35 決行前談話
それから俺は、防具を外して服も脱いでいく。いくら『水中歩行』の技能で水の抵抗を受けなくないといえども、金属や、水を吸い込んだ服はどうしても重荷となってしまう。出来る限り身体を軽くしておきたかった。
どのみちあの巨大魚の攻撃を一発でも喰らうような事になれば、どんな防具を着けていても無意味だろう。幸い迷宮の中は寒いという訳ではなかったので、凍えずには済んだ。
「直前まで、傍にいても良いでしょうか?」
服を脱ぐ俺に、ノーレさんは聞いた。
「ええ、1人だと少し不安ですし、居てくれた方が助かります」
俺が頷くと、彼女は水面に膝を抱え、ちょこんと座った。
「こうしてニンゲンと、いえ、誰かと会話をするのは本当に久々の事なので嬉しいです。他の精霊達がいなくなってからは、魔物や魚達の会話をただ聞くだけでしたから」
彼らは私の言葉を理解する事は出来ませんから。
そう彼女は付け加える。
「精霊達……そういえばノーレさんの契約者には、他にも精霊がいたんですよね」
「はい。彼女は私を含め、7柱の精霊達と契約をしていました」
「7柱? そんなに多くですか」
俺は肌に張り付く上着を脱ぎながら驚いた。
「はい。私の知っている精霊遣いの中でも、彼女は精霊達に好かれやすい匂いのするニンゲンでしたから。私が今までに会った中で、一番多かった精霊遣いは12柱と契約していました」
「でも、それだと、食費が凄い事になっていたんじゃないですか?」
「……『食費』?」
ノーレさんはきょとんとした表情で小首を傾げた。
「どういう事でしょう?」
「ああ、いえ。……なんでもないです」
と俺は返す。
(……やはり俺の契約精霊は特殊な例なんだろうか)
他の精霊遣いに会った事も、精霊を見たという経験も無いものの、『食事をとる』精霊などは聞いた事はない。きっとアルカさんは特殊なのだろう。
「ならノーレさんだけじゃなくて、他の精霊達も、この水底に沈んでいるという事でしょうか?」
「いえ、彼女達は今はもういません」
そう言って彼女は首を横に振る。
「いない?」
「はい。私以外の精霊達は皆『小精霊』でしたから。皆この水底に落ちてから50年もしない内に、寿命を迎えて消滅してしまいました」
「『小精霊』……」
確か、文字通り普通の精霊よりも小さな精霊。だったハズだ。
『精霊』が剣や弓と言った物に姿を変えるように、『小精霊』は、装飾具といった小物にその姿を変える。
噂ではヒトの姿になっても、人間の掌くらいの大きさにしかならないのだとか。精霊よりもその数は多く、力こそ格段に落ちるものの、他の精霊達より人間に懐きやすいという性質を持っている。寿命は精霊と違い、人間とほとんど同じくらいしかない……だっただろうか。
「……すみません、変な事を聞きました」
「気にする事はありません。それが時間という物ですし、契約者を護れなかった私への罰でもありますから」
ノーレさんはそう答えたが、しかしそう言った瞬間、彼女の表情がはっきりと曇ったのがわかる。
先程からずっと彼女から感じていた『陰り』の正体は、以前の所有者を護れなかったという罪悪感から来る物なのだろうか。
「……」
服を脱ぎ終えた後、俺はバックパックの中を覗き、何か使える物はないかと考える。
鞄の中の物は、水に濡れたせいでほとんどの物が駄目になっていた。煙玉や即時回復薬も、これではもう使えそうにない。
今朝定食屋で買った『握り飯』も、完全に水でふやけてしまっていた。
腹は減っていたが、これは流石に食べられはしないだろう。といっても、このような状況では上手く喉を通るとも思えないのだけれども。
(あの魚、米は食べるのだろうか……)
試しに米粒を水面に落としてみたところ、すぐに小さな魚達が寄ってきて、それを啄ばんでいった。
この調子で、なんとか『ヌシ』の気も引けないものかと考える。あの巨体が満足する量とは到底思えないものの、それでもアルカさんが食べる事を想定して少し多めに買っていたのだ。一つの塊にすれば、ある程度の大きさにはなるだろう。少しでも気を惹くことが出来れば、時間稼ぎくらいにはなってくれるだろう。
子供じみた考えかもしれないが、それでも可能性があるのであればやりたいところだ。今は藁にもすがりたい思いなのだ。
「……ん?」
握り飯を手にそんな事を考えていると、ふと強い視線を感じた。
見るとノーレさんが、じい、と俺の手元にある握り飯見ていた。
「流石にこれは食べられないと思いますよ」
「……リュシアンは、とても面白い事を言いますね」
俺の返答に、ノーレさんは少しだけ目を丸くしながら答えた。
「精霊は貴方達ニンゲンとは違い、食事をとる必要はありません。それなのに何故食べるかどうかなどを尋ねるのですか?」
「……ああ、ですよね。それが普通の反応なんですよね」
そう俺は返して、少しだけ妙な安心を覚えてしまう。
どうにも特殊例のせいで、握り飯を見る彼女が、腹を空かせているかのように見えてしまったのだ。
「……普通の?」
「ああいえ、大した事ではないんですけど……。俺の契約精霊は少し特殊みたいで、『食事』をするんです。人間の食べ物を人間と同じように、いや、人間以上によく食べます」
小首を傾げる彼女に対して、俺は答えた。手元にあるふやけた握り飯を固めて大きくしながら。
「……精霊が、食事をするのですか?」
ノーレさんは信じられないと言う風に聞く。どうやらその話題に喰いついてくれたようだ。彼女が元契約者の話をして以来、少し沈んでいるように見えていたので、少しだけ安心する。
「ええ、俺も信じられませんでした。本人曰く、興味が沸いて自分でも食べてみたら、こんな素晴らしい物が世界にはあったのかと思ったと言っていました。本当によく食べます。ノーレさんと同じくらいの大きさなんですけど、どこに入るんだろうってくらい、いっぱい食べます。お陰で食費が凄い事になってます」
「……なるほど、だから先程『食費』の事を口にしたのですね」
「そういう事です」
「なるほど。しかし、精霊が食事を……ですか」
ノーレさんはそれでも信じられなかったのか、そう呟いた。
「成程。以前からどうしてニンゲンや魚は食べなければいけないのか気にはなってはいましたが、自分自身が食べようとは思いませんでした。今は霊体故に食べる事は出来ませんが、ニンゲンと契約をすれば実体化をする事でしょう。そうなれば、私も『食事』が出来ると思います。……少し、興味が沸いてきました。これはなんとしても、リュシアンにここから連れ出して貰わなければなりませんね」
「ええ、そうですね。あまり食費の負担にならない程度でなら、こちらも用意出来ると思いますから」
そう言って、俺は苦笑いをする。どの道アルカさんが食べるのだから、ノーレさんには食べさせない、という訳にもいかないだろう。
それから、俺は魔力を遣い、固めた『握り飯』を宙に浮かばせる。
『初級風魔法』の応用だ。流石に人間レベルの重量を浮かばせる事は遠く及ばないものの、レベルが48に上がった今の俺のINTであれば、ふらふらと不安定ながらも、なんとか浮かばせる事は出来た。
「……」
と言っても、少しでも集中力が途切れるような事があれば、即その場に落ちてしまう事だろう。俺は風を操る事に全神経を集中させながら、出来る限り高く、遠くへと米の塊を運んでいく。
やがて、肉眼で確認できるか出来ないかの距離まで離れたそれは、俺の集中力が途切れた事によって浮遊し続ける力を失い、大きな音と共に水の中に落ちた。
水面下に蠢く大きな影が、その巨体を音の方向へと向けた。
俺はそれを確認するなり、『ヌシ』に気付かれないよう慎重に、かつ急いで水中へと入っていく。
「行きますか?」
とノーレさんが聞く。
「はい」と俺は返す。