9.腐った果実
ダルク様――いえ、ダルクの赤黒い瞳が私を見下ろす。
やっぱり、そうだったのね。
渡せという言葉には従えず、思わず封書を両手で庇う。
分かっていた。
あまりに不自然だったもの。
幾度となく起きた改変の中で、彼だけが全く変わらなかった。
いえ、寧ろ立場が良くなっていた。
まるで邪魔なものを排除していくように、彼の障害だけが無くなっていった。
これが意味する事は一つだけ。
少し前まで、私は死神が全てを操っているのだと思っていたわ。
でも、違った。
全てを操っていたのは――。
「ダルク様……やはり、貴方が……!」
抵抗するように声を振り絞る。
対するダルクは表情を変えない。
勝ち誇った笑みも一切浮かべない。
ただ、無表情。
それから僅かに視線を天井へと上げた。
「ラナ、人の幸せとは何だと思う?」
意味が分からない。
一体、何を言っているの。
突然そんな事を問われ、私は言葉を失う。
「これは私の自論だがね。幸せとは、相手の気持ちを理解できた瞬間にある。自分の考えていた思いやりが叶った時や、通じ合ったと分かった時。そこに確かな繋がりがあるのだと気付いた瞬間にこそ、人の心は満ち足りるものだ」
「な、何を言って……」
「ラナ。私はようやく、君を見つけたのかもしれない」
もう一度私を見下ろしたその瞳は、グルグルと渦巻いているようだった。
前にも見たことがあるわ。
光を失い、底の見えない闇に囚われたような色。
あの時から既に、彼は正気を失っていたのか。
今の言葉とは不釣り合いな位、ゾッとする冷たい表情がそこにあった。
「5年前、初めは信じられなかったよ。何の根拠もない憶測だと思おうとした。だが、あまりに偶然が重なり過ぎていた。まるで私の思考を見透かしたかのように、ヴィオルへ差し向けた全ての計画が潰された。だからこそ、私は恐怖と共に確信したよ」
「……!」
「私の計画を邪魔する存在、内通者がいるとね」
一歩、その足が踏み出される。
響いた靴音に私の身体が強張る。
分かっていたのは、私だけじゃなかった。
今まで私が行ってきたこと。
ヴィオルを救うために伝えてきたこと。
それを全て、気付かれていた。
当然だわ。
計画を阻止され続ければ、誰だって不信に思う。
そしてその元凶を探し出そうと躍起になる。
どうして彼が私を縛り続けていたのか、その理由が少しだけ分かった。
「探し出すのには苦労した。何せ弟……ヴィオルは何一つ語らなかったからな。どんな痛みや苦しみにも、アイツは屈しなかった。余程、守りたいものがあったのだろう」
「貴方が、全てを仕組んだのね!? ヴィオルを殺したのも、全て……!」
「奇妙なことを言う。君だって、それが分かっていて私を受け入れたのだろう?」
声を荒げる私に対して、ダルクは変わらず冷徹だった。
噛み合わない会話と共に、視線を真っすぐに向けてくる。
私を責める目じゃない。
怒りでも、敵意を抱いている目でもない。
これは、何なの。
彼の感情は、私の理解を超えた場所にあるようだわ。
「全ては、あの男が狂ったことから始まった。私の父、ヴァン・ヴェルレーヴェンが」
そうしてダルクは何かを思い返す。
●
父、ヴァン・ヴェルレーヴェンは誉れある人物だった。
公爵家当主であり、国の根幹である法にも関わる偉人。
目指すべき頂点であり、私の自慢の父だった。
だがそんなある日。
突然、ソレは起きた。
「ダルク、サラは何処に行ったんだ?」
「え……? は、母上の事ですか?」
「そうだ。さっきまでそこに居ただろう?」
「ち、父上……? 母上は既に……」
私が動揺するのも当然だった。
何故なら母は既に亡くなっている。
父が知らない筈もなく、最初は何かの冗談なのではと疑った。
だが、違った。
「そんな筈はない! サラはさっきまで、私の傍に居た筈だ! 何を隠している!?」
父は、母が亡くなっている事実を忘れていたのだ。
それから父の様子は、徐々におかしくなっていった。
次第に周囲と会話が噛み合わなくなり、その苛立ちをぶつけるようになる。
極めつけには、私達を敵だと思い込むようになった。
「お前達は、私の屋敷を乗っ取るつもりだろう!?」
「ち、父上! 落ち着いて下さい!」
「渡さん! 私の屋敷は、誰にも渡さんぞ!」
瞬間、視界がブレた。
状況を理解するのに数秒を要した。
そう、私は殴られたのだ。
敬愛する、あの父に。
殴られたのは、初めてだった。
あんな理知的な父が、優しかった父が、こんな訳の分からないことで手を挙げるなんて。
有り得ない。
有り得る訳がない。
一体、何が起きているんだ。
私は痛みよりも、その衝撃に打ちひしがれた。
その後は従者が父を諫めたので、大きな騒動にはならなかった。
いや、既に大事にはなっていたのかもしれない。
父が狂気に囚われていたのは、明らかだったからだ。
医師の診断を受けるように言っても、何処も悪くないと余計に暴れるばかり。
公爵家当主という立場故に、強引な手も取れない。
専門の医師も、周りの貴族も、首を捻るばかりだった。
どうして、こんな事に。
分からない。
分かりたくもない。
既に知性のあった面影すら消え失せている。
アレは、本当に父なのか。
時間が経つにつれ、父は痩せ衰え、私の敬愛の念は擦り減っていった。
そんな中、何故か弟のヴィオルだけはあまり動揺していなかった、ように見えた。
私の身間違いか。
それどころか、進んで父の傍にいるようになった。
あの状況で、既に自分も手を上げられているというのに、全く意に介した様子がない。
笑顔で今の父を受け入れている。
有り得ない。
聡明な父を知っているお前なら分かる筈なのに。
私はそこに不信感を覚えた。
まさか。
まさか、お前がやったのか?
そう思う私に、弟のヴィオルが歩み寄ってきた。
「父上のことは僕に任せて下さい。大丈夫です。父上も、少し混乱しているだけですよ。直ぐに良くなります」
「ヴィオル……まさか、お前が……」
「……? 何の話ですか?」
私には弟の笑顔が、悪魔のように見えた。
そうして時が経ち、その予感は的中する。
父の遺言で、ヴィオルが次期当主となったのだ。
●
「私はヴィオルが毒か何かを用いて、父を狂気に陥れたのだと本気で思っていた。次期当主の座を狙い、父を狂わせ、私から全てを奪うつもりなのだと」
「そんな訳が……!」
「あの男の変貌ぶりを見れば、誰でもそう考えたさ。遺言に従って次期当主がヴィオルのものとなった時、異論が浮かんだのは私だけではなかった」
彼の身に過去、何があったのかは分からない。
けれど私を見る瞳が、僅かに揺らいだ気がした。
「私達は確かな正義を以て、ヴィオルを悪と断じた。正しいと思い込めば、どのような行動にも正当性がある。私の計画に付き従う者すらいた。だが結局内通者は見つけられず、ヴィオルの死後に追い打ちをかけるように、あの症状が医学的に立証された」
「認知症……」
「その瞬間、私達は悟った。あの男は、既にその症状に侵されていたのではないかと。ヴィオルが狂気に陥れた訳ではなく、自然とそうなっていたのではないかと。だが、今更認める訳にはいかない。真偽はどうあれ、既に処刑は執行された」
ダルクがゆっくりと手を伸ばし、私は反射的に後ずさる。
既に彼は気付いていたのだわ。
自分が間違いを犯したのだと。
初めは本当に自分達が正しいと思っていたのでしょう。
そして周囲を巻き込んでヴィオルを謀殺した。
処刑などという、あまりに残酷な方法すら用いた。
けれど、彼は認めない。
それどころか、自身が犯した罪から目を背けようとしている。
私が手に入れた封書を、無かったことにしようとしている。
「その封書は、私達の過ちを詳らかにするもの。正義を悪とするものだろう。さぁ、ラナ。それを渡してくれ。既にこの塔の周りは部下達が取り囲んでいる。最早、逃げ道もない」
「ッ……! 貴方にヴィオルへの罪悪感が少しでもあるのなら! 今すぐ犯した過ちを公表するべきだわ! それが償いというものでしょう!?」
「無実の弟を処刑したと、民衆の前で公表しろと言うのか。残念ながら、それは出来ない。これは民だけでなく、他の貴族からも不信を買うもの。幾ら公爵家であっても衰退は免れない。ここでヴェルレーヴェン家を途絶えさせる訳にはいかないんだ」
訴えかけても、まるで動じない。
結局、ダルク・ヴェルレーヴェンの本性は変わらない。
地位と権力、己の保身。
そのためならば、自分の家族を悪人に仕立て上げることも厭わない。
だからヴィオルを手に掛けたことにも、簡単に目を逸らせるのね。
次第に怒りすら覚える。
すると彼は納得したように小さく頷いた。
「それが、君の本心か」
「!?」
「私を責め、そして憎む目だ。その目を、私はずっと待っていたのかもしれない」
「意味が分からないわ……どうして私を殺さなかったの……? 私が内通者だと分かっていたのなら、どうして私を婚約者にして傍に置いたの!?」
冷静に考えれば分かる事だったわ。
いつからかは分からないけど、彼は私が何者か気付いていた。
過去と交信している事までは抜きにしても、ヴィオルに情報を送っていた内通者だと勘付いていたのよ。
だったら、どうして今まで私を見逃していたの。
実の弟を簡単に手に掛ける男に、躊躇いなんてない筈。
「酷く単純な話だよ。何の迷いもない、ただ一つの感情だ」
「!?」
「ラナ、君を愛している」
一瞬、聞き間違えかと思ったわ。
今の状況とは、あまりにも不釣り合い。
考えもしていなかった言葉が辺りに響く。
「君がこの5年間、どんな思いで私の傍にいたのかは分からない。復讐か、悲観か、それとも哀れみか。だが君は、私を欺き続けた。監視するために近づいた私に対して、君は本心を覆い隠して私の傍に居続けた。私の間違いだったのではと思わせる程の、完ぺきな演技を続けてね。そしてようやく君は今日、その本性を明かした」
「……!」
「正直に言おう。君ほどの強かな女性は、今まで見たことがない。味わったことのない衝撃を受けたような気分だったよ。そしてその感情は、日が経つにつれて強まっていった。君がどうやって私の策を見抜き、先回りしたのか。そんな事すら些細に思える程にね」
そこでようやく、彼は表情を変えた。
渦巻くような瞳はそのままに、慈愛のような笑顔を浮かべる。
嘘には見えない。
本当に、私に愛情を抱いたというの。
婚約者という立場も打算的な考えでなく、本当に愛した結果だというの。
理解できない。
普通の考えを逸脱しているわ。
最早、その笑顔は狂気じみている。
僅かな恐怖を抱いていると、ダルクは視線を私の真横へと逸らした。
そこには私が抱えてきた蓄音機があった。
「そう。これだ。この蓄音機が、私達を引き合わせた。君も分かっていたのだろう?」
「何を言っているの……?」
「……この期に及んで、まだ私を欺こうとするのかい?」
自分は分かっている。
そう言いたげな様子で息を吐く。
全く心当たりがないわ。
けれど以前の彼は、コレに妙な反応を見せていた。
まさか、時を超えて会話が出来ることを知っていたのでは。
いえ、それを知っていたなら早々に処分するか、私の手の届かない場所へ置いていた筈。
もっと単純な理由。
何故、ダルクが何の接点もない私に近づいたのか。
何故、私が内通者だと考えたのか。
その理由が、この蓄音機にはある筈で――。
「その蓄音機は、元々ヴィオルが持っていたものだ」
彼は真っすぐにその蓄音機を指差した。