優しさに包まれたなら、
携帯電話はカウンターに置いたままになっていた。ジルの予感的中だ。あいつのドヤ顔が目に浮かぶようだった。しかし、あずみさんが居ない。はて、どうしたのだろうか。
店のBGMは消えていて、妙な静けさがそこにはあった。
「…………」
聴覚を最大限に集中させるため、俺は目を閉じた。何か、聞こえる。なんだろうか。
俺は失礼を承知で、カウンターの内側に入り、大きなすだれを潜ってあずみさんのプライベートゾーンに乗り込んだ。楠宮に言ったら怒られてしまいそうだな。
少し短い廊下を進み、靴を脱いで茶の間に上がる。テレビの中では、大御所の司会者が歌手と話をしていた。
見当たらねーな。あずみさん。
しかし、先程から聞こえる『音』は鳴り止まない。俺は溜息を一つ吐いて、『音』のする方へと歩く。
『音』は洗面所から聞こえていた。木製の軽々しい扉を挟んだ先には、あずみさんがいる。どうして分かったか。そりゃ、これだけ大声上げて泣いていたら分かるってなもんだ。
頭をぽりぽりと掻いてから、俺はドア越しの泣き声に語りかける。
「鍵も閉めずに、随分と無用心じゃないですか。あずみさん」
鼻をすする音がした後、静かにあずみさんは言った。
「海……なのか? 帰ったんじゃ?」
「忘れ物を、ね」
「ああ、そうか。見つかったなら帰ってくれ。一人にしてくれよ」
あずみさんの声は震えているようだった。当たり前だ、今の今まで泣いていたのだから。
「いや、それがまだなんですよね。見つかるまで……居てもいいですか?」
「ちゃんと探せよ。何処にあるんだよ? あたしも捜してやるから」
「いえ、いいですよ。多分、ここで……見つかりますから」
そう言って、俺はドアに背中を預ける様に、腕組みをして凭れかかった。
「なぁ、海……。あたしなーー」
「あずみさんって強えよな! 高校卒業して、一人で店やって、コーヒーの事について勉強したり、俺たちみたいなガキに優しくしてくれて、叱ってくれて、守ってくれて、助けてくれて、一緒に笑ってくれて……」
俺は、あずみさんがあの時、みゃーちゃんの言葉に強がりを言っているのが分かった。だから、俺はあずみさんが涙を流す理由も分かるし、あずみさんがみゃーちゃんを責めないのには感心した。だけど、だけど……。
「だけど、伝えるべきだったよ。あずみさん。あなたが、みゃーちゃんの話を聞いてどう思ったか。一人で抱えて、一人で背負って、いくら強いあずみさんでも……それじゃあパンクしますよ」
「だけど……。みや姉を責めても、変わんないでしょ。姉さんはもう、この世に居ないんだよ。今更過ぎて、何も言えなかった」
確かに。あそこで、泣いて怒って叫んでも、死人は蘇らない。だけど、だからこそ。
「だからこそ、あずみさんは言わなければならなかったんですよ。こうして一人で全てを受け入れるしか出来ない状況を作ったのは、あなたですから」
「…………」
「あずみさん。幸いに、かどうかは分かりませんが……。ここには僕がいるじゃないですか。泣きたいなら思い切り泣けばいいし、叫びたいなら叫べばいい。僕……俺は、あずみさんの事が大好きですから! 苦しみや、悲しみは分け合いましょう。そしてまた、一緒に笑いましょうよ」
「海……お前……」
俺はいつの間にかドアにつけていた背を離し、ドアに向き合っていた。正直何を言ったか覚えてないほどに身体が熱かった。俺の頬に熱い物がつたう。
ドアが開いて、目を赤く腫らしたあずみさんが出て来た。あずみさんはニカっと笑ながら、俺に応える。
「ガキンチョが、カッコつけんなよ。でも……」
あずみさんは俺の身体を優しく包み、頭を撫でながら耳元で囁いた。
「ありがとな」
成田美弥子という女教師のメモから解き明かしたこの謎は……。『美弥子落ち』なんて、あまりにも笑えないオチをつけた。
しかし、今は、今だけは、あずみさんの胸の中で笑っていようと思う。忘れ物も見つかった事だし、な。