第三章①
マルガリータ・カーショウがイリスに出会ったのは今から十三年前、マルガリータが十一歳のときのことだった。
当時マルガリータは修道院で暮らしていた。物心付いたときにはマルガリータは十字架の前で跪き五指を組み神に祈りを捧げていた。祈りを捧げながら考えていたこといつも同じだった。修道院を脱走して、レズビアンの集まるバーに行き、綺麗でお金持ちの女性とセックスして、そのまま彼女のパートナになって贅沢したいってことをマルガリータはいつも考えていた。
そんなことを考えるようになったのは、マルガリータが通うスクールのクラスメイトの十歳歳の離れた姉がレズビアンだったからだ。彼女はマルガリータがレズビアンだと知るとレズビアンに関する様々なことを教えてくれた。ロンドンのレズビアンは右耳だけにしかピアスをしてないということを教えてくれた。それからマルガリータはピアスをしている女性のことを気にするようになった。マルガリータはある日、右耳だけにピアスをしている女性を教会で見つけた。マルガリータは祈りを捧げる女性の耳元でレズビアンかどうか聞いた。
「ええ、そうよ、よく分かったわね、」彼女は優しく微笑み、マルガリータの顔を品定めするみたいに見た。「あなた、とっても綺麗、食べちゃいたい」
彼女の名前はマリーナ。本名かどうかは分からないけれど、彼女は自分のことをマリーナと名乗った。マリーナは十九歳で、三十歳の航空パイロットの男性と結婚していた。彼との結婚生活が上手くいかなくて、男性不信に陥ったマリーナはレズビアンになり、彼がフライトでニューヨークやパリや東京にいるときは様々な女の子たちと自宅でセックスしていて、その罪悪感に耐え切れなくなって今日は教会に来たのだと言った。「不思議ね、一度祈りを捧げただけなのに、もう私は夜のことばかり考えているわ」
マルガリータはそんなことを言うマリーナの瞳を見つめた。見つめているとマリーナはキスをしてくれた。夜のことに誘ってくれた。その夜はとても刺激的だった。価値観が大きく変わった瞬間だった。今までぼんやりとしていた世界の輪郭がハッキリ見えるようになった。マリーナとは次の夜を約束したが、その約束は果たされなかった。マリーナのパイロットの彼が東南アジアの支局に転勤になったからだ。
マルガリータは次の刺激に飢えていた。マリーナとの一度きりの夜のことを思い出しては、薬物中毒者のように右耳だけにピアスをしている女性を探していた。
イリスがマルガリータの前に現れたときも、マルガリータは十字架に祈りを捧げながら、右耳だけにピアスをしている女性に巡り合えるように願っていた。
イリスが現れたのは突然だった。その日は日曜日でも、カレンダー上の祝日でも、マルガリータの誕生日でも、クリスマスでもなかった。その日はマルガリータの生涯の大きなターニングポイントだが、あまりに特徴のない、曖昧で霞んだような日の教会の午後だったので、日付も覚えていない。でもそれは九月の出来事だったというのは覚えている。
イリスは十三年前から何も変わっていない。十三年前のイリスは十五歳だった。十五歳のイリスもフランス人形のように可憐で素敵で、呼吸を忘れるほど愛らしかった。違いはそのときだけは右耳だけにピアスをしていた、ということだ。小さなダイアモンドのピアスが右耳に煌めいていた。マルガリータは祈りが届いたのだと思った。神にではなく、彼女に。
イリスは教会に入るなり、その可憐さと纏う純白のドレスでシスタたちの注目を集めた。
「誰ですか、あなたは」シスタの内の誰かが言った。
イリスはその問いに答えることはなく、陰が全くない自信に満ち溢れた表情でまっすぐにマルガリータのことを見つめた。そして彼女はマルガリータの前に歩み寄り、手を取った。
「この娘を頂けないかしら、」イリスの口調は花屋の店先でバラの花束を注文するときと変わらなかった。その口調のまま、まくし立てるようにイリスはここにいる誰にでもなく、十字架に向かって言った。「私、昨日子供を産んだの、女の子よ、でも一人では育てられないわ、だからこの娘を頂けないかしら、魔女の娘は、魔女が育てるべきだと思うのよね、神様」
それがマルガリータとイリスの出会いだ。
イリスと出会わなかったら一生、マルガリータは自分のことを魔女だと知ることはなかっただろう。イリスと出会い、マルガリータは初めて魔法を編んだのだ。
出会ってからマルガリータはずっとイリスの傍にいる。十三年、傍に居続けている。ベビィ・シッタの仕事が終わっても、マルガリータはイリスの傍に居続けた。
イリスのことを愛しているから。
「イリスさん、どうしたんですか?」パイザ・インダストリィの社長の大森テルヨシはイリスの顔を覗き込み言った。「目がピンク色ですよ?」
「プールの塩素がきつすぎたの、」イリスは目を擦りながら言う。「ゴーグルをしていればよかったわ」
「え、プールに行ってたんですか?」大森は得意の、輝くスマイルを見せた。「なんだ、誘ってくれればよかったのに、今日は昼間から、クロールしたい気分だった」
「男性に水着姿を見せる趣味はないわ」イリスはそっけなく言った。
「そんなつもりじゃ」大森は後頭部を触りながら言う。
「あなたの少女趣味は知っていますよ」
イリスの唐突な一言に大森の笑顔は固まった。「えっと、なんのことです?」
「少し意地悪でしたね、」イリスは魔性に微笑み言う。「別にあなたが困る顔が見たかったわけではありません、ただの会話の流れで飛び出した台詞です、清流から跳躍する鮎のようなものです」
「鮎、ですか?」大森は苦笑している。何かをごまかしている感じだ。どうやら彼の少女趣味は本当のようだ。無論、イリスのリサーチに誤りはないだろうが。
「マルガリータ、」イリスは視線を大森からマルガリータの方に移して言う。「目薬を差して頂戴」
「はい、」マルガリータは椅子を後ろにずらし自分の太股を開けて言う。「どうぞ、こちらへ」
イリスは横になりマルガリータの膝の上に頭を乗せた。
オックスフォード大の准教授であり、ロンドンで最高の魔女のイリスにも出来ないことがある。それが目薬を差すこととだった。女王陛下から毎年何かしらの勲章を授与されているイリスでも、自分で目薬を差すことだけは出来ないのだった。
マルガリータは彼女の瞳に目薬を差した。この目薬は六供町の温水プールの傍の薬局で購入した。点眼した際に一番優しく、最も効果を感じられたのがロート製薬という会社から出ているVシリーズの目薬だった。そのVシリーズの中で最も値が張る、十三番をマルガリータは購入した。「どうです?」
イリスは目元をハンカチで拭い、上半身を持ち上げて言う。「市販の目薬なんてどれも一緒だわ」
「イリス、それは暴言ですよ」
マルガリータはVシリーズの十三番の目薬のスケルトン・バイオレッドの容器を見ながら言った。まるで化粧品か、あるいはマジック・ポーションの容器のようにデザインがしゃれている。蓋はゴールドに輝いている。ただの色の付いたプラスチックだけれど、マルガリータは眺めていて楽しかった。
「すいません、」謝りながら扉を押して中に入ってきたのはスクリュウ・プロジェクトのリーダである、里美アキラ女史だ。「テラノのエンジンの調子が悪くって」
彼女は乱れた髪を直しながら席に着く。これでミーティングのメンバが揃った。ミーティングというよりは雑談に近い意見交換会だ。四人は今、G県楢崎市にあるパイザ・インダストリィの本社ビルの二十四階の会議室にいた。この会議室は狭いけれど、角に面しているため東と南に窓があるので比較的解放感がある。
「もう寿命かもね、」大森が笑顔で言う。「お父さんのお下がりなんだろう?」
「私のテラノはまだ全然走れますよ、運転していると感じるんです」
「何を感じるの?」
「今が中年期だって、つまり、走り盛りってことです、中年期なので無茶し過ぎると壊れちゃいますけど」
「無茶さしているのは君だろう?」
「ええ、その通りです、間違いありませんね、何度もアクセルをべた踏みしているのは私のスニーカの底でした」
マルガリータは窓の外を見ていた。昼間は素晴らしい天気だったのに、今は灰色の雲が空を覆っていた。
雨が窓に一滴、衝突。
それから雨は激しく降り始めた。
ざわめく夕立。
轟く稲妻。
不協和音が響いている。
「不協和音だ、」イリスがそう発言したのは大森がスマートフォンを耳に当てて会議室を出た時だ。イリスは大森に理解出来ないことは彼の前で決して口にはしない。「そればっかりは本当に不測の事態だった、用意がない」
「止める?」アキラが聞く。「止めれば、話は簡単になる」
「簡単じゃないの、」イリスは声にヒステリックを滲ませている。顔は笑顔に近いけれど。「難しいわ、どんなプロジェクトだって、ええ、そうでしょうけれど」
「ねぇ、イリス、」アキラはイリスの方をまっすぐに見て言う。彼女の瞳の色は出会った時よりも澄んでいる。「私が全てを理解できるかどうかは分からない、でも、まだ話していないことがあるなら、話して」
稲妻が遠くの空に走る。
遅れて不協和音。
窓を叩く雨の勢いは増す。
イリスは大きく息を吐き、チラリとマルガリータの顔を見て口を開く。
「アキラ、私はアキラのことを信頼している、だからまず、私は天体史の研究史から説明する必要があるの、眠らないで聞いていて、雷の響きが心地よくても眠らないで聞いていて、お願いよ」




