1601 決勝戦おわる
「主審はまだ何も言ってない」
不意に背後から聞こえてきた対戦相手の声にウルメが跳ねた。
慌てた様子で振り返りながら立ち上がる。
体勢を整えたウルメの眼前にはカエデがたたずんでいた。
「どうする?」
カエデが問うてくる。
どうするもこうするもない。
自分がどうなっていたかは理解した。
記憶はないが頸動脈を締め上げられて落ちたのは確実だ。
ならば試合を続行するのは恥をさらすだけでしかない。
審判が何も言わないのは腑に落ちないが。
それならば自分で敗北を宣言すればいいだけのこと。
負けたことは残念ではあるが恥ではない。
全力を出し切ったのだ。
悔いは……ある。
最後の記憶がないことが残念でならない。
だが、それだけだ。
故に躊躇うこともなくウルメは──
「負けを認めます」
主審に告げた。
今度は主審が慌てる番だった。
本来ならばウルメが失神した時点で試合を止めねばならなかったのだから。
そればかりか、伸びているウルメから離れたカエデが再び近づくのも止められなかった。
目的が気付けであったとしてもだ。
それは本来ならば神官でもある審判団の仕事である。
失態の連続はそこで留まらない。
トドメと言うべきは、今のウルメの発言だ。
その前に試合を止めていればギリギリ間に合ったと言えただろう。
恥をかくだけで済んだ。
ところが実際は己が動揺から立ち直れなかったが故に最悪の結果を招いている。
誰の目にも明らかなウルメの敗北を放置し、当人に負けを宣告させた。
シャレにならない失態である。
神殿の面子に泥を塗っただけなら、なんとでもなる。
己の能力が不適格だったという発表とともに降格か左遷の処分を受ければいい。
すべてを納得させられるとは言い切れないが、それで充分だ。
神殿が受けるはずだった泥を1人でほぼ受ける形にはできるのだから。
泥の飛沫が神殿にかかってしまうのが否めないのは心苦しく思うところではあるが。
ただ、この失態はそれだけでは済まない問題を孕んでいる。
負けたはずの者を負けと認めなかったという事実が残ってしまうからだ。
そのような意図のあるなしは関係ない。
形ができれば神殿に批判的な連中が少し話を誇張して広めるのは明白。
特に自国民同士の試合でなかったのが非常にマズい。
神殿は依怙贔屓をすると言われかねないからだ。
悪意を持って話を広めようとする輩は些細なことでも誇大に言い触らしてしまうが故に。
そうなってしまうと神殿の信用問題にもつながりかねない。
己の首ひとつで回避することはできなくなるだろう。
この話が広まらぬうちに火消しに務めねばならない。
主審はフル回転で考えを巡らせた。
『それまでっ!』
まずは何事もなかったように試合を止める。
続いてウルメを招き寄せた。
舞台の上から下ろして診断を受けさせるためだ。
失神していたから、これは特に問題視されないだろう。
今は疲れを色濃く見せながらも普通に行動できているように見えているけれど。
それでも後で何もないと断言できるものではない。
ちゃんと診断と治療を受けさせる。
ここまでは従来通りの対応と言えるが、そこにイレギュラーが加わる。
治療の間に事情を話して、こちらの望む形になるよう了承してもらうことになるからだ。
これを拒否されれば、どうにもならない。
主審が頭の中で想定した最悪のシナリオが現実となるだろう。
事情を説明する間に審判団の面々が顔色を悪くしていったのは言うまでもない。
一方で話を聞いたウルメは恐縮することしきりであった。
「それは考えなしでした」
理知的な反応に主審は密かに安堵する。
だが、喜んでばかりもいられない。
「誠に申し訳ありません」
ウルメに謝らせてしまったからだ。
本来であれば審判団が謝罪しなければならない側である。
それも迂闊にはできない状況だが。
審判団がそろってウルメに頭を下げれば観客たちが何事かと騒ぎ出してしまいかねない。
既にウルメが頭を下げているが、これは治療に礼を言ったとも受け取れる。
心苦しくはあっても安易に頭を下げられないのが現実だ。
そこから今回の一件が漏れないとも限らないが故に。
それだけは避けねばならないだろう。
主審は審判団の面々に謝罪は観客のいない所でと周知徹底して次の行動へと移った。
カエデにも事情を説明して了承してもらう。
律儀なことに、こちらも謝られてしまったが。
これについても審判団の対処は同様だ。
カエデが頭を下げたことについては、どうとでも言い訳できる。
ウルメを失神させた行為がやりすぎだったということで詫びていたことにするとかだ。
主審は言い訳を考えるたびに恥をさらしている気分になった。
が、それは仕方のないことだろう。
己のミスが招いたことなのだから責任は取らねばならない。
泥は自分ですべて受ける。
誠実さに欠けることにも主審の心が痛んだ。
そして願った。
月の女神よ、信心薄き愚か者に罰をお与えください。
代わりに信者たちに迷惑のかからぬよう慈悲をお願いします、と。
決して等価ではない願いだ。
それでも、そう願わずにはいられなかった。
神殿が批判にさらされることで信者たちが不安に駆られるかもしれないからだ。
そのことだけで何か良くないことが起きるとまでは言わない。
だが、人は不安になるとミスをするものだ。
それが続けば、より不安になっていく。
積もり積もって大きなミスにならないとも言い切れない。
極端な例ではあるが、起こり得ない話でもない。
切っ掛けが神殿批判であったなら、これほど不幸なことはないだろう。
間違ったことをしていると主審は思いながらも、こうすることしかできなかった。
神官にあるまじき行為だ。
ウソで塗り固めた取り繕いをしてしまったのだから。
神殿には残れない。
武王大祭を終えた後に神官を辞して野に下ることを主審は密かに決意した。
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主審によってカエデの勝ちが宣告された。
誰もケチのつけようがあるまい。
圧倒的とも言える実力を披露したのだから。
そして優勝である。
観客席から万雷の拍手が降り注ぐ。
もちろん、それだけではない。
「おめでとう!」
「やってくれたじゃねえか!」
「次の武王大祭も出てくれよ!」
「凄かったぞ!」
「強かった!」
「憎らしいくらいになぁっ!」
次々と祝福の言葉が紡ぎ出されていた。
中には素直じゃない言い方をする者もいたが。
賭けで負けたのだろう。
それでも強さを称えるのだから悪い奴ではなさそうだ。
ただ、大きな金額が動いていたなら話も変わったかもしれない。
神殿主催なので、そういうこともないがね。
出場選手が恨みを買わないよう賭け金や掛け率が抑えられている側面もありそうだ。
試合が終われば恨みっこなしというのは清々しいよな。
カエデも心なしか表情が柔らかい気がする。
愛想を振りまいたりというようなことはなかったが。
ウルメのことを気にしているのだろう。
しかしながら当人の表情は満足げであった。
胸を張ってすらいる。
観客席からはどちらも分からないことだがな。
「ドワーフもよく戦った!」
「胸を張れ!」
「お前も強かったぜ!」
「そうだぞ! 俺たちが証人だ!」
「お前のことは忘れないからなぁっ!」
「それじゃあ死んだみてえじゃねえか!」
ドッと笑いが起きる。
だが、嘲るような空気は微塵も感じられない。
どれも暖かさに満ちた声掛けであった。
それに対して深々としたお辞儀で答えるウルメ。
前後左右の四方に向かって繰り返した。
その後の表彰式のことについては割愛する。
派手服オヤジが再登場したからだ。
普通に優勝の記念品を贈呈して終わればいいじゃないか。
贈呈の時に厳かな雰囲気の音楽とかあれば充分だと思うんだが。
そういうのがない代わりに派手服オヤジのナレーションが入るのだ。
分かり易さを追求してのことなんだろう。
選手の表情とか観客席からは分からんからな。
そのせいか、大半の観客は真剣な面持ちで表彰式を見ていた。
ミズホ組やオペラグラスを手にした5国連合の面々は微妙な空気を醸し出していたがね。
司会のコメントが入るたびに落ち着かない気分になるんだよな。
演出過多だったからなのは言うまでもない。
まあ、舞台の上のカエデやウルメよりはマシだろう。
あの2人は観客に見られる立場だからな。
下手に辟易した表情を見せることもできやしない。
試合よりも大変な思いをしていそうだ。
読んでくれてありがとう。




