第六話「それぞれの、大きな一歩」4
第六話「それぞれの、大きな一歩」は4分割で更新していきます。これは4つ目です。
数日後。
朝、琳家はいつもより少しだけ浮き立った空気に包まれていた。
春燕が、ついに街の薬局、琳安堂で働く日が来たのだ。
朝から昼まで、週に三日。
帳場の手伝いも、屋敷の仕事も続けたい――
そんな春燕の願いを尊重した形だった。
春燕はというと、夜のうちから何度も持ち物を確認していた。
紙、筆、巾着、手巾……。朝になってもそわそわと落ち着かなかった。
朝食の席。
「今日から行くのですよね!!」と嬌がぱっと立ち上がり、
春燕の髪にそっと金の簪を挿した。
牡丹と蓮子が細やかに彫られた、華やかな細工だ。
恭信は、春燕の腰帯に翡翠の佩玉を留める。
「お守りだ。街で何か困った事があったら、
これを見せなさい。全てうまくいく」
そんな二人に続くように、凌偉が手にしていたのは、
小ぶりの花梨の木で出来たそろばんだった。
「オレからはこれを。使う事も多いだろうから」
「これは…凌偉様のそろばんでは?」
凌偉が常に袖に忍ばせて使っている大切な物のはずだ。
「オレのはある」
そう言って、凌偉はもう片方の袖から黒檀のそろばんを取り出した。
「それは…!」
黒檀の光沢が淡い朝の光を受けて輝いていた。
――あの雨の日、凌偉の両親の部屋で二人で見つけた大切なもの…。
そのうちの一つが今、凌偉の掌に乗っている。
春燕の胸がじんわり熱くなった。
「お借りします」自然と笑みがこぼれる。
「貸したんじゃない。春燕にあげたんだからな!」
念を押すような口調に、春燕は思わず瞬きをする。
「春燕。誰かに聞かれたら言え。このそろばんは凌偉からもらったと。いいな?」
「は…はいっ!わかりました」
勢いに押されながらも、春燕は、そっと大事に袖へしまい込んだ。
*
外へ出ると、門前に二人の使用人が待っていた。
「令菘と志晃だ」凌偉に紹介された二人は深く頭を下げた。
「初めまして。令菘です。誠心誠意、努めさせていただきます」
落ち着いた物腰から、誠実さが伝わってくる。
「志晃です!春燕様!本日から
護衛を担当いたします!」
こちらは、対照的に明るくて、春燕の緊張を
ふっと軽くしてくれる笑顔だった。
「二人は兄弟で、楊家の門下生だ。琳家では警備も任せている。
街にも詳しい。春燕の護衛を頼んでいる」
凌偉がそう紹介すると、春燕も丁寧に頭を下げた。
私に護衛だなんて、と言いかけたが――。
凌偉が自分を心配してくれている気持ちが伝わり、
そっと飲み込んだ。
「お嬢様…どうかお気をつけて」
雪麗も心配になり見送りに駆けつけていた。
「ありがとう雪麗。大丈夫よ」春燕は雪麗に微笑む。
「行ってまいります」
春燕は振り返り、凌偉の前でまっすぐに言った。
「ああ。行ってこい」
春燕は手を振り、初めての一歩を踏み出した。
袖の内側で、凌偉から譲り受けた花梨のそろばんが小さく、心強く揺れていた。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
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