第41話 ダンジョン奥へ
ダンジョンの奥へ進むほど、空気は“減っていた”。
薄い、という表現では足りない。場所によっては確かに存在しているのに、数歩進むだけで突然欠落する。連続しているはずのものが、途切れている。呼吸をするたびに、その違和感が肺の奥に引っかかる。
歩くたびに、足音の質が変わる。石床に触れる感触は同じなのに、響きだけが不自然に歪む。音が遠くへ逃げるのではなく、途中で切り落とされているようだった。
隊列の動きは遅くなっていた。誰もが異変を感じ取っているが、その正体を言語化できていない。無意識のうちに足取りが慎重になり、距離を保つ間隔も広がっている。
リナが小さく息を吸った。「……さっきより、ひどくなってる」
答える前に、周囲の空気を探る。魔力を薄く広げ、流れを読む。
明らかに変化していた。空気の欠落が点ではなく、帯のように繋がっている。しかもその帯は、同じ方向へ伸びている。
「流れが強くなっている」
「やっぱり……引っ張られてる?」
「ああ」
短く頷く。だが、問題はそこではない。
魔力の反応が鈍い。
エアショットを試しに軽く発動させる。空気は動くが、普段よりも遅い。反応が一拍ずれる。媒介となる空気そのものが安定していないせいで、魔法の成立にも影響が出ている。
つまり、この異常は空気だけではない。
「……空間自体が歪んでいるな」
口に出して初めて、言葉の重さを理解する。
リナがこちらを見る。「それ、どういう意味?」
「空気がなくなっているだけなら、流れはもっと単純になる。だがこれは違う。距離の感覚もずれている」
実際、前方の壁までの距離が微妙に一定ではない。視界では同じ距離に見えるのに、歩幅で測ると誤差が生じる。空間の定義そのものが揺らいでいる。
そのとき、前方で動きが止まった。
「接敵!」
低い声が響く。
暗闇の奥から、複数の影が現れる。ゴブリン。数は多くない。通常であれば脅威にはならない相手だ。
だが、その姿に違和感があった。
輪郭が曖昧だ。
一瞬だけ、腕が消える。次の瞬間には元に戻る。存在が安定していない。
「なんだあれ……」
前衛の生徒が構えながら呟く。
ゴブリンが突進してくる。だがその動きは連続していない。瞬間的に位置がずれる。滑るように、跳ぶように、空間の歪みを無視して移動している。
一人の生徒が剣を振るう。確実に当たる軌道だった。だが、刃が触れる瞬間、ゴブリンの体がわずかに消える。
空振り。
直後、別の位置に再び現れる。
「当たらない!?」
「落ち着け、タイミングを――」
教師の声が飛ぶが、その直後、空気が歪む。
「下がれ!」
反射的に叫ぶ。
局所的な欠落が発生する兆候。空気の流れが一点に集中する。
次の瞬間、前方の空気が消えた。
音が途切れる。
ゴブリンの一体が、その中に巻き込まれる。体が引き延ばされるように歪み、次の瞬間、完全に消えた。
残らない。血も、肉も、何も。
ただ、存在が切り取られた。空気が戻る。
鈍い衝撃が通路を揺らす。
残ったゴブリンたちが一瞬動きを止める。その隙を突き、前衛が一気に距離を詰める。今度は、存在が安定している瞬間を狙う。
数合の攻防の後、すべてが沈黙した。
だが、勝利の実感はない。
誰もが同じことを考えていた。
今のは、戦闘ではない。
現象だ。
「……おかしい」
ライバルが低く呟く。
その声には、これまでになかった迷いが混じっていた。
「魔物じゃない。あれは……」
言葉が続かない。
俺は前方を見据える。
「巻き込まれているだけだ」
「何に?」
リナが問う。
答えは、すでに出ている。
「中心に」
そのとき、通路全体が震えた。
低い振動が、空気を通してではなく、直接体に伝わってくる。耳で聞く音ではない。存在そのものが揺さぶられるような感覚。
視界が歪む。
壁の輪郭が揺れる。
そして、空気が一斉に引かれる。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、強引に地面へ体を押しつける。
通路の中央で、空間が裂けたように見えた。
空気が消える。
いや、吸い込まれている。
周囲の砂や石片が、見えない穴に引き寄せられていく。重さなど関係ない。ただ、存在しているものすべてが、同じ方向へと流れていく。
一瞬。
だが、その密度はこれまでとは比較にならない。
そして、戻る。
衝撃。通路の一部が崩れた。後方から悲鳴が上がる。振り返る。来た道が、消えていた。
完全にではない。だが、崩落と空間の歪みが重なり、元の通路の形を保っていない。戻れる保証は、もうどこにもない。
沈黙が落ちる。
誰もが理解した。退路はない。教師がゆっくりと立ち上がる。
「……前進する」
それ以外の選択肢がないことを、全員が理解していた。
誰も反対しない。できない。俺は静かに息を整える。空気の流れを読む。
先ほどよりも明確だ。すべてが、同じ方向へ向かっている。
「……近いな」
自然と口に出る。
リナがこちらを見る。「何が?」
「中心が」
その言葉に、誰も反応しない。だが、否定もされない。
すでに全員が感じている。この先に、何かがある。
通路はやがて開けていく。天井が高くなり、空間が広がる。
そして、空気が――ほとんど動かなくなる。
流れていないのではない。流れきった後のように、静止している。
俺は足を止める。視線を奥へ向ける。暗闇の向こう。すべてが集まる場所。
「……ここだ」
小さく呟く。
空気が、止まっている。それはつまり、この先が“終点”であることを意味していた。




