第3話 隣の席の人
2026.11.04
第3話 隣の席の人
「父さんがデジタル化するって言い出してさ」
昼休みの社員食堂。
佐伯は唐揚げを一つ口に運んでから、向かいに座る同僚にそう言った。
「いいじゃん。うちの叔父さんも去年やったよ」
「いや、いいんだけどさ。七十二だぞ?」
「七十二だからじゃないの?」
「それが、理由がよくわかんないんだよ」
佐伯の父、希楽羅は三年前に仕事を引退していた。
今は庭いじりと散歩が日課で、週に二回は近所の将棋教室に通っている。
もっとも、それだけで大人しくしているような人ではない。
去年は突然動画配信を始め、その前はドローンの資格を取ると言い出した。さらにその前は家庭菜園に凝って、庭中をトマトだらけにしたこともある。
新しいものが好きで、面白そうだと思えばとりあえず手を出す。
ただし、将棋だけは何十年も続いていた。
「父さん、昔からそういう人だからさ」
「そういう人って?」
「面白そうってだけで何でも始めるんだよ。去年なんか、動画配信するって言い出して」
「七十過ぎて? すごいじゃん」
「すごいっていうか、家族は毎回振り回されるんだよ」
同僚が笑った。
「じゃあ、デジタル化もその延長なんじゃない?」
「それが三百万だから困ってるんだよ。母さんも呆れてる」
「でも、お父さんの貯金なんだろ?」
「まあ、そうだけど」
佐伯は味噌汁をすすった。
「それにさ、デジタル化して何するつもりなのか聞いたら、まず将棋だって」
「将棋?」
「もう一人の自分と対局したいらしい」
「いいじゃん。自分と戦えるなんて面白そう」
「何十年もやって、まだ初段になれてないんだぞ」
「え、そうなの?」
「定石より面白そうな手を選ぶから、いつまでたっても勝てないんだよ」
「お父さんらしいじゃん」
「それが二人になるんだぞ?」
二人は笑った。
そのとき、隣から声がした。
『案外、仲良くするかもしれませんよ』
顔を向けると、隣のテーブルに一人の女性が座っていた。
三十代半ばくらいだろうか。
黒い髪を肩のあたりで揃え、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。
食堂のトレーには、日替わり定食。
女性は少し申し訳なさそうに笑った。
『すみません。聞こえてしまって』
「あ、いえ」
『もう一人の自分と将棋をするなんて、楽しそうだなと思って』
佐伯は苦笑した。
「でも、同じ考え方だったら勝負にならなくないですか?」
『最初はそうかもしれませんね』
女性は少し考えてから続けた。
『でも、違う経験をすれば、だんだん違う手を選ぶようになるんじゃないでしょうか』
「なるほど」
『それに、最初から同じ人が相手なら、自分の癖をよく知っているでしょうし』
「嫌な相手ですね」
『ふふ。確かに』
女性は楽しそうに笑った。
同僚が時計を見た。
「あ、俺、午後一で会議だった。先戻るわ」
「おう」
同僚が立ち去ると、佐伯は女性に向き直った。
「実際、どう思います? 七十二歳からデジタル化って」
『どう、というと?』
「父の場合、今でも十分好き勝手やってるんですよ。デジタル化したら、もっと大変なことになりそうで」
『そうなんですか?』
「去年は動画配信、その前はドローン。今度はデジタル化ですよ。次は何を言い出すんだか」
『楽しそうなお父様ですね』
「本人は楽しいでしょうね。家族は毎回振り回されてますけど」
女性はくすっと笑った。
『じゃあ、デジタル化したら、もっといろんなことができそうですね』
「だから困ってるんですよ。二人になったら、騒ぎも二倍になるじゃないですか」
『ふふ。それは賑やかになりそうですね』
佐伯は少し考えた。
「……でも、なんでそこまでしてデジタル化したいんですかね」
『理由は聞いてみましたか?』
「面白そうだから、とは言ってましたけど」
『それなら、きっと何か楽しみにしていることがあるんでしょうね』
佐伯は何か言いかけて、口をつぐんだ。
父親が何かを始めるとき、いつも決まって楽しそうにしていることを思い出した。
『どうかしました?』
「……いえ。ちょっと、父に聞いてみようかなと思って」
女性は穏やかに微笑んだ。
『それがいいと思います』
⸻
午後三時。
佐伯は社内のサポート窓口で、端末の更新手続きをしていた。
最近、会社の業務システムが新しくなった。
生身の社員もデジタル社員も、同じプロジェクトに参加できるようになり、会議室の予約や勤務管理も統合された。
便利になったらしい。
少なくとも、説明会ではそう聞いた。
「……なんで認証が通らないんだ?」
佐伯は画面をにらんだ。
『接続先の人格認証が更新されていません』
何度試しても同じ表示が出る。
「すみません」
後ろから声がした。
振り返ると、昼休みに隣の席にいた女性が立っていた。
「あ、さっきの」
『こんにちは。またお会いしましたね』
女性は佐伯の画面をのぞいた。
『認証の更新ですか?』
「そうなんです。何回やっても通らなくて」
『それなら、先にこちらの設定を変える必要があるかもしれません』
女性が画面の端を指さした。
「ここですか?」
『はい。たぶん』
佐伯が操作すると、さっきまで表示されていたエラーが消えた。
『更新が完了しました』
「あ、できた」
『よかったですね』
「ありがとうございます。詳しいんですね」
『少しだけ』
女性は笑った。
『こういうの、よく変わりますから』
「本当ですよ。去年覚えたことがもう使えない」
『そうですね。でも、変わらない部分もありますよ』
「例えば?」
女性は少し考えた。
『困っている人がいたら、誰かが手伝うところ、とか』
佐伯は思わず笑った。
「確かに、それは変わらないですね」
女性も笑った。
『では、私はこれで』
「あ、そういえば、お名前を聞いてませんでした」
『境です』
「佐伯です。今日は二回もありがとうございました」
『いえ。お父様にもよろしく』
「はい」
境は軽く会釈して、廊下の向こうへ歩いていった。
佐伯はしばらくその背中を見送った。
不思議な人だった。
話し方は穏やかなのに、ときどき、ずいぶん昔のことを懐かしむような表情をする。
それに、最後の言葉。
困っている人がいたら、誰かが手伝う。
そんな当たり前のことを、あんなに嬉しそうに言う人も珍しい。
⸻
その日の夜。
佐伯は父親に電話をかけた。
「父さん、デジタル化の話なんだけど」
「おお。どうした」
「なんでやりたいのか、もう一回聞いてもいい?」
電話の向こうで、父親が笑った。
「なんだ、急に」
「いや、ちゃんと聞いてなかったなと思って」
「そうだなあ」
少し間があった。
「俺、若い頃からやりたいことがいっぱいあったんだよ」
「知ってるよ。将棋だろ」
「それもある。あと、絵も描きたかったし、外国にも住んでみたかった」
「初耳だな」
「言ってなかったからな」
父親は楽しそうに続けた。
「今からでもできることはあるけど、体力も時間も限られてるだろ。だから、もう一人の俺がいたら、そいつはそいつで好きなことを始めるかもしれないと思ってな」
「……でも、そいつは父さんじゃないんだろ?」
「そうだよ」
あっさりした返事だった。
「俺とは別の人間になるんだろうな」
「それでいいの?」
「いいんじゃないか?」
父親は笑った。
「同じところから始まって、違う人生になる。それを見てみたいんだよ」
佐伯は黙った。
「それに、向こうの俺が将棋で初段になったら、こっちも負けてられんだろ」
「結局、将棋かよ」
「大事だぞ、将棋は」
二人で笑った。
「そういえば父さん、デジタル化センターにはもう行ったの?」
「おう。この前、孫と見学に行ってきたぞ」
「え、もう?」
「端末がいろいろ置いてあってな。あれは面白かった」
「まだ申し込むって決めてないんだろ?」
「まあな。母さんとも相談しないとな」
佐伯はため息をついた。
「頼むから、勝手に契約しないでよ」
「わかっとる、わかっとる」
あまりわかっていなさそうな返事だった。
「それじゃ、また」
「おう。あ、そうだ」
「何?」
「センターで名前を呼ばれたとき、受付の人が二度見してな」
「……また?」
「七十二にもなって、希楽羅ですからって言ったら笑われたわ」
「父さん、それ自分から言ったんでしょ」
「バレたか」
佐伯は思わず笑った。
父親の名前は、希楽羅。
読み方は、きらら。
本人は昔からこの名前が大のお気に入りだった。
「じゃあな。おやすみ」
「おやすみ、父さん」
電話を切ったあと、佐伯はしばらくスマートフォンを眺めていた。
父親がデジタル化しても、自分の父親が二人になるわけではない。
正確には、同じ記憶を持った別の人が生まれる。
その人と、どんな関係になるのだろう。
まだ想像がつかなかった。
でも、父親が楽しみにしている理由は、少しだけわかった気がした。
⸻
同じ頃。
境は駅前の小さな店に立ち寄っていた。
ショーケースには、色とりどりのアイスクリームが並んでいる。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
境はしばらく迷ってから、一つを指さした。
『この、ソフトクリームをください』
「バニラでよろしいですか?」
『はい』
店員が手際よくソフトクリームを作る。
境は受け取ると、近くのベンチに腰を下ろした。
白く渦を巻いた先端を、じっと見つめる。
それから、そっと一口食べた。
『……なるほど』
少し考えて、もう一口。
『こっちの方が、好きかもしれないな』
境は小さく笑った。
駅前の広場では、仕事帰りの人たちが行き交っている。
誰かが電話をしている。
子どもが走っている。
ベンチの隣では、学生たちが明日の試験について話している。
いつもと変わらない、ありふれた夕方。
境はソフトクリームをもう一口食べた。
『さて、明日は何をしようかな』
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
街の明かりが、一つ、また一つと灯り始めていた。




