第1話 始まりの朝
けたたましい目覚ましの音にレティシアはやわい温もりの中から手を伸ばし、音の発生源を沈黙させる。
可愛らしい花がらのカーテンには僅かな隙間が出来ており、差し込む陽の光が掛けてあるセーラー服を照らしている。
「おはようございます。お父様、お母様」
「おはようレティーちゃん」
「おはようレティシアさん」
制服に身を包み、中身の詰まった通学カバンを手に階段を下りる。
鞄を玄関前の壁に立て掛け、顔を洗うために洗面所へと向かい、出てきた先客に道を譲った。
「おはようございます、お祖母様」
「おやおや、おはようキテーちゃん」
「レティですわお祖母様」
洗面台の前に立ち、蛇口をひねる。
最初はひねるだけで水が出る便利なこれを、どうしても欲しいと交渉したものだが、今では無理な話だったと理解出来る。
「おはよう拓海くん」
「あ、レティーさん。おはよー! ねえ、今日は何時に帰ってくるの? こないだのゲームの続き、一緒にする約束覚えてる?」
「もちろん覚えてますよ。夕飯の後は如何でしょう? 午後は佐藤くんと東雲さんとご一緒に、カラオケに行くんですの」
「わかった! ならご飯のあと絶対だからね」
「はい。ですので、それまでに宿題を終わらせておいてくださいね」
濡らさないようにと外していたスカーフを巻きながら、自分の胸ぐらいの位置にある頭と笑い合う。
来た廊下を途中まで戻り、リビングに入ればコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
薄くて真っ黒の大きな四角い板は今日の運勢を告げており、老女がニコニコと笑いながら「今日のお天気は絶好調なのぉ。良かったわぁ」と猫を膝に乗せながら背を丸めていた。
今のレティシアと同じ黒い髪をした女性が料理に使う鉄の容器を揺らし、後ろでチン! とパンが焼けた音がした。
「お父さん、今日ゴミの日なの。出る時忘れないでね」「んー」と会話する男女を過ぎて、自身にあてがわれている席へと着席する。
「はい、これレティーちゃんのお弁当ね。朝食のパンなんだけど、いつものジャムを切らしちゃってて、今日はシュガートーストなの」
「ありがとうございます。うふふ、朝から甘いものなんて、幸せですね」
「レティシアさん、コーヒーは?」
「いただきますわ」
「うん。ちょっと待っててね」
「まあ、お父さんったら。いつもは全然動かないのに、レティーちゃんには甲斐甲斐しいのね」
「すみませんお母様。私が高貴なばかりに」
「やっぱり、うちの娘の姿で言われると変な感じね」
自分の母親よりも、少し年上の女性と顔を突き合わせて笑い合う。
軽口に女性が気分を害した様子は一切なく、鼻歌交じりに洗い物へと戻っていった。
「神様、精霊様、仏様。ありがとうございます、いただきます」
両手を合わせパンに手を伸ばしながらふと、食器棚のガラスに映る少女を見た。髪は肩に届かないくらいのまっすぐな黒髪で、瞳も同じ夜の色。レティシアからすれば自分より二~三歳年下と思われる顔だが、十七歳で自分と同い年だと知った時は驚いた。
「お父さん。あんまりゆっくりしてると、またギリギリになるわよ」
「んー」
「お母さん、ジュース飲んでもいいー?」
「こら。急に引っ張らないで、危ないでしょ」
「――先日、――動物園で、――の赤ちゃんが」
「まあまあ、堂宇津さん家に赤ちゃんがぁ。めでたいねぇ」
「おばあちゃん、今日デイサービスの飯島さんが来る日よ。おめかししなくていいのー?」
「昨日の野球負けちゃったか。くそー」
にぎやかな食事を終え、日向で丸くなっているブチを撫でる。ブチはもっと撫でろと言わんばかりに、なのに起き上がりはせず、伸びをしながらすり寄ってきた。
「まあ、寝転んだままなんてお行儀の悪い」
朝は小学校に行く弟と、駅に向かう父と一緒に家を出る。
「車に気をつけてね。信号が赤の時は止まって。青くてもチカチカしてたら渡っちゃだめよ?」
母は毎朝心配そうに、レティシアに同じ言葉を伝えた。
「わかっておりますお母様。大事なお嬢さんの身体、絶対に傷つけたりいたしません」
それに少しだけ悲しそうな顔をした母に、「貴女のことも心配してるのよ」と言われ、申し訳なさよりも嬉しさに頬が熱くなる。
レティシアがこの家で暮らすようになって、ちょうど一年。
「あ、あの、では、いってまいりますわ。お母様」
「いってらっしゃい」
「レティーさん早くぅ! 学校遅れちゃうよ」
「あ、拓海くん、お父様も。お待たせしてしまってすみません!」
母に小さく手を振って玄関をくぐる。
屋内から急に外に出たからか、陽光に視界を奪われ、白の世界に囚われた。
と、同時にドン! とどこかに放り出された感覚がし、身動きが取れなくなる。
「なんて女だ! 今すぐこの女を囚え、逃げられぬよう見張りを立てろ!」
――――――え?
赤いカーペットの上には、長く波打つ青みがかった白銀の髪。その色を冷たく温かみのない色だと言ったのは誰だっただろうか。
ようやく、ようやっと慣れ始めた高校という場所に行くため家を出て、なのに気づけば次の瞬間、見慣れた応接間にいた。
レティシアはこの部屋を知っていた。この世界を知っている。
ここは自分が十六年間過ごしてきた世界。今いる場所は、一年前、突如意識だけが飛ばされる前に、何度か通ったことのある屋敷だ。
天井にあるのは電灯ではなく、魔力に反応して光り輝く魔法石で作った照明具。
目の前に居た人物に突き飛ばされたのか、視点は低く、スラリと伸びた男の足が見えた。
レティシアが今の状況を把握するより早く、いくつかの足音がし強い力で押さえつけられる。
「……この、悪女が」
「!」
顔を上げ声の主を確認する。
そこにはレティシアを憎悪の表情で睨みつける、婚約者の姿があった。




