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あの娘は発電機(She Is Electric Generator)  作者: 枕木悠
第三章 ディスコード
33/87

第三章②

 錦景市の七月九日の土曜日の夕立は記録的なものになった。

 運動部は直ちに練習を中止し校舎内に入るようにと、教頭先生がアナウンスした。

 ほとんどの生徒が帰宅する準備をしながら雨が弱くなるのを待つ中、陸上部の丈旗マヨコと鏑屋リホは校舎内を走っていた。

 陸上部の大会が近かった。七月の終わりの土日に敷島の競技場で開かれる。リホはそれに向けて自分自身を追い込んでいた。競技の種類は違えど、マヨコはリホと一緒にトレーニングを行っていた。ハードなトレーニングだけれど、リホが一緒だから、リホが前を走っていてくれるからマヨコは頑張れている。一人だったら絶対に頑張れない。

 最近は毎日、疲れ果てて死ぬように眠りに付く。死ぬように眠りに付き、アリスの夢で目を覚ます。そんな生活サイクルが続いている。リホは毎日練習している。日曜日もリホは春日中学校の鉄棒の前の砂場にいて日曜日のリホはずっと走り幅跳びの練習をする。それ以外のことはしない。日曜日のリホは技術を磨いている、という感じだった。彼女の横顔には刀鍛冶の雰囲気があった。刀鍛冶の人に会ったことなんてないけれど、マヨコはそう思った。

 マヨコも日曜日は走り幅跳びをする。リホに教わりながら幅跳びの練習を繰り返していたら、いつの間にか陸上部でリホの次に遠くに飛べる女子になっていた。

「やっぱりさ、マヨちゃんも幅跳びに出た方がいいと思うよ、」前を走るリホが言う。「結構いい成績残せると思うよ」

「自分、不器用ですから、」マヨコは速い呼吸の間に声を張り上げた。「多分、短距離に集中しないとどっちも駄目になります」

「マヨちゃんってさ、武士みたいだよね」リホは後ろを振り返り溌剌とした笑顔を見せて言った。

「え、武士に会ったことあるんですか?」

「ねぇけどさ、」リホはギアをハイに繋げた。「そういうところが武士みたいっ」

 よく分からない、って首を捻りながらマヨコもギアを上げた。

 二人は北校舎四階のトイレの前を通過する。

 女子トイレには使用不可の看板がまだ掛かっている。六月に奥の個室の便器が何者かによって破壊されて警察が来る騒ぎになった。犯人はまだ捕まっていない。教師たちは生徒の誰かがやったのだと考えているらしい。ホームルームで密告者が現れるのを待っている、という風なことを婉曲な表現で担任の教師は言っていた。マヨコは生徒たちを疑う教師たちのことを軽蔑した。修復工事が始まるのは来週の予定だ。

「お、雨が上がったね、」リホは四階と三階の間の階段の踊り場で急に立ち止まり、窓から錦景山がある方角を見て言った。「綺麗な夕焼け」

 マヨコはリホの背中に接触して立ち止まり、呼吸を整えながら夕立の後の七月の錦景市の夕焼けを眺めた。夕焼けは幻想的だった。汗が目に入って滲んで見えたせいかもしれない。

 さて、自宅に帰り玄関の扉を開けると例によってそこには中央高校の水野レナのローファがあった。兄の丈旗ケンの白いスニーカの横にきちんと揃えられ、佇んでいる。

 マヨコはこの靴の配置にはすっかり見慣れてしまったけれど、うんざりしてしまうのは変わらない。むしろ日を追うごとに、うんざり感は増していっている。

 ああ、このローファがハルカちゃんで。

 ハルカちゃんがケン君の恋人だったら。

 階段を駆け上って、部屋に飛び込んでやるのにな。

 水野レナには会いたくない。

 嫌い。

 すっごく美人だけど。

 マヨコに優しく微笑んでくれるけれど。

 彼女の心がマヨコのことを邪魔ものだと思っているのは分かっている。

 私にひきつった素敵な笑顔を見せるくらいなら。

 正直に邪魔って言えよ。

 くそったれ。

 マヨコがそう思って小さく舌打ちしたときだった。

「マヨちゃん、そんなとこで突っ立って、どうした?」

 マヨコは振り向いた。コレクターズのTシャツにジーパンというラフな出で立ちの森村ハルカが立っていた。

「ハルカちゃんっ」マヨコは嬉しくなってハルカに飛び付いた。会いたいときにそこにいるなんて素晴らしいと思ってマヨコはハルカのことをぎゅっと抱き締めた。

 ハルカはそんなマヨコの反応に戸惑いながらも抱き締め返してくれた。笑ってくれる。「何よ、マヨちゃんってば、私のこと好きなの?」

「うん、大好きっ」勢いにまかせてマヨコは言った。ハルカを好きな気持ちを言葉にする機会は多分、今みたいな時しかないと思ったのだ。

「マヨちゃん、汗臭い、」ハルカはマヨコの髪の匂いを嗅いで言う。「練習の後?」

「うん、ハルカちゃんも、」マヨコはハルカの髪の匂いを嗅いで言う。「なんだかプール臭い」

「うん、プールに行ってて」

「六供の?」

「そう」

「誰と?」

「彼女と」

「え、」マヨコはびっくりして聞き返した。「彼女って?」

 ハルカは誤魔化すように笑って、そして提案した。「マヨちゃん、二人とも臭い訳だし、一緒にお風呂に入らない?」

 マヨコは一瞬で様々なことを考えた。もしかしたらハルカはレズビアンなんじゃないか。今みたいに優しく抱き締めてくれるのはハルカがレズビアンでマヨコの体に興味があるからなのではないか。こうやってマヨコの家にフラリと訪れるのはマヨコのことを虎視眈々と狙っているからなのではないか。一緒にお風呂に入る、ということはハルカに裸を見られることで、マヨコもハルカの裸を見るということだ。もしもハルカがレズビアンだった場合、一緒にお風呂に入ることは、リホと一緒にお風呂に入ることと全く違うことなのではないか。エッチなことなのではないか。マヨコは多分、普通の少女だ。きっとハルカの裸を見ても、恥ずかしいとは思っても、猥褻な気分にはならないと思う。でも、マヨコはハルカのことが好きだ。愛している。それは例えるならば、妹が姉に抱く意味での愛だと思う。でも、ハルカがマヨコにエッチなことをしたいと言うなら、マヨコはそれに頷くと思う。認可を出すと思う。それが好きな人に対する礼儀だと思うからだ。

 そんな風にマヨコは色々と考えたけれど、結局ハルカはマヨコにエッチなことはしなかった。そんな素振りも見せなかった。むしろマヨコの方が変に意識してしまって、ハルカの裸を前にして終始、顔がピンク色だった。心臓の鼓動がうるさかった。ハルカの体は綺麗だった。スタイルが抜群で、マヨコはハルカの胸とお尻を何度も盗み見た。これじゃあ、自分がレズビアンじゃないって胸を張って言えないと思った。ハルカが求めてくれば、簡単に身を委ねてしまいそうだった。普通のお風呂だったことをどこか残念だと思っているマヨコがいる。

「ハルカちゃんの彼女って、どんな人?」

 マヨコは自室のベッドに座り、机に置いた鏡の前で髪に櫛を入れているハルカに聞いた。

「そうね、」ハルカは鏡越しにマヨコを見ながら愉快そうに言う。「まあ、個性的だわね、化粧をしていないのに化粧している、みたいな、三人とも総じてね」

「え、三人もいるの?」

「皆、仲良しだよ」

 その言葉を聞いて、マヨコはハルカが言う彼女と言うのは特別仲がいい友達のことを言っているんだって思った。変にドキドキしまって損したって思った。

 いや、別に。

 損はしていないか。

 むしろ、何だろう。

 お風呂での変な緊張感は、楽しかったな。

「それで、マヨちゃん、」ハルカはくるっと椅子を回転させてマヨコの方を向いて口を開いた。ハルカの櫛を入れたばかりの髪は揺れて煌めいた。ほんのりと紫色が見えた気がした。「アリスの夢の話のことなんだけれど」


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