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第2話 犯した罪

 霧が景色を隠す薄ら寒い早朝。

 男爵家令嬢……いや、()男爵家令嬢だったレティシア・ドルク・フルーヘルトは、母の形見のペンダントと小さな旅行鞄一つだけを持ち、ほんの数秒前まで自宅だった門前で立ち尽くしていた。


「嘘……。私、これからどうすればいいの……?」


 すっかり冷たくなってしまった左手には、くしゃりと握り込まれた絶縁状。レティシアが婚約者に拘束されてから、僅か三日後の朝だった。


 自宅だった屋敷を振り返れば高い門の内側で、嫌悪の眼差しでレティシアが立ち去るのを待つ使用人が二人。今にもレティシアを追い払おうと待ち構えている男たちに、早く離れたほうが無難だと強ばる足を動かした。


「………………、えーと? 整理。そう。まずは、状況を整理しなくては……」


 レティシアの自宅だったフルーヘルト家は、小さな丘の上にある。

 辺りはちょっとした林のようになっており、湿気を含んだ空気と朝露が衣服を濡らす。それでもレティシアは無意識に人目を避け、今だけは木々の間を進む。


 まず。まずは一年前。

 レティシアが暮らすのは無駄に領地だけは広い、自然豊かな田舎町。男爵家の長女として暮らしていたレティシアは、十六の時、精神だけが異世界へと飛ばされてしまった。

 その日はただ、自分の部屋でお茶を飲んでいただけ。

 気づけば”チキュウ”という”ワクセイ”の、”ニホン”という国に暮らす、高林(なぎさ)という十六歳の女の子になっていた。


 その時、レティシアはとても分かりづらく取り乱した。


 気づけば見知らぬ場所で、見知らぬ人物に囲まれて立っていたのだ。取り乱さないほうがおかしい。

 誘拐、拉致、人身売買。有りと有らゆる最悪が頭をめぐり、だけれど表面上は平素の様子で、下校途中だった幼馴染二人へと笑いかけた。

 それから、渚の様子がおかしい! 熱があるのかも! と自宅に引きずられ、その後はドッタンバッタンの大騒ぎになった。最初は警戒していたレティシアも、薄くて人が住んでいる黒の板に驚き、ひねるだけで水が出る取手に感激し、走る鉄の塊が個人でも所有できるという事に感銘を受け、現状を受け入れていった。


 レティシアが渚の身体にいた時、レティシアは渚の記憶を辿ることが出来た。そのおかげで言葉や驚きはしたが常識やらを、何となくだが後追いで理解も出来た。

 あの取手をひねれば水が出る。ひねってみたら本当に水が出た! だって水道だもん、当たり前か。けど本当に凄いこれ欲しい!! という、なんともチグハグな感動を覚えたのだ。

 そしてあなたは誰なの? うちの娘はどこ!! と嘆く母親に、申し訳有りませんと事情を説明し、奇妙な共同生活が始まった。


 ――と、それが突然。レティシアの精神は、再び元の世界へ引き戻された。


「お父様、お祖母様、拓海くん……」


 戻ってレティシアが最初に目にしたのは、幼馴染みであり、婚約者でもあったノルマン・ディッツ・ザイフォス。二つ年上のノルマンはザイフォス伯爵家の長男で、ザイフォス領の次期当主でもあった。

 柔らかい金色の髪に、見た目も、人当たりもいい男だ。気質はどちらかと言えば真面目で、婚約自体も親が勝手に決めたことだが、レティシアも無理に拒もうという気持ちは起きない相手だった。

 その相手から、婚約破棄を言い渡されたのは一昨日だ。


 悪女と罵られ軟禁された一室で、困惑しながら自身の記憶を辿った。

 精神だか魂だかが入れ替わったと思っていたレティシアの推測は当たっており、レティシアの身体で渚が行った所業の数々が鮮明に思い出せた。

 渚が何を思い、何を考えていたのかまではわからないが、渚はこの世界で一年間、レティシアとして振る舞っていたようだ。

 突然異世界に放り出され戸惑ったのか、常と違う主人を気にかける使用人達と上手くコミュニケーションが取れず、理不尽に八つ当りしていた。

 しばらくしておしゃれに興味を持ち、はたまたストレス発散のためか宝石やドレスを買いあさり、無駄遣いをしては執事を困らせていた。


 レティシアには二人の兄がいるが両方とも成人し、下の兄はすでに家を出ている。上の兄は結婚し、奥さんも一緒に暮らしているが、レティシアだけは離れに住んで居たため、普段の生活空間内で会うことはほとんどない。

 渚の一年分の記憶だけではなく、レティシアの記憶の中でも両親と共に過ごしたのは数えるほどしか無く、渚を諌めてくれる誰かは存在しなかった。


「東雲さん、佐藤くん、ブチ……」


 そんな渚の救いになっていたのが、婚約者のノルマンであった。

 見目も良く、人当たりのいいノルマンは荒れる婚約者を気遣い、心配の言葉をかけた。そこには、ただ婚約者を心配する純粋な気持ち以外に、もっと別な理由や立場もあるからとレティシアには理解できるが、渚にはわからなかった。

 渚はノルマンにすっかり心酔してしまい、彼女はさらに間違った道を進んだ。


 彼を想うあまりに周囲を牽制し、過度な嫉妬に暴力を振るうこともあった。それはノルマンに想いを寄せる他家の令嬢達から、ただ業務連絡を受けただけのメイドにさえ向けられた。あろうことか、渚が一番妬み、排除したいと嫉妬にかられた相手は、病弱ゆえ大切に育てられてきたノルマンの妹であるチェリルだった。

 成人前の、一日の大半を室内で暮らすような十三歳の女の子。

 そのうちノルマンは渚を遠ざけるようになり、伯爵家への出入りも制限されるようになった。渚は、全てチェリルのせいだと怒り、そして記憶を辿るレティシアが吐き気を覚えるほどの事を計画した。


――――”この娘を傷物にしなさい。好きにしていいわ”


 薄暗い地下室で、レティシアの身体で、レティシアの声で、レティシアの口から渚はその言葉を吐いた。部屋には口を塞がれ縛られたチェリルと、汚い身なりの男が数人。

 自分の記憶に止めろと叫ぶ。

 身体が強くないチェリルが寒さ以外の恐怖に震え、冷たく固い石畳に乱暴に転がされていたのだ。

 幸い、チェリルは無事に救出され、最悪は避けられた。それも最近の婚約者の過ぎた態度に、不審を抱いていたノルマンが監視をつけていたからだ。

 その記憶が三日前。レティシアが戻ってきた日だ。

 (はかりごと)がバレ、すがりつき言い訳を垂れ流していたのを突き放された時に、レティシアは戻ってきた。最悪の自分に。最悪のタイミングで。


 事後処理はスムーズに進み、レティシアは全ての準備が済んでいたことを知る。

 いくらなんでも事件を起こした翌日に婚約破棄を言い渡され、次の日には両家の承諾が済み、さらにその翌日に家を追い出されるはずがない。レティシア自身は婚約破棄に了承も、サインもしていないのに。フルーヘルト家の者は姿どころか、そう言った話が来たことすらレティシアに教えてくれなかった。

 一年ぶりに再会した婚約者からは、憎悪に濡れたキツイ眼差しを向けられ、なのに謝罪の機会すら得ることはなく、知らぬ間に全て終わってしまった。


「ごめん、ごめんなさい、チェリル。ああ、本当に……」


 無事で良かった。間に合って良かった。幼いあの子をずたずたに傷つけてしまわずに済んだことが、せめてもの救いとなった。

 レティシアは馬車道を避け、木々に身を隠しながら目をこする。僅かに湿った地面はゆるく、濡れた葉が靴や衣服を汚すが少しも気にならない。


「ふ、ふへへ、お母様。……お母さ、おかあ、さん……ふ、ぁぁ……」


 レティシアはなにもやっていない。

 だけど、やったのはレティシア(この身体)だ。責任はレティシア(本人)が取らなければならない。


 朝露ではない雫が流れ落ち、地面を濡らす。

 落ちた雫は濡れた草葉に紛れ、すぐにわからなくなった。

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