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あの娘は発電機(She Is Electric Generator)  作者: 枕木悠
第四章 ストレート
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第四章③

 七月の三十日、三十一日、敷島の陸上競技場で大会は予定通り開催された。三十日に各種目の一次予選、二次予選があり、百メートルの丈旗マヨコと、走り幅跳びの鏑屋リホは予選を突破した。

 そして準決勝、決勝を控えた三十一日の朝の九時。

 空は雲一つない快晴。まだそれほど高い位置にいるわけでもないのにい太陽はギラギラと輝き、紫外線を放射し、肌を焼いた。マヨコは去年もそうだったけれど、夏になると黒くなる。もちろん、太陽の光に焼かれていない部分は白いままなわけで、自分の裸を鑑で見る度にその白い部分が気になって日焼けマシーンの中に入るためにはいくら掛かるのかな、ということを考えたりする。

 梅雨の時季からマヨコは森村ハルカの四番目の彼女になった。だからマヨコはハルカの裸を見ることになったし、ハルカに自分の裸を見せなくちゃいけなくなった。黒と白のコントラストをハルカはパンダみたいで愛らしいと言ってマヨコの乳首を吸う。「ごめん、厭らしいの間違いだった」

 マヨコは炎天下のグランドの日陰でストレッチをしながらハルカとのベッドのことを考えて体が熱くなった。ストレッチをしているだけですでに汗が吹き出してしまってパンツは濡れていたけれど、そんなことを考えてしまったからさらにパンツは濡れてしまった。

 前屈をしていたら、リホがやってきて背中を強く押した。筋が延びて痛くなってマヨコは悲鳴を上げた。リホはマヨコが悲鳴を上げても、背中を押すのを止めてくれなかった。リホは自分の胸をマヨコの背中に押しつけるように、強く押してくる。マヨコはリホのそんな行為に凄くドキドキした。リホはレズビアンじゃないけれど、もしかしたらレズビアンかもしれないと思う。もし、リホに誘われたら、ということを考えるとどうしようもなく興奮して、リホとキスしたいと思った。

「どう、緊張してる?」リホは背中から胸を離し、マヨコを押すのをやめてマヨコの顔を覗き込み聞いていくる。

「あんまり、」マヨコはリホの視線から目を逸らし首を横に振った。「多分、暑いせいで、そういう気分にならないのかもしれないです」

 そしてマヨコはリホの唇をじっと見つめた。彼女の唇はハルカよりも薄くて小さい。アスリートの健康的な唇だ、なんてマヨコは勝手に評価する。指先で触れたときの感じと、実際にキスした感じを、ハルカのそれと比べたいと思っている。ハルカと何度もキスしたせいで、他の女の子とのキスも知りたいとマヨコは思っている。ハルカとのキスはとても気持ちがよくて脳ミソがとろけてしまっておかしくなるから、リホとのキスは自分の脳ミソをどうしてくれるんだろうって思ってしまうのだ。

 つまり、マヨコはハルカにすっかり開発されてしまったのである。

 困ったことだ、とは思わない。

「マヨちん、どうした?」リホは口元を緩めて聞く。「私の顔に何か付いている?」

「いえ、」マヨコは彼女の唇から視線を離して、そろそろ戦場と化すグランドをまっすぐに見つめた。「先輩、頑張りましょうね」

 マヨコは準決勝を突破した。

 そして錦景市の午後の二時、マヨコは百メートル決勝のスタートラインに立っている。

 同時に別の会場では、リホが誰よりも遠くに跳んでいるはずだ。予選ですでに、彼女は大会レコードを更新している。彼女の優勝は間違いないだろう。

 一方、マヨコの方は微妙だった。決勝の八人中で、マヨコの予選タイムは六番目だった。予選でマヨコは力を抜いて走ったから、そのタイムが正確な指標になるわけではないが、ここに残った選手は皆、決勝のために力を温存していることだろう。しかしこの中で、ずば抜けた記録を持っている選手はいない。均衡している。勝負は蓋を開けてみないと分からない、という状況である。マヨコにもチャンスがある。

 だから。

 百メートルの先のゴールを見つめながら。

 マヨコは今までにない緊張と興奮に襲われている。

 手足に血が巡っていないのか、こんなに暑いのに冷たいとさえ思う。

 心臓の鼓動が響き、左右の選手たちにも聞こえているんじゃないかって思う。

 それは恥じらいに変化して。

 視界が狭まるような。

 奇妙な焦りを体感している。

 マヨコは緊張を振り払うために、その場で小さく跳んだり、手首を、足首を回したりしていた。

 そろそろ間もなく決勝が始まると、高い位置にあるスピーカからアナウンスが響く。

 そして。

「マヨコーっ!」

 その声は突然、響いた。

 その声が出た場所を探して視線をさまよわせれば、トラックを囲む客席の高いところ、各学校の応援団がいるずっと奥に、紫色の旗が舞っていた。

 紫色に白い輪。

 それは確か錦景市の市旗だったと思う。

 それが空中に激しく舞っている。

「ふれー、ふれー、」旗を振っている女性は絶叫に近い声を上げ、周囲の視線を集めていた。あらゆる人が彼女に釘付けになった。「マヨコっ! がんばれ、がんばれ、マヨコっ! って、ほら、皆も座ってないで、立って応援しなさいよっ!」

 彼女は一人じゃなくて、五人のうちの一人だった。

 彼女の左右に二人ずつ立っている。

 驚いたことにそこにはハルカと、ハルカの彼女である、御崎ミヤビと斗浪アイナと桜吹雪屋藍染ニシキがいた。マヨコは直接ハルカの彼女たちには会ったことはなかったんだけれど、ハルカの彼女になるにあたって、ハルカの三人の彼女の写真を見せられていたから分かった。ハルカの彼女たちは皆、綺麗で、可愛くって、そして魔性な雰囲気を纏っている魅力的な人たちだっていうのが写真を見るだけで分かった。今、遠目に見ていても感じる。普通の人たちじゃない、っていうか、特別な人たちだっていうのを感じた。ハルカとミヤビとアイナとニシキは、集まる視線に恥ずかしそうにしながら、声を出してマヨコのことを応援してくれた。

 ハルカの振る手に、マヨコは手を振り返す。

 手を振り返しながらマヨコは、ああ、そっか、彼女たちは応援しに来てくれてるんだ、と理解した。

 あまりにも劇的な登場にびっくりしてしまって、理解が遅れてしまったのだ。

 そして。

 まだ驚いているのは。

 旗を振っている、特別な彼女の中心にいる、もっと特別な彼女が原因だった。濃い緑色の大きな瞳、黒く長い髪の西洋人。

 彼女を見て、マヨコは最初は誰か分からなかったがすぐに思い出す。

 彼女とも会ったことはない。一度もない。

 でも。

 でも、ええ、夢では会っている。

 彼女のことを知っている。

 会話も交わした。

 夢の中の彼女が、ハルカの隣でマヨコのことを応援している。錦景市の旗を振っている。破裂する笑顔で、絶叫している。

「走れーっ、マヨコっ!」

 マヨコの応援団は警備員によって客席から追い出されてしまった。しばらく会場がざわついていた。左右に並んだ選手たちの視線はマヨコに集まっていた。皆、特別な彼女たちのことを知りたがっている顔をしていた。でも、教えられない。

 マヨコだって彼女たちの細かいことを知らないから。

 こっちが教えて欲しいくらいだわ。

 合図があって、選手たちはクラウチング・スタートの姿勢になる。

 マヨコは目を瞑る。

 不思議。

 凄く落ち着いていた。

 彼女たちの応援のおかげだろうか。

 出来れば彼女たちに自分が走る姿を見て欲しかった。

 でも、まだ客席に戻ってこない。

 もしかしたら、そのまま会場から追い出されてしまったのかもしれない。

 マヨコは可笑しかった。

 必死で笑いを堪える。

 大事なレースの、まさに直前なのに困る。

「セット」

 その言葉にマヨコは腰を持ち上げる。

 空砲が炸裂。

 滑らかに反応。

 引き絞った体を、瞬間的に躍動させる。

 逃げるアリスをイメージする。絶対に追いつけないアリスの幻影との鬼ごっこ。左右でトラックを激しく蹴り付ける選手たちとマヨコは勝負をしない。レースのときはいつも、アリスとの勝負。

 アリスを追いかけながら、マヨコは考える。

 錦景市旗を振っていた彼女のことを。

 あの人は確かに、マヨコが夢に見た人だ。

 夢の国のアリスという、マヨコの物語において、キスの先に登場するキャラクタだ。

 彼女の名前はミア。

 ミア・セイレン。

 夢の国のアリスのお姉さまだ。


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