぽつりと、彼は言った。その言葉に、わずかな熱が混じっていた。
敵意ではない。興味だ。
「今度、ちゃんと見せろ」
「いいぞ」
短く答える。そのやり取りを見て、リナが笑う。
「なんか、変な組み合わせになってきたね」
「そうか?」
「うん。研究バカと天才と私」
「雑だな」
思わず言うと、リナは肩をすくめた。
「でも悪くないでしょ?」
「……ああ」
悪くない。むしろ、いい。そう思える自分がいることに、少しだけ驚く。
そのとき、教師の声が飛ぶ。
「お前たち、後で報告室に来い」
振り向くと、真剣な表情でこちらを見ている。
「ダンジョンの件について、上に報告が上がっている」
“上”。その一言で、空気が少し変わる。
「……了解です」
答える。これは、戦いの延長だ。ただし、相手は魔物ではない。
学園。そして、その先。報告室に向かう途中、ふと足を止める。視線を空へ向ける。
青い。何もない。ただの空だ。
だが「……空気は、まだ分かってないことばかりだな」
小さく呟く。
圧力、振動、燃焼、真空。ほんの一部に過ぎない。まだ触れていない領域が、いくつもある。
例えば、流れの完全制御。
例えば、音の共振。
例えば――
「……次は」言葉が自然と浮かぶ。
まだ形にはなっていない。だが、確かに“先”がある。
「まだ、終わりじゃない」
その瞬間。風が、わずかに流れた。ただの風だ。
だが、その中に、わずかな違和感を感じる。ほんの一瞬。
誰にも気づかれない程度の揺らぎ。
「……?」
振り返る。だが、そこには何もない。
学生たちのざわめきと、いつもの景色。
「どうしたの?」
リナが不思議そうに聞く。
「いや……」
首を振る。気のせいかもしれない。だが、確かに何かが引っかかった。
ダンジョンで感じた“痕跡”に、似ている。ほんのわずかに。
「……行くか」
それ以上は考えない。今はまだ、情報が足りない。
歩き出す。報告室へ。研究へ。そして、その先へ。
空気は、目に見えない。だが、確かにそこにある。
そして、まだ誰も知らない。そのすべてを。
最弱属性逆転編 完




