プロローグ
風が、瓦礫の上を静かに吹き抜けていった。
崩れた城壁。
割れた石畳。
辺りに溢れる血の匂い。
その中心に、ひとりの少女が立っていた。
黒い角を持つ少女。
長い髪が夜風に揺れ、
足元には折れた剣が転がっている。
その剣には、まだ血が残っていた。
――魔王の血。
少女は、ゆっくりと目を閉じる。
胸の奥に、焼きついたままの光景があった。
床に広がる血。
崩れ落ちた身体。
そして――
「……アレン」
声に出すと、空気に溶けて消えた。
返事はない。
もう二度と、返ってくることはない。
少女――リュナは、静かに息を吐いた。
遠くの空で雷が鳴る。
魔力の波が空気を震わせていた。
魔王城。
かつて、倒すべき敵だった場所。
今は――
「……私の、城」
言葉にした瞬間、胸が軋んだ。
玉座の間の奥。
黒い石で作られた巨大な椅子が、静かにそこにある。
リュナはゆっくり歩いた。
靴音が、空っぽの城に響く。
一歩。
また一歩。
やがて玉座の前に立つ。
そこには、まだ乾ききらない血が残っていた。
父の血。
指先が、震えた。
思い出す。
あの人の最後の瞬間。
魔王の一撃。
床に倒れるアレン。
伸ばした手。
届かなかった距離。
「……なんで」
呟きが、暗闇に落ちる。
答えは、もう知っていた。
自分が弱かったから。
自分が――
魔族だったから。
リュナはゆっくりと、玉座に触れた。
瞬間。
膨大な記憶が流れ込む。
歴代の魔王。
戦争。
人間。
憎しみ。
恐怖。
すべてが、頭の中を通り過ぎる。
「……っ」
思わず膝をつく。
呼吸が荒くなる。
だが、すぐに静まった。
魔力が身体に馴染む。
まるで――
最初からそうであったかのように。
ゆっくりと立ち上がり、玉座に腰を下ろす。
高い。
城を見下ろす高さ。
世界を見下ろす高さ。
そして、そこで初めて理解した。
もう戻れない。
人間の勇者としての人生には。
もう二度と。
「……終わったんだ」
静かな声。
城の外では、遠くで戦いの音がしている。
まだ魔族と人間は戦っている。
魔王は死んだ。
それでも戦いは終わらない。
リュナは空を見上げる。
夜空は、どこまでも暗かった。
そして思い出す。
旅の始まり。
王都の朝。
仲間の声。
笑顔。
焚き火。
――アレン。
胸の奥が、痛む。
だが涙は出なかった。
魔王は、泣かない。
そういう存在だからだ。
「……ねえ」
誰に言うでもなく、呟く。
「もし、もう一度やり直せるなら」
その言葉は、途中で消えた。
答えは分かっている。
やり直せない。
時間は戻らない。
だから。
少女は静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開く。
その瞳には、かつての迷いは残っていなかった。
「……いいよ」
小さく、呟く。
「全部、私が背負う」
世界が、そう望むなら。
英雄が死んだという物語を、望むなら。
それでいい。
リュナは玉座に深く腰掛ける。
その姿は、もう勇者ではない。
世界がまだ知らない、新しい魔王。
その瞳に残っているのは、ただひとつだけだった。
もう一人の自分を騙していた少年の記憶。
そして――
決して消えない罪。
その夜。
世界は「英雄の勝利」を祝っていた。
だが誰も知らない。
本当の物語は――
ここから始まる。




