10.たとえ全てを忘れても
父上の変貌は、僕も気付いていた。
あの人は身の回りだけでなく、僕達のことすらも次第に忘れていった。
博識だった面影は、徐々に消えていく。
時には手を上げられたこともあった。
だからどうにかしたくて、僕は兄上を頼った。
「兄上、父上のことで……」
「私には代行の執務がある。後にしてくれ」
「は……はい。分かりました」
だけど兄上は、父上から離れていった。
まるで今の父上を見ていたくないようだった。
従者に任せきりになり、次期当主として執務に没頭するようになる。
他の貴族の方々も、表面上は心配しているようだったけど、面倒ごとを避けようとしているのがハッキリと分かった。
だったら、僕はどうする。
何が正しいのか、何が間違っているのか。
迷いながらも僕は父上を支えることにした。
いつかまた、以前と同じように三人で暮らせると信じて。
合間を縫って、極力顔を見せるようにした。
誰だと言われても、自分は貴方の息子だと何度も言った。
渡したプレゼントは数日の内に忘れられ、何処かへ行ってしまった。
それでも一緒に居続けた。
理由は漠然としていて、その時は理解し切れていなかったんだと思う。
いや、僕自身も心の何処かで目を背けていたのかも。
でも、そんなある日だった。
「許してくれ」
いつものようにベッドから起き上がった父上は、僕の前で静かに涙を流した。
突然だった。
僕が慌てて寄り添うと、父上は僕の手を握ってきた。
あまりに弱々しく、そして微かに震えているのを感じた。
それが元の父の言葉だったのかは分からない。
夢で見た幻想のまま、呟いただけだったのかもしれない。
でも、確信する。
そうだ。
比べる事に何の意味があるのだろう。
父上は今、此処にいる。
過去の父上と今を比べて、優劣を考えるなんて間違っている。
今の僕は、勝負をしている訳じゃない。
父上が一番望んでいるものは何なのか。
それを考え、僕はやっぱり傍に居続けることにした。
「ヴィオル、どうしたんだ? もう学校の時間だろう?」
「……今日は休校なのです」
「そうだったのか……。そうだ、ダルクは何処にいるんだ……?」
「兄上はお仕事が忙しいので。大丈夫です。僕が傍にいます」
「そうか……そうか……」
父上は椅子に座ってぼうっとしながら、窓の外を眺める。
従者に任せれば良い、訳がない。
父上に必要なのは家族だ。
勿論会話が噛み合わずに大声で怒鳴られることはあったけれど、怒るのは当然だった。
子供の頃、僕だってヤンチャをして父上に叱られた事がある。
きっと、その時と同じなんだ。
きっと、僕達はまだ子供のままなんだ。
「ヴィオル、どうしたんだ? もう学校の時間だろう?」
父上の時間が、次第に巻き戻っていくような気がした。
もしかすると、亡くなった母上と会っているのだろうか。
昔に暮らしていた故郷に帰っているのだろうか。
そしていつか、僕のことも兄上のことも、全て忘れてしまうのだろうか。
それでも――。
「安心して下さい。僕は貴方の傍にいます。それが僕に出来る、恩返しだから」
●
「この蓄音機が、ヴィオルの!?」
「処刑後、弟に関する品は処分した。体裁を保つために幾つかのものは置いておいたが、私にとっては罪悪感を呼び覚ます忌まわしいものだ。その蓄音機も、当時処分した品の一つだった。けれど驚いたよ。初めてラナに近づいた時、君がヴィオルの蓄音機を持っていたのだから。その蓄音機にある小さな傷は、見覚えがあったからな。そして内通者は君ではないかとの疑念が生まれた」
ダルクはその蓄音機を見下ろした。
彼の言う小さな傷は、確かに私も分かっていた。
元から付いていたもので、それを承知で骨董品から購入したのだもの。
あの時は元が誰のものだったのかなんて、気にも留めなかったわ。
でも、それこそが私達を繋げた。
ヴィオルから目を背けるためにダルクが売り飛ばし、それが回り回って私の元に届いていたなんて。
どうしてこの蓄音機が過去のヴィオルに繋げていたのか、今なら分かる。
だって同じものなのだから。
「けれど、それだけで私を……?」
「いや、所詮はただの疑念だ。それだけで君を内通者と断定する気はなかった。元々君に近づいたのは、君のご両親への贖罪が発端だった」
「まさか……! まさか、お父様やお母様の命を奪ったのも……貴方が……!?」
「誤解しないでほしい。君のご両親に関して言えば、あれは本当の事故だった」
反射的に足を踏み出しかけた私を、ダルクは制す。
「あそこは初めに、ヴィオルを事故死に見せかけようとした山道。当時は先回りしたヴィオルの指示で封鎖されてしまったが、地主たちの要望で処刑後に解放しただけだ。まさか本当に崖崩れが起きるとは、私も想定外だった。そして結果的に、君と私を引き合わせた」
そうだわ、と私は思い返す。
記憶の中から当時の光景が思い浮かんでくる。
お父様とお母様の事故はあの山道、最初にヴィオルの死が訪れる場所だったわ。
私の助言で回避した後、確かにヴィオルがあの道を封鎖していた。
でもそれが解放されて、回り回って視察に来た私達に降りかかった。
当時の私が、そんなことを知っている筈もない。
避けられない事故だった。
つまりお父様やお母様を奪ったのは、私ということ?
私が余計なことをしなければ、お父様やお母様は無事だったというの?
愕然としていると、ダルクがゆっくりと首を振った。
「私が殺したのはヴィオルと、狂乱した父だけだよ」
「え……」
「さぁ、話も終わりだ。その封書を渡してくれ。それで全てが終わる」
「貴方は、実のお父様まで殺したの……?」
「愛とは。互いに理解し合い、支え合うからこそ育まれる。だがあの症状にそんなものはない。幾ら理解しようとしても、見返りなどない。分かり合えず、時には暴力すら振るわれ、ひたすらに疲弊する。私自身驚いている。人とは、こうも冷酷になれるものなのだと。いや……認知症の有無など、今更どうだって良い。私はあの男の醜態を見ていられなかった。だから毒を盛って殺したのさ。これ以上、あの男がヴィオルの言いなりになる前に、父との思い出が憎しみに変わる前に」
「……!」
「ラナ、無償の愛なんて存在しないんだよ。だから私と共に行こう。そして老いる前に、私と共に死のう」
彼は更に一歩、踏み出してくる。
こちらの事情なんて端から理解する気はないのね。
私が今、何を考えて何を感じているのか。
何一つ見ないまま、一方的な愛情だけを押し付けてくる。
きっと私は、殺めたヴァン様やヴィオルの代わりでしかない。
役割も同じく、不要となったら捨てられる代用品。
その手を取れるわけがない。
封書は渡さず、私は全身を奮い立たせる。
微かな雑音が、何処からか聞こえた。
「私は、お父様やお母様がいてくれれば良かった。だって私を産んで育ててくれたもの。離れていても、寂しくても、そこにいるって分かるだけで心の支えになった。だからそんな感謝すら忘れた貴方の考えは理解できない……! 絶対に……!」
否定するように、持っていた封書を開ける。
封の中には幾つかの書面があった。
ダルクは驚いたように目を見開くが、無理矢理奪い取ろうとはしない。
封を破ろうとも、後からいつでも奪えると思っているのかもしれないわ。
でも私は、ヴィオルが託してくれたものを、何も知らずに奪われたくはなかった。
書面を広げ、ランタンの光に照らす。
抗いたい一心で読み解くと、記された内容が明らかになる。
「これは、嘆願書?」
「何……?」
「ヴァン・ヴェルレーヴェンの名の下に、ダルク・ヴェルレーヴェンの義絶処分を嘆願する……!?」
そこまで読んで言葉に詰まる。
これは前当主のヴァン様が生前に書いたもの。
欄にはしっかりと名前が記され、印も押されている。
間違いないわ。
あの方はダルクとの関係を絶つため、王家に進言しようとしていたんだわ。
そしてそれを息子のヴィオルに託した。
私は彼が伝えたかったことを理解して、下唇を噛む。
けれどそれを知ったダルクはせせら笑った。
「は……! それがヴィオルの残した手掛かりか!? 何て間抜けな! たとえ突き出されたとしても、既に死んだ人間の書面だ! 遺言でない嘆願書に法的拘束力はない! そんなものでは私を殺せない!」
「……」
「本当に私を義絶にさせたかったのなら、遺言に書いておけば良かったものを。やはりあの男の思考は、既に衰えていたようだな」
無意味なものを残した、とでも言いたいのかしら。
ダルクは安堵したようにも見えた。
確かにその通りよ。
この嘆願書には、もう効力はない。
現当主が変わってしまった今では、王家に提出した所で何の力もない。
遺書に残しておけば良かったという言葉は、ある意味では正論なのでしょう。
けれど違う。
ヴィオルは、意味のないものを残した訳じゃない。
私は彼を見上げた。
「分からないの?」
「何……?」
「ヴィオルは処刑される前から、この嘆願書を持っていたのよ? きっと彼は、生前のヴァン様からこれを譲り受けていた。その意味が、本当に分からないの?」
「!?」
嘆願書を残したのは、王家に届けさせるためじゃない。
ヴィオルはいつでも嘆願書を出せた。
それこそヴァン様が存命中に、或いは正式な当主継承が行われる前に提出していれば、ダルクの義絶も有り得た。
だというのに、彼はこれを手放さなかった。
それが意味することを、私は告げる。
「ヴィオルは、貴方を守ったのよ」
「ば、馬鹿な……! そんな筈は……!」
「彼はいつでも貴方を追い込めた。たとえ王家がそれを跳ね除けたとしても、義絶を嘆願されたという事実は残り続ける。貴方は確実に、今よりも動き辛くなっていた筈だわ」
「ならば何故……どうしてヴィオルは何も言わなかった!? 処刑される中でも何一つ明かさず……何故、私を守ったのだ!?」
「まだ分からないの!? ヴィオルにとって貴方は家族! たった一人の大切な兄弟だったのよ!? 簡単に差し出せる訳がないじゃない!」
「!?」
「貴方と違って、ヴィオルは誰も恨んでいなかった。そして彼は自分の幸せよりも、家族である貴方達の幸せを選んだ。きっとこれは、それを伝えたかったんだわ……」
ヴィオルも実の兄が命を狙っていると、私との会話を通じて気付いていたのかもしれないわ。
だからこそ伝えたかったのは、自分の思い。
彼は父であるヴァン様も、兄のダルクも憎まなかった。
いえ、そもそも彼が実の父を殺めたなんて知る筈もない。
本当ならその真相を突き止められれば良かったのでしょう。
でも気付いた時には、最早誤解を解ける状況ですらなかった。
自分達を正義だと思っている人々に、どんな事を言っても無意味。
言葉で伝えても、全ては誤魔化しだと切り捨てられる。
だから彼は行動で示したのよ。
未来の私は「今の自分に危険が迫った時」と言っていた。
ヴィオルはダルクが私の存在に気付き、近づく可能性も考えた。
それだけじゃない。
私からこの封書を奪うことすら予見していたのね。
託した本当の理由は、彼に気付かせるため。
これ以上の罪を重ねないでほしいと、伝えるためだった。
でも、こんなのはあんまりよ。
貴方が考えるのは自分のことよりも私達のことばかり。
命を賭けてまで託したものが、たったこれだけなんて。
私は許せなかった。
許せなかったからこそ、ダルクに相対する。
「遺言なんて関係ない。貴方はヴィオルに負けていたのよ。この先、何があったとしても、何を築き上げたとしても。彼が貴方を守ったという事実が、その根底にあるのだから」
「止め……ろ……」
「私の心を塗り潰したいのなら、そうすれば良いわ! でも忘れないで! 貴方は罪を犯した! 法で律する立場にありながら、それに目を背けて! 比べるばかりで狂気に落ちてしまった貴方では、ヴィオルには勝てない! この先、一生……!」
「止めるんだッ!!」
ダルクは、今までの自分を否定されたように感じたのね。
ようやく赤黒い瞳に怒りが宿った。
これが、彼の心の中に巣食っていた本性。
父と弟を殺して歯止めが効かなくなった、理性を上書きする程の狂気。
だからこそダルクは懐から拳銃を抜き、私へ向けた。
押し潰されそうな罪悪感と後悔から目を背けるために。
唐突な眩暈が起き、続いて銃声が鳴った。
撃たれたと思った。
でも恐怖も、痛みもない。
思わず瞑っていた瞼を開くけれど、私の身体には何の異変もなかった。
この近距離で狙いを外したの?
そう思ってもう一度見上げると、ダルクは私の後方を見つめ、信じられないと言いたげな顔をしていた。
「な、何だこれは……!? 嘘だ! 何故お前が生きている!?」
痛みを耐えるように手を抑え、そこから拳銃が零れ落ちる。
発砲したのは彼じゃない。
別の誰かが、ダルクの銃を弾き飛ばしたんだわ。
でも、この場にいるのは私達二人だけの筈。
塔を包囲していた従者の仕業にしても、辻褄が合わない。
一体、誰が――。
何処かで、雑音が聞こえる。
小さな靴音共に背後から別の気配を感じる。
後ろは振り返られなかった。
けれど進み出たその姿を見て、私は目を疑う。
夢でも見ているのかと思った。
だってそこには、ヴェルレーヴェン家の貴族服を身に纏う、赤髪の少年がいたのだから。




