第四章⑥
マヨコのレースの結果は八位。つまり最下位だった。
ハルカたちの応援のせいでリラックスし過ぎてしまたみたい。タイムはベストよりも一秒も遅かった。最下位だったから、陸上部の先輩も後輩も顧問の先生も、走り幅跳びで順当に優勝したリホも様々な言葉を使ってマヨコのことを慰めてくれた。リホにキスしてもらおうか、なんて企んだけれど、彼女とはプラトニックな関係でいるべきだと思うから、マヨコは落ち込んだ振りをして頭を撫でてもらうだけにした。
マヨコは別に落ち込んでなどいなかった。悔しい、という気持ちもない。マヨコには秋の大会も、来年もある。そのときにはもっと早くなっているはず、という確信があるから、気持ちはどちらかと言うと安らいでいた。
それよりもマヨコが気になっていたのはあの錦景市の紫色の旗を振っていた彼女のこと。
ミア・セイレン。
夢の国のアリスのお姉さまだ。
なぜ夢の国の人が。
……いや。
アリスと同じようにマヨコは彼女も現実世界のどこかにいるはずだって、どこか思っていた。
確信していた。
しかしいざ目の前に現れると。
やっぱり不思議だと思った。
あり得ないことだと思った。
アリスの夢とは本当に一体全体、何なんだろうって夕焼けをみながら途方に暮れた。
景色の中で彼女は明らかに浮いていた。
マヨコにはそう見えた。
ハルカたちの隙間にコラージュされた写真のような、そんな不自然さを感じたのだ。
彼女が西洋人だから異様に思った、っていうことも考えられることだけど。
とにかくマヨコはハルカに電話を掛けた。
ハルカと彼女の人間関係を確かめなくっちゃいけない。
ハルカちゃんたちの応援で最下位になっちゃった、すっごく残念、絶望的な気分だわ、今夜はハルカちゃんに慰めてもらわないと、きっと死んじゃうかも、って弱々しい声で言ったらハルカはすぐにマヨコの部屋に来てくれた。部屋に現れたハルカの髪は乱れに乱れていた。汗だくだった。彼女のセーラ服は汗に濡れて透けていて、色の濃いブラジャの形がハッキリと見えた。
「自転車を全力で漕いできました、」ハルカは真顔で言った。「だから死んじゃ駄目」
「嬉しい、」マヨコはハルカの汗で濡れた体に飛びつきキスした。「冗談を本気にしてくれて、ハルカちゃんは私のこと、本気で想ってくれているんだね」
ハルカはマヨコの顔をマジマジと見て舌を出して言った。「……なんちゃって、冗談を信じちゃう冗談だしたぁ」
「え、自転車を全力で漕いでくれたんでしょう?」
「赤信号では停まりました、冗談だったので、本気だったら赤信号では停まりませんでした」
「誰か証明出来るの?」
「はあ、」ハルカは天井を仰ぎ、大きく息を吐いた。「ごめんね、私たちのせいで、マヨちゃん、最下位だったんでしょう?」
「ああ、それはいいよ、別に気にしてないから」
「本当にごめん、」ハルカはマヨコのことをもぎゅっとして頬にキスした。「許して」
「だから気にしてないってば」
マヨコは足を掛けてハルカをベッドに押し倒した。「きゃ」とハルカは小さく悲鳴をあげる。日々トレーニングしているマヨコの方がハルカよりも力は強い。ベッドの上での力関係はマヨコの方が上だった。ハルカの体の上でマヨコは馬乗りになる。乱暴にハルカの汗で濡れたセーラ服を脱がせた。ハルカもマヨコの春日中学校のTシャツを脱がせる。マヨコはハルカの胸に触れて、強く揉んで彼女の乳首を吸った。「やっぱりハルカちゃんのおっぱいって最高、たまらなく好き」
ハルカは今夜、あらゆることをマヨコの好きにさせてくれた。
まるで猫。
もしくは胃袋の中が空っぽのライオンみたいに静かだった。
好きな人に好きなことを出来るって最高ってマヨコは思った。
「ねぇ、ハルカちゃん」
「……ん?」ハルカはマヨコの腕に頭を乗せて向こうを向いていた。多分、叫び過ぎて疲れ果ててしまったんだと思う。
「今日、ハルカちゃんと一緒に応援してくれてた人の中にさ、外人さんがいたよね?」
「ああ、あのくそ女ね」
「くそ女?」マヨコはハルカの口から飛び出した悪い言葉に少し驚く。
「そう、くそ女」ハルカの声にはヒステリックが滲んでいる。
「……なんて言う名前なの?」
「ミアよ」
やっぱりそうだ。
彼女はやっぱり、アリスのお姉さまのミア・セイレンなのだ。
「……ハルカちゃんとはどんな関係なの?」
「どんな関係って言われてもな」
「ハルカちゃんの彼女の一人?」
「違う違う、」ハルカは即座に否定した。彼女だったら堪らないという感じの激しい否定だった。「彼女の彼女ってところかな、だから私、あのアウトサイダの細かいこと知らないの、ほとんど何も知らないわ」
「アウトサイダってどういう意味?」
「あいつが旗なんて振ったせいだよね、マヨちゃんが優勝できなかったの、ああ、それ考えたら苛々してきた、次に会ったときぶん殴っとくよ」
「別に殴らなくってもいいけど、」マヨコは笑った。こういうハルカはあまり見ないから。とにかく、ハルカとミアの仲がすっごく悪い、ということは分かった。それは夢の中のストーリィとリンクしている。というか、そのままだ。「あの、ハルカちゃん、ミアって人ね、」マヨコはハルカの髪に顔を埋めて言う。ハルカの汗の匂いがマヨコはとても好き。「夢に出てきたかもしれない、っていうか、夢にいるの、あの人」
「……夢って、アリスの夢に?」
「うん」マヨコはハルカの首筋にキスした。
「くすぐったい」ハルカは可愛い声で笑う。
「夢の中だとその人、アリスのお姉様なんだ」
「へぇ、お姉様ねぇ」
「本当のお姉さんって言う訳じゃなくって、そういうポジションの人っているじゃない?」
「マヨちゃんにとっての森村ハルカみたいな?」
「そうそう、でも、こんな風に厭らしいことはしてないかもだけど」
「ねぇ、マヨちゃん、」ハルカは急にこっちを向いた。その勢いでハルカはマヨコの唇を奪う。唇が離れると、ハルカはじっとマヨコの目を見つめてから、何かを思案している素振りを見せて、再び向こうを向いた。「……やっぱりいいや」
「え、なんなの、やっぱりいいってなんなの?」
「なんでもないよ」
「え、気になる」マヨコはハルカの肩を揺らす。
「まだ彼女が何を考えているか分からないから話せないのよ」
「え、気になる、気になるよ、ハルカちゃん」
「……なんちゃって、適当なこと言っただけよ、」ハルカは剽軽な声を出した。「おやすみ、マヨちゃん」
「……おやすみ」
マヨコは釈然としないまま、汗でべとべとのまま、眠りに付いた。目を瞑って一分も経たない内に眠ってしまったと思う。レースもあったし、ハルカの体を精一杯感じたから、マヨコも疲れていたんだ。
そしてその夜のアリスの夢。
夢にはハルカとミアは登場しなかった。
「今日、ミアさんいないね?」
「ハルカさんもいないね」
「二人きりだね」
スクルの四階のとある教室に、マヨコとアリスは二人きりだった。アリスは机に腰掛け足をぶらぶらさせて窓の外の景色を眺めている。風景は薄い霧が掛かっているように滲んでしまっているが、それが錦景市の風景であることはなんとなく分かった。
マヨコは錦景を眺めるアリスの横顔をじっと見つめている。
「ミアお姉様はきっと恋人のところだわ」
「恋人?」
「うん、」アリスはなんだか、寂しそうに頷く。「最近教えて貰ったの、恋人が出来たって、まあ、なんとなく、ミアお姉様に最近変化があったことは、分かっていたんだけど、今日も恋人のところに行って、きっと破廉恥なことをしているんだわ」
その恋人ってハルカの三人の彼女の内の誰だろうってマヨコは考えた。「寂しい?」
「別に寂しくなんてないよぉ、マヨちゃんが一緒にいてくれるし」
「ねぇ、提案なんだけど、アリス、私の恋人にならない?」
「え?」アリスは戸惑う顔を作って頬をピンク色に染める。「え、マヨちゃんが、私の恋人に?」
「嫌?」
「ううん、」アリスは首を横に振る。「嬉しい、マヨちゃんのこと好きだもん、大好きだもん、大好きじゃなかったら一緒にいない」
「じゃあ、決まり、」マヨコはアリスの手を握り締め笑顔を作った。「これからよろしくお願いします」
「うん、よろしく、あ、でも、でもね、マヨちゃん、私ね、その、破廉恥なことはしたくないの」
「え?」マヨコは彼女の服に伸ばしていた手を止めた。「なんで、恋人同士だよ?」
「その反応、」アリスはマヨコを睨む。「すっごく破廉恥、マヨちゃんのこと、ちょっと軽蔑かも」
「ええ、軽蔑って、」マヨコは狼狽える。「そんなぁ」
そんなマヨコの様子を見てアリスはクスリと笑う。「んふふっ、マヨちゃんは破廉恥、んふふっ」
「じゃあさ、」マヨコは頬を膨らませて言った。「恋人同士になる意味ないじゃん、恋人同士になって何もしなかったら、それって一体全体何なのさ?」
「そうですねぇ」
アリスは足をぶらぶらさせながら、指を口元に当て何やら考えている様子。
そんなアリスを見ながらマヨコは思う。
マヨコに先にキスしたのはアリスじゃないか。
アリスの方がよっぽど破廉恥だ。
そんなことを思っていたら、教室にはどこからともなくアコーディオンの音色が響いていた。
「とにかく今夜は踊りましょう、」アリス机からぴょんと飛び降りマヨコの手を取った。「あ、マヨちゃん、キスは破廉恥なことなんかじゃないよ、マヨちゃんが破廉恥なことだと思っているだけ、キスは破廉恥なこととは違うのよ、あらゆるキスは神聖なの」
そう言ってアリスはマヨコに厭らしいキスをした。
「すごく破廉恥だ」
マヨコはワルツを踊りながら言ってやった。




