部屋にて
「ただいま」
玄関のドアが閉まる音に自分の声が掻き消される。広く暗い海に投げ出されたような不安を抱えながら、俺は靴を脱いでリビングへと向かう。
「ジルは……部屋か」
明かりの消えたリビングで一人呟いて、俺はジルの部屋へと足を運ぶ。
一歩一歩。床を軋ませながらジルがいるであろう部屋の前へ到着する。
「……はぁ」
短く息を吐き出し、心の準備をする。「ジルの部屋」と書かれたプレートを見て、俺はドアをノックする。中から「はーい」とジルの声がしたので、俺はドアをゆっくりと開けた。
「何? どうかしたの?」
ジルはベッドにうつ伏せになり、雑誌を読んでいた。白く長い足が小気味良くリズムを刻んでいる。
「……上は大火事、下は--」
「お風呂」
「……正解」
ジルは雑誌をパタンと閉じて、ベッドの上に座る。女の子特有の足のつま先を外に向ける、股関節が痛くなりそうな座り方だった。
「何? 全っ然面白くないんだけど」
「パ、パンはパンでも--」
「フライパン」
「…………」
即答されてしまった。俺がひねくれ者だったら「正解はパンダでしたぁ〜!」などと言うのだろうが、生憎そんな性分ではない。
俺は次の言葉を必死に探すが、何も浮かんでこない。稼ぐ必要のない時間稼ぎのなぞなぞをひねり出そうと努力する。
すると、ジルの方からアクションがあった。
「初対面の二人がお互いに自己紹介をしています。一人が、「私はア行のアです」と言うと、相手は、 「私はカ行のクです」と言いました。二人はいったい何を言っているのでしょう?」
ん? これは、なぞなぞなのか?
出された問題には一生懸命取り組む。これが受験生としての俺のポリシーと言えば聞こえはいいが、なに、俺は単なる負けず嫌いなのだ。
俺はジルの出したなぞなぞに頭を捻った。
「あ、ああ、えーと……」
「さん、にぃ、いち」
「カウントダウン早いだろ! じっくり考えさせろよ!」
ジルはこちらの言う事に耳を貸さず、結局「ぜろ」のカウントを済ませてしまった。「ブー」っと口を尖らせた後のジルのドヤ顔は……やはり忌々しい。
「正解は「自分の名前」よ!」
「……どう言う事だ? 自分の……」
「私はア行のア」「カ行のク」。これらが「自分の名前」と言う答えになる。ア行、あいうえお……。カ行、かきくけこ……。アの位置を考えると……イの上、井上か。カ行は……キの下、木下か。
「成る程、名前ね」
「ふふーん!」
ジルは得意げに腕を組んでふんぞりかえる。そのまま壁に頭を打ち、頭を抑えていたが、見なかった事にしよう。
「で? なぞなぞをしに来たわけじゃないんでしょ?」
「あー、そうだな」
俺は痒くもない二の腕を掻き、天井に向かって答えた。
「なんかボーッとしてるわね。いつもより。熱でもあるんじゃないの? アンタ」
「かもな」
「……? 何? なんなの?」
「いや、用件はある」
「ふーん……とりあえず、座れば?」
俺は曖昧に返事をして、ジルの勉強椅子に腰掛けた。背もたれに自分の体重の八割をかけ、やはり天井を見上げて言った。
「そういやさ、そろそろ十二月だけど……。里帰りとか、予定無いのか?」
「無いわよ」
「そ、そうか……だよな。ハ、ハハッ」
子供にも見抜かれるであろう、下手な作り笑いをジルに見逃されるはずがなかった。俺は咳払いを一つして、仕切り直した。
「最近、アレだな。寒くなったよな」
ああ、言いたい事と違う。こんなことを話したいんじゃない。ジルは当たり前の様に答えた。
「はぁ? 十二月も近いんだから当たり前でしょ」
「ああ……だよな」
ジルが鋭く刺す様に俺を見る。こいつの事だ「言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ! このガリ勉!」くらいに思っているだろう。
「言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ! このガリ勉!」
予想的中だ。しかし、ガリ勉の部分まで当たっているとは……。我ながら情けないな。
「まぁ、落ち着けよ。果報は寝て待てだぞ」
「ウチに家宝なんて無いし!」
「多分、字が違うな……」
「ワケ分かんないし!」
だろうな。
ジルは「んー!」と唸り、口を尖らせた。可愛らしい仕草なのだが、そんな仕草をしているジルから俺は目を逸らす。
片方の眉を吊り上げ、ジルは腕組みをしながら言った。
「で、アンタは本当に何の用で来たのよ」
「よ、用がなきゃ、来ちゃいけないのか?」
「ツンデレに目覚めたの?」
「はぁ!? 俺の何処がツンデレなんだよ! どっちかといえば、お前の方がツンデレだろ!」
俺は熱くなり、叫んだ。ジルは耳を塞ぎながら「うるさい!」と短く言い放った。
「す、すまん」
「アンタ……。本当に頭大丈夫?」
心配するジルを他所に、俺は何から話すべきか……と、そればかり考えていた。
一旦落ち着け、落ち着け俺。
俺はビシッと椅子に座り直し、ベッドの上のジルに正対した。
「あのな、ジル……。落ち着いて聞いて欲しい」
「落ち着いてないのはアンタでしょ……」
光沢のある金髪をゆっくりと撫でながら、ジルは言った。
もう十二月になるというのに、俺は汗をかいていた。だが俺は額から流れる汗を拭うことをしなかった。
「俺はお前を助けたい。だから……お願いだから……ここを出て行ってくれ」
言ってしまった。頭を下げているのでジルの表情は伺えないが、チクチクとした空気……冷え切った空気が、部屋を包んでいた。
そして、小さな動物に刃物を突き付ける様な罪悪感が、俺の胸をきつく締め付けていた。