9話 追悼の迷路(終)
ボールペンの走る音。
自分以外のペンの音を長く聞くのは久しぶりだった。
かつて、自分の右手がたくさん出してきた音。
インクを減らして、紙も減らして、駄作だけが増えていく。
山のような駄作は、ごみ袋に詰められる。
誰にも見られることなく、まるで害虫のように。
「でーきたっと!」
ポイっとペンが机の上に投げられて、音を立てて転がる。
音のする方に目をやれば、和織が大きく伸びをしていた。
「おじさん、確認ー!」
「はいはい、ご苦労さん。」
立ち上がった和織と入れ替わるように、机の前に座る。
机の上には可愛らしい犬のキャラクターが描かれた便箋と、淡い花柄の上品な便箋。
それぞれ同じような、少しふらついた書体で文字が書き込まれている。
堅一さんの字だ。
病気になってから、手にも力が入らないのか、堅一さんの書いた文字はどれも少し震えていた。
雑ではない、一字一字、ちゃんと書いているのに、歪みがある。
この、人の個性とも言える字を真似できるのだから、本当にすごい。
堅一さんの手紙がどうか、美也子さん達の心に届きますように。
俺はそう願いながら、読み終わった手紙を、封筒へとしまった。
「どうだった?」
「完璧。堅一さんの字だった。」
「おじさんも。堅一さんの文だったよ。」
「じゃ、手紙を渡す日を調整するか。」
「え!おてがみ、もってきてくれるの!?いつ!?」
スピーカーから聞こえる元気な声。
実乃里ちゃんだ。
最初は美也子さんと話していたのだが、手紙の話になった途端、携帯を奪われたのだろう。
仕事や保育園の終わりであろう18時過ぎに電話をしたのだが、
もう少し早い時間の方が良かったのかもしれない。
「うん。いつがいいか、ママに聞いてくれる?」
和織が聞けば、実乃里ちゃんは近くにいるだろうに、大きな声でママを呼ぶ。
相談した結果、今すぐ読みたいという実乃里ちゃんに根負けし、
美也子さんは申し訳なさそうな声で「…いいですか?」と聞いた。
ファミレスでさくっと夕飯をすまし、先日来たばかりの家に到着。
インターホンを鳴らせば、まるで犬のように来訪者を喜ぶ子供の姿があった。
「パパのてがみー!」
「こんばんは、実乃里ちゃん。」
腹に思い切り頭突きをされて呻く俺を余所に、和織は人当たりのいい笑顔で挨拶をする。
遅れて駆け寄った美也子さんが、ぺこぺこと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!遅くに来ていただいてるのに…。実乃里!」
「い、いえ、大丈夫です……。
こちらこそ、タイミング悪くてすみません…。」
俺は美也子さんと謝りながら、家へとお邪魔した。
通されたリビングは、急いで片づけたのだろう。
実乃里ちゃんのおもちゃやリュックが壁の隅に寄せられ、
ダイニングテーブルだけが綺麗に整えられていた。
夕食も急がせてしまったのかもしれない。
そんな室内を見て、いたたまれなさを胸に抱える。
案内された椅子に腰を下ろし、手紙を二通テーブルに置き、
それぞれの前へと滑らせた。
待ってましたと言わんばかりに、小さな手が封筒に伸びる。
「コロまるのおてがみだ!!
コロまるのえほんね、まえにパパがかってくれたんだよ!」
「パパが覚えてて買ってくれたのかもしれないね。」
「えへへ。」
手紙を頭の上まで持ち上げ、抑えきれない笑みを浮かべる。
そんな姿を見て、無意識に強張っていた肩が、すとんと落ちた。
実乃里ちゃんは封筒から中身を取り出し、
「…だ、いすきな、みのり、へ…。」
実乃里ちゃんは手紙を手に取ると、たどたどしく声に出して読み始める。
最初の3行だけ読んで、実乃里ちゃんは口を閉じた。
後半は漢字が多いから、まだ読めないのも無理はない。
今は年長だから、2年もすればきっと全部読めるだろう。
悲しんでしまうかもと思ったが、実乃里ちゃんは視線を下まで落とすと、次第に笑顔へと変わった。
「パパ、あいしてるだって!」
嬉しそうに言う実乃里ちゃんを見て、ほんの少し、目頭が熱くなる。
最後の暗号は今の実乃里ちゃんでも解けたようだ。
『だいすきな みのりへ
みのりが おおきくなったら よんでね。
きっと すぐに よめるように なるよ。
短い時間しか一緒にいられなくて、ごめん。
ママにもたくさん、迷惑をかけたと思う。
それでも、パパは二人と過ごせて、本当に幸せでした。
最後まで、パパと一緒にいてくれてありがとう。
これからは、ママと実乃里で
たくさん笑って
たくさん泣いて、生きてください。
最後に実乃里の好きな、暗号を書いておきます。
アイス、椅子、信号、てるてる坊主、ルービックキューブ、ヨット』
並んだイラストの頭文字を追っていくと、
――あいしてるよ。
堅一さんらしい、最後の伝え方。
実乃里ちゃんの隣にいる美也子さんは手紙を持ったまま、潤んだ目で娘を見ていた。
愛情と罪悪感の混ざったような視線。
俺は静かに、美也子さんを促した。
「美也子さんも、どうぞ。」
「……はい。」
震える手で便箋を取り出し、そっと開く。
一度だけ、ぎゅっと瞳を閉じて、一呼吸おいてから、
ゆっくり文字を追った。
『美也子へ
長い間、俺を支えてくれてありがとう。
それと、迷惑をかけてごめん。
結局、俺は料理や家事は出来ずじまいで、
美也子に任せてばかりだった。本当にごめん。
長い事、美也子の時間を俺に使わせてしまった。
俺は2人を、笑顔にすることが出来ていただろうか?
少しでも、美也子が幸せだと思えていたのなら、
これからは、もっと幸せになってください。
どうか前を向いて、たくさん笑ってください。
俺の事を忘れて、とは言えないけれど、
まだ長い人生、自分と実乃里のために使ってください。
そして、いつか、美也子がお婆ちゃんになって、
俺の元へ来ることがあれば、また愛してると言わせてください。
堅一』
「……ママ?パパなんてかいてあった?」
視線を最後の文で止めたまま、美也子さんは再び目を閉じる。
深く息を吐いて、呼吸を整えた。
「私、……、私、大変だったけど、嫌だった訳じゃないんです。
身体がツラくても、面白いこと言って笑わそうとしてくれる堅一さんが、
本当に…、本当に……っ。」
「ママ…?ないてるの…?パパおこってたの…?」
小さな手が美也子さんの顔に触れ、慰めるように頬を撫でる。
心配そうに母の顔を伺う娘の手を、ゆっくりと包む。
「…ううん、…パパね…、ママの事も、……愛してるって…!」
涙を流して微笑む美也子さんは、実乃里ちゃんをぎゅっと抱きしめる。
それは娘への愛情にも見えるし、自分自身抱きしめてあげてるようにも見えた。
彼女の罪悪感は、薄れただろうか?
俺は、嘘を書いたつもりはないし、慰めるだけに書いたつもりもない。
ただ、遺されたものから浮かび上がる気持ちを、手紙に載せて、
遺された者へ伝えるだけ。
ほんの少し潤んだ目をごまかす様に、天井を仰ぐ。
今回ばかりは、和織も鼻をすすっていた。
暫くして、美也子さんは俺たちに深々と頭を下げると、
1冊のアルバムを見せてきた。
…前に、俺が見た結婚式のアルバムだ。
そこに挟まる手紙を出して、美也子さんは2つ、机の上に並べる。
「この時の便箋と、今日のこの便箋…。
とても似てるんです。偶然ですか?」
白い便箋に、綺麗な花がデザインされた、上品な便箋。
そうか、俺が店でつい手に取ったのは、この手紙に既視感があったからだ。
「…正直、記憶の片隅にあったからだと思います。」
俺が真っすぐに答えれば、美也子さんはふっと柔らかく微笑んだ。
どこか懐かしむような、記憶を愛でる顔。
「夫が結婚する前から使っていた便箋なんです。
考えの古い人だから、女性に贈るなら花だろうって。」
堅一さんの考えは、なんとなくわかる。
手に取ったのは偶然に近いとはいえ、なんとなく女性には花柄を選んでしまうかもしれない。
「…幸せな結婚、君がいる幸福。」
「え……?」
突然、手紙を見つめたまま、ぼそりとつぶやく和織。
「花言葉だよ。白のシャクヤクと、赤のゼラニウム。」
「よく知ってるな…。」
「…お母さんが、花好きだったからね。」
堅一さんが花言葉を知っていたかはわからない。
けれど、その意味と同じ想いだったことだけは、疑いようがなかった。
美也子さんは便箋の花を撫でて、また涙を流した。
「私も、夫に手紙を書きたいと思います。
貴方から解放されて、寂しくなったって。」
それは軽口のようでいて、愛情に満ちた言葉だった。
帰り道。
珍しくゆっくりと後ろを着いてくる和織は、無言だった。
静かなのが不気味で、俺は逆に不安になる。
もう夕飯も食べているし、今日は解散だろう。
そう思っていたが、後ろから、迷子のようなか細い声が聞こえた。
「…おじさん、あのさ。」
妙な声色に、俺は少々警戒しながら振り向いた。
22時を過ぎ住宅街は静かで、人通りは少ない。
顔をしかめて、和織は視線を数回さまよわせた後、俺を捉えた。
「僕のお母さん、事故で亡くなったって話、」
一度言葉を区切って、視線が空に向く。
つられて上を向くが、星が見えない、曇り空だった。
「…あれ、僕の所為で死んじゃったんだ。」
「………、どういう…意味だ?」
「…そのままの意味だよ。」
文房具屋では、事故だと言っていたはずだ。
不思議な緊張感に、指先がじわりと冷えていく。
伝える言葉を間違えてはいけない気がして、
ゲームのように、頭の中でいくつかの返答を用意する。
『本当に…?』
どこか軽い。
雰囲気に合わない気がする。却下。
『何をしたんだ?』
これだと和織が悪いと決めつけているようだ。却下。
『なんの事故だったんだ…?』
冷静に聞くなら、これだろうか…。
俺は、軽く咳ばらいをして和織に聞いた。
「…なんの、事故だったんだ?」
聞くのは少しためらわれた。
だが、自分から話を振ったということは、話したいのだろう。
下げられた視線と目が合うと、淋しげに細められる。
「……今度、話すね。」
どうやら彼が伝えたいのは事故の話ではないらしい。
経緯がわからなければ、原因もわからない。
俺は何を伝えたいのかが読めず、じっと和織を見る。
「ただ…、僕が遺書を書きたいのは、母に償いたいからなんだ。」
償い。
想像していたよりも重いワードだ。
遺書が償いになる、ということは、死んで償うと同意語だろう。
もし本当に、和織の所為で命を落としたとして、
母親が息子の死を望むだろうか…?
少なくとも、あれほど息子を想っていた母親の話を聞いた後では、想像もつかない。
筆記なら、うまく返す言葉が見つかるのに。
対面の会話だと、俺の思考はどうしても返答に追いつけない。
それが今は、余計に歯がゆい。
長く続く沈黙に焦りながらも、とうとう俺は口を開けなかった。
接し方が、わからない。
そんな今更過ぎる言い訳を浮かべて、俺は和織と別れた。
それから数日が過ぎても、和織が俺の前に現れることはなかった。




