私が二人になった日
2026.11.2
「ねえ、ママが二人になったら、誕生日のケーキも二つになる?」
朝食の食卓で、娘が突然そんなことを言った。
母親はトーストにジャムを塗る手を止めた。
「どうだろう。誕生日は同じ日だから、一つじゃない?」
「えー、二人なのに?」
「じゃあ、ろうそくを二倍にする?」
「ケーキを二倍にしてよ」
向かいで牛乳を飲んでいた兄が笑った。
「それ、ママが増える意味なくない?」
「あるよ。ケーキが増える」
父親はスマートフォンの画面を見ながら、小さくため息をついた。
「ケーキは増えないけど、ローンは増えるんだよなあ」
「またそれ?」
母親が笑う。
「だって三百万円だぞ。端末も買ったら三百四十五万円」
「でも、ちゃんと返済の約束してるじゃない」
「まあ、そうなんだけど」
「向こうの私が月五万円ずつ返してくれたら、六年もしないで元は取れる計算でしょ?」
「それは予定通り仕事が取れれば、の話だろ」
「そこは私の腕を信用してよ」
「信用してるから契約したんだよ」
父親はそう言って、スマートフォンを伏せた。
「ただ、向こうにも生活費があるんだし、無理な返済にはしないでくれよ」
「わかってる。そこはちゃんと相談する」
娘はそんな会話を気にも留めず、最後のウインナーを口に運んだ。
今日は、母親がデジタル化する日だった。
家を出たのは午前九時。
デジタル化センターは駅前の再開発地区にあった。
ガラス張りの建物には、大きくこう書かれている。
『人生に、もうひとつの選択肢を。』
入口の横では、家庭用記憶同期端末の新製品が展示されていた。
「これ、うちが買ったやつ?」
息子が指さす。
「そうそう。こっちの白いやつ」
「黒の方がかっこいいのに」
「黒は五千円高かったの」
「五千円くらい……」
「その五千円で何回アイス食べられると思ってるの?」
娘がすかさず答えた。
「いっぱい!」
父親がうなずく。
「そういうことだ」
受付では、番号札を持った人たちが順番を待っていた。
若い夫婦、仕事帰りらしいスーツ姿の女性、孫と一緒に来たおじいさん。
デジタル化は、もう珍しいことではない。
とはいえ、誰もがするわけでもない。
費用もかかるし、必要ないと思う人もいる。
この家族にとっても、何年か話し合って、ようやく決めたことだった。
「十時からのご予約ですね。初回処理は約四時間の予定です」
受付の女性が説明した。
「終了後にデジタル人格の初期設定と、ご本人同士の確認を行います。お帰りは十五時頃になる見込みです」
「やっぱり結構かかるんですね」
「初回は脳の情報を広く読み取りますので。二回目以降は差分だけですから、ご家庭の端末でも数分で終わりますよ」
「毎日、寝てる間にできるんですよね?」
「はい。数分で終わりますので、コーヒー休憩中などでも大丈夫ですよ。ご家族で一台を共有される場合は、それぞれお好きな時間に使っていただけます」
「それなら便利ですね」
娘が母親の服を引っ張った。
「ママ、四時間も寝るの?」
「そうみたい。起きたら終わってるんだって」
「いいなあ。私もお昼寝したらママ二人になる?」
「それはならないかなあ」
「えー」
父親が笑いながら娘の手を取った。
「じゃあ、ママが寝てる間にお昼ごはん食べに行こうか」
「やったー!」
母親が案内された部屋は、思っていたより普通だった。
大きなリクライニングチェアと、頭を包み込むような半円形の装置。
壁には小さな観葉植物まで置かれている。
「スキャン中は眠っていただきます。眠っている方が脳の活動が安定して、精度の高い読み取りができますので」
担当者が説明する。
「こちらで睡眠を補助しますので、無理に眠ろうとしなくても大丈夫ですよ」
「なんだか、健康診断みたいですね」
「そうおっしゃる方も多いですよ」
母親は椅子に腰かけた。
装置が静かに動き、視界の端に淡い光がともる。
「では、始めますね」
母親は目を閉じた。
四時間後には、自分と同じ記憶を持った誰かがいる。
昨日の夕飯も、子どもたちが生まれた日のことも、夫と初めて会った日のことも知っている。
でも、そこから先は別々だ。
自分がここで目を覚ますことと、あちらの自分が目を覚ますことは、同じではない。
少し不思議だった。
「おやすみなさい」
担当者の穏やかな声を最後に、意識がゆっくり遠のいていった。
その頃、父親と子どもたちはセンター近くの商業施設にいた。
昼食を済ませ、雑貨屋をのぞき、娘が欲しがったぬいぐるみを買うかどうかで十分ほど揉めた。
結局、買わなかった。
代わりにソフトクリームを食べることになった。
「ママにも買ってあげようよ」
「終わる頃には溶けてるだろ」
「じゃあ、ママが終わったらもう一回食べる?」
「食べない」
そんなやり取りをしながらセンターへ戻る途中、娘が足を止めた。
ベンチに座った一人の人物が、カップアイスをじっと見つめていた。
年齢は三十代くらいだろうか。
薄いグレーの上着に、少し古風な形のスニーカー。
アイスを一口食べては、何か考えるように首をかしげている。
娘は遠慮なく声をかけた。
「おいしくないの?」
その人は顔を上げた。
「ん? ああ。おいしい、とは思うんだけどね」
「へんなの」
「そうだね。自分でもそう思う」
娘は自分のソフトクリームを見せた。
「こっち、おいしいよ」
「そうかあ。今度はそっちにしてみようかな」
父親が慌てて頭を下げた。
「すみません、急に話しかけて」
「いえいえ。教えてもらえて助かりました」
その人はにこにこと笑っていた。
娘は手を振り、父親たちと歩き出した。
その人はしばらくソフトクリームの看板を眺め、それから手元のアイスをもう一口食べた。
「……うん。悪くない」
小さくつぶやいて、満足そうに笑った。
午後二時過ぎ。
母親の初回処理が終わった。
家族が案内された確認室には、大きなディスプレイが一つあった。
「それでは、デジタル人格の起動確認を行います」
担当者が画面に触れる。
淡い光の中に、一人の女性が現れた。
母親だった。
ただし、髪が鮮やかなピンク色だった。
「……え?」
生身の母親が目を丸くした。
画面の中の母親も目を丸くした。
そして二人同時に言った。
「なんでピンクなの?」
「なんでピンクっておもったでしょ?」
一瞬の沈黙。
先に笑ったのは画面の中の方だった。
「いや、せっかくだから変えてみようかなって」
「私、そんなこと考えてた?」
「ちょっとは考えてたでしょ。昔、染めたかったじゃん」
「それはそうだけど!」
施術室に迎えに来ていた息子が吹き出した。
「ほんとにママだ」
娘は画面に駆け寄った。
「ママ! そっちのママ!」
「はーい」
「なんで髪ピンクなの?」
「かわいいかなと思って」
「かわいい!」
「ほら、好評」
生身の母親が苦笑する。
「私は明日も仕事あるから染められないけどね」
「そこはこっちの特権ということで」
父親は腕を組んだ。
「性格まで同じなんだな」
二人の母親が同時に答えた。
「当たり前でしょ」
また全員が笑った。
担当者も少しだけ笑ってから、説明を続けた。
「本日以降、お二人は独立した人格として生活されます。今後、生身のご本人からデジタル人格への記憶同期はできますが、デジタル側で経験したことが生身の脳へ直接戻ることはありません」
「つまり、こっちの私が何かしたら、私は画面で見たり、聞いたりするしかないんですよね」
生身の母親が尋ねた。
「その通りです」
画面の中の母親が、にやりと笑う。
「じゃあ、内緒で旅行に行けるわけだ」
「え、ずるい」
「あなたも行けばいいじゃない」
「仕事あるし」
「私も仕事する予定なんですけど?」
父親が口を挟んだ。
「二人とも、仕事の前にローンの話をしてくれる?」
「大丈夫。契約どおり、ちゃんと返すから」
画面の中の母親が笑う。
「それに、こっちは通勤もいらないし、働き方の選択肢も多そうだしね」
「まあ、最初から無理はしないでよ」
「わかってる。私だって、これから自分の生活を作らなきゃいけないんだから」
生身の母親がうなずいた。
「仕事は一緒に考えよう。得意なことも同じだし、協力できることは多いと思う」
「うん。よろしくね」
二人は顔を見合わせた。
同じ顔なのに、少しだけ違う笑い方をしていた。
帰りの車では、娘がずっとデジタルの母親と話していた。
後部座席の小さな画面に、ピンク髪の母親が映っている。
「そっちのおうちは?」
「今、作ってるところ」
「見せて!」
画面が切り替わった。
広いリビングに、大きな窓。
窓の向こうには海が広がっていた。
「すごーい!」
「まだ家具がないんだけどね」
「私の部屋も作って!」
「いいよ。何色がいい?」
「水色!」
「了解」
息子が身を乗り出す。
「俺の部屋も」
「もちろん」
父親もちらりと画面を見た。
「俺は畳がいいな」
「え、そこは現実と一緒なの?」
「落ち着くんだよ」
「はいはい。畳の部屋ね」
生身の母親は助手席でその会話を聞いていた。
少し変な感じがした。
自分の声なのに、自分が話していない。
自分の好みなのに、自分が選んでいない。
でも、不快ではなかった。
ただ、まだ慣れない。
「ねえ」
画面の中の自分に声をかける。
「なに?」
「海、いいね」
「でしょ。私たち、昔から海好きだったし」
「うん」
「今度、そっちにも見せるよ。夕焼けがきれいな設定にしておく」
「楽しみにしてる」
夜。
子どもたちを寝かせたあと、生身の母親は寝室に置いた家庭用同期端末を確認していた。
白い箱型の機械は、小型のパソコンくらいの大きさだった。
購入価格、四十五万円。
設置業者が接続を済ませてくれたので、あとは設定するだけだ。
『自動同期:毎日 午前2時』
『推定所要時間:4分』
『同期対象:本日以降の記憶』
母親は設定を確認し、画面の向こうの自分に尋ねた。
「これでいい?」
「うん。今日の分、楽しみにしてる」
「あなたは今日のこと、もう知ってるじゃない」
「センターを出てからのことは知らないよ。私は車に乗ってないし」
「ああ、そっか」
「それに、そっちがどう感じたかも知りたいしね」
母親は少し考えた。
「なんか、日記を交換するみたいだね」
「一方通行だけどね。私の日記は読んでもらうしかない」
「じゃあ、たまには送ってよ」
「写真でも?」
「うん」
「わかった」
寝室のドアが少し開いた。
娘がぬいぐるみを抱えて立っていた。
「ママ、そっちのママって寝ないの?」
「寝なくても大丈夫なんだって」
画面の中の母親が答える。
「眠ることもできるけどね」
「じゃあ、夜は何するの?」
「そうだなあ。今日は月に行ってみようかな」
「月!?」
娘の目が輝いた。
「宇宙船で?」
「デジタルの世界でね。本物の月の観測データを使った場所があるんだって」
「いいなあ!」
「写真送るね」
「絶対だよ!」
「約束」
娘は満足そうにうなずき、また寝室を出ていった。
生身の母親が笑った。
「明日、起きたら大騒ぎだね」
「たぶんね」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
画面が暗くなる。
母親はベッドに横になった。
明日の朝、もう一人の自分には、今日の記憶が届いている。
でも、もう一人の自分は今夜、自分の知らない月へ行く。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌朝。
「ママーーーー!」
娘の声で目が覚めた。
「見て! 月!」
娘が持ってきた画面には、灰色の地面と、真っ黒な空が映っていた。
遠くに青い地球が浮かんでいる。
その真ん中で、ピンク髪の母親が笑っていた。
腕には、娘がいつも抱いているぬいぐるみとそっくりなものを抱えている。
『月まで来たよ。今度は一緒に行こうね』
娘は写真を何度も拡大した。
「私のくまちゃんもいる!」
「ほんとだね」
「ねえ、ママ」
「なあに?」
「私も大きくなったらデジタル化する!」
「そう?」
「そしたら、ママが二人で、私も二人でしょ?」
「そうなるね」
「四人で月に行けるね!」
母親は少しだけ考えてから、笑った。
「そうだね。四人で行こうか」
キッチンから父親の声がした。
「その前に朝ごはん食べてー!」
娘は元気よく返事をして、廊下を走っていった。
母親はもう一度、画面の中の写真を見た。
昨日まで、自分は一人だった。
今日からは二人。
そして、二人とも、まだ知らない明日がある。
窓の外は、いつもと変わらない朝だった。




