第91話 獅吼・一閃
右手を柄へ添えたまま、目の前の魔族を見据える。
最初の抜刀は、黒い鱗に覆われた腕で止められた。
刃は鱗へ食い込み、傷をつけている。
刀の切れ味が足りなかったわけではない。
足りなかったのは、俺の方だ。
『どうするの?』
「出力を上げる」
これまで魔力円環へ流していたのは、押し寄せる魔物やレッサーデーモンを相手にするための出力だった。
目の前の魔族にも、それで足りると思っていた。
だが、一度合わせたことで分かった。
同じ出力では、こいつの鱗を斬り抜けない。
体内を巡る魔力の量を増やす。
足から腰へ。
腰から背を通り、肩と腕へ。
円環を崩さないよう、少しずつ出力を引き上げていく。
魔力の流れが太くなり、身体の奥から熱が広がった。
魔族が赤い目を細める。
「まだ力を残していたか」
「少しな」
「少し、か」
魔族は傷のついた腕を下ろすと、俺へ向き直った。
「先ほどの一太刀への返礼だ。強者へ名を告げず刃を交えるのは、我らとて無作法」
先ほどまでの嘲るような笑みが消える。
魔族は右手を胸元へ添え、姿勢を正した。
「男爵級上位――《ブラックポーン》、ザルガン」
名乗ったあと、その赤い目が俺を捉える。
「人間。お前の名を聞こう」
「レグルス・クレハルトだ」
「レグルス・クレハルト」
ザルガンは確かめるように俺の名を口にした。
「覚えておこう」
「そうか」
「私を前に名乗ったことを、後悔するなよ」
ザルガンが地面を蹴る。
先ほどと同じ踏み込み。
だが、今度はその姿を見失わなかった。
意識上の円が、ザルガンの位置を捉えている。
右腕を覆う黒い鱗。
振り下ろされる爪。
狙っているのは、俺の頭部だ。
半歩だけ内側へ踏み込む。
「何?」
爪が頭上を通り過ぎた。
ザルガンの懐へ入り、胸の中心へ掌を当てる。
体内の魔力円環から力を送り、腰を回した。
掌底を打ち込む。
鈍い音とともに、ザルガンの身体が後方へ吹き飛んだ。
地面を何度も跳ね、砕けた木柵へ背中から衝突する。
だが、倒れない。
ザルガンは木片を払いながら立ち上がった。
口元から黒い血が流れている。
「貴様……」
先ほどまで浮かんでいた余裕が、その顔から消えていた。
「出力を上げただけだ」
「これが、少しか」
「ああ」
ザルガンの魔力が膨れ上がる。
両腕だけを覆っていた黒い鱗が肩まで広がり、指先から伸びた爪がさらに長くなる。
「ならば、その余裕ごと引き裂いてやる!」
ザルガンが再び踏み込んだ。
右の爪をかわす。
続いて振るわれた左腕を、鞘で外側へ弾く。
体勢が開いた。
右手へ力を込め、刀を抜く。
黒い刃が、ザルガンの右肩から胸元へ走った。
「ぐっ……!」
黒い鱗が裂け、その下から血が噴き出す。
振り抜かず、そのまま刃を返す。
追撃を警戒したザルガンが両腕を上げた時には、刀を鞘へ収めていた。
「また、しまうか!」
「抜いたままにしておく理由がないと言っただろ」
「ふざけるな!」
ザルガンが腕を振り下ろす。
身体を横へずらし、爪をかわす。
地面へ突き刺さった腕を踏み台にして跳び、ザルガンの側頭部へ蹴りを叩き込んだ。
巨体が傾く。
着地と同時に腰を落とし、柄へ手を添える。
ザルガンがこちらへ顔を向けるより早く、二度目の抜刀を放った。
刃が脇腹を斬り抜ける。
再び黒い血が飛び散った。
すれ違いながら納刀する。
鍔が鞘口へ触れた瞬間、掌へ脈動が伝わった。
先ほどよりも強い。
刀が、抜刀のたびに流し込んだ魔力を取り込んでいる。
それでも、こちらの力を止める様子はない。
『出力を上げても、問題はなさそうね』
「ああ」
刀の方には、まだ余裕がある。
どこまで流せるのかは分からないが、少なくとも今の出力で壊れることはなさそうだった。
ザルガンが脇腹を押さえながら振り返る。
「誰と話している」
「気にするな」
「戦いの最中に、私から意識を逸らすか!」
ザルガンが大きく腕を広げた。
その身体からあふれた魔力が、黒い靄となって周囲へ広がっていく。
視界が暗くなる。
意識上の円へ、いくつもの気配が現れた。
黒い靄の中をザルガンの魔力が流れ、本体の位置を隠そうとしている。
『見える?』
「姿は見えない」
『円は?』
「捉えてる」
左後方。
振り返らず、鞘を持ち上げる。
黒い靄の中から伸びてきた爪を、鞘が受け止めた。
衝撃を受け流しながら身体を回し、ザルガンの腕を脇へ挟み込む。
腰を落とす。
踏み出していた足を払い、腕を引いた。
ザルガンの身体が宙を舞う。
「なっ――」
背中から地面へ叩きつける。
魔力円環から右足へ力を送り、その胸元を踏み抜いた。
地面が陥没する。
ザルガンの口から黒い血があふれた。
それでも爪を振り上げてくる。
足を引き、振るわれた爪をかわす。
そのまま後ろへ下がり、間合いを取った。
黒い靄が薄れていく。
ザルガンは地面へ片膝をつきながら、何度も咳き込んでいた。
胸元の鱗は砕け、その下が大きく陥没している。
肩と脇腹の傷からも血が流れ続けていた。
すでに、人間なら戦い続けられる傷ではない。
それでもザルガンは立ち上がる。
「まだやるのか」
「当然だ……」
傷口の周囲へ魔力が集まっていく。
裂けた肉が完全に塞がることはないが、流れ出ていた血が少しずつ止まっていく。
「男爵級上位を……人間一人で、ここまで……」
ザルガンの声には、もう余裕が残っていなかった。
俺の方には、まだ派生技がある。
体術と属性を組み合わせた技を使えば、今のザルガンを倒すことは難しくない。
だが、右手は柄から離さなかった。
ここまでの攻撃で分かった。
ザルガンは速い。
鱗も硬く、魔族としての生命力も高い。
それでも、今の俺が制御できない相手ではない。
意識上の円で間合いを測り、抜刀だけを繰り返す。
未完成の一振りを試す相手として、これ以上ない。
後方では、年長の冒険者たちが押し寄せる魔物を食い止めている。
「こっちは任せろ! そいつを通すな!」
「分かりました!」
少なくとも今は、ザルガンだけへ集中できる。
ザルガンが腕で口元の血を拭う。
「なぜ全力を出さない」
「分かるのか」
「先ほどから同じ抜刀ばかり繰り返している。ほかに力がないとは思えぬ」
その声に、先ほどまでの余裕はなかった。
「この私を侮っているのか?」
「試したいことがある」
「試す、だと?」
「ある技を完成させたい」
右手を柄へ添え、静かに腰を落とす。
「お前には、それまで付き合ってもらう」
「この私を、技を磨くための踏み台にするつもりか」
「そうなるな」
一瞬、ザルガンから表情が消えた。
直後、これまでとは比較にならない魔力があふれ出す。
「人間風情が――!」
地面が震え、周囲の土が浮き上がった。
黒い鱗がザルガンの全身へ広がっていく。
胸元の傷を覆い、首から頬、額の角にまで達する。
「男爵級上位たる私を、踏み台だと!」
ザルガンが踏み込む。
意識上の円が、その動きを捉えた。
速い。
先ほどまでより、さらに一段速くなっている。
それでも、円の内側から消えたわけではない。
爪が届く瞬間を測り、抜刀する。
刃と黒い鱗が衝突した。
ザルガンの首を狙った一閃は、持ち上げられた腕に止められる。
鱗を深く斬り裂いたが、その奥まで届かない。
ザルガンの膝が腹部へ迫る。
鞘を差し込み、受け止めた。
衝撃で身体が浮き上がる。
着地と同時に円環の出力を上げ、地面を蹴る。
ザルガンの懐へ戻り、刀を横へ走らせた。
今度は反対側の腕で防がれる。
斬ることはできている。
だが、狙った場所へ届く前に防がれていた。
刀を鞘へ戻し、間合いを取り直す。
『レグルス』
声とともに、視界の左端へ淡い光が現れた。
左肩の少し上。
小人ほどの大きさをしたセレスの幻影が宙に浮かんでいる。
周囲の者には見えていない。
俺の意識へ映し出された姿だ。
『出力は、もう十分よ』
「だが、届かない」
『相手は刀を見ているんじゃないわ。あなたが抜く前の動きを見ているの』
ザルガンへ目を向けたまま、セレスの声を聞く。
『今のあなたは、抜刀する瞬間に円環から力を押し出している。だから最初の動きが相手に伝わるのよ』
「なら、もっと速くする」
『身体を速くするんじゃないわ』
セレスが首を横へ振る。
『《速》で初動を引き上げても、その一歩が早くなるだけ。あなたが完成させようとしているものは、それとは違うでしょう?』
ザルガンが再び踏み込んでくる。
円の境界を越えた瞬間、地面を踏む。
体内の円環から力を引き出し、刀を抜いた。
だが、ザルガンの腕が先に動く。
刃は再び黒い鱗へ食い込み、止められた。
蹴りをかわし、後方へ下がる。
『今のも同じよ。円環を使って身体を速くしただけ』
「どうすればいい」
『回すのよ』
「回す?」
『今の円環は、魔力を全身へ巡らせているだけ。そこへさらに力を加えても、流れる量が増えるだけよ』
セレスが俺の胸元を指さす。
『円環そのものを加速させるの。輪が回るように、止めずに何度も。回るたびに速さを増していく』
体内を巡る魔力へ意識を向ける。
足から腰へ。
腰から背を通り、肩と腕へ。
腕から再び体内へ戻り、足へつなげる。
これまでは、必要な場所へ必要な量を送るために巡らせていた。
そうではない。
流れを止めず、回し続ける。
一周。
二周。
同じ量の魔力が、体内を巡るたびに速度を増していく。
『外の円も忘れないで』
意識上の円には、ザルガンの位置が映っている。
『外の円で相手との距離を測る。内側の円環は、動く瞬間まで加速させ続ける』
「二つをつなげるのか」
『ええ。どちらも、あなたが作った円でしょう?』
意識上の円と、体内の魔力円環。
これまでは別のものとして扱っていた。
一つは相手を測るため。
もう一つは身体を強化するため。
だが、二つとも俺を中心とした円だ。
『相手が外の円へ入り、あなたの間合いへ届く瞬間。その一点で、内側の円環を開くの』
ザルガンが吠える。
「何をしている!」
全身を覆う鱗から黒い魔力を噴き出し、一直線に迫ってくる。
意識上の円で距離を測る。
まだ遠い。
体内の魔力円環を回す。
一周。
二周。
三周。
速度が上がる。
巡る魔力が一本の流れへ重なっていく。
ザルガンが一歩踏み込む。
まだだ。
円環を回す。
身体を速くしようとはしない。
足も、腰も、肩も動かさない。
加速しているのは、体内を巡る魔力だけだ。
ザルガンが二歩目を踏み込む。
意識上の円の境界へ触れた。
右腕が振り上げられる。
黒い爪が俺の首を狙っている。
まだ届かない。
体内を巡る魔力が、さらに加速する。
一周ごとの区別が消え、一つの唸りとなった。
黒鞘の中から、刀の脈動が伝わってくる。
俺の魔力を吸いながら、同じ速さで鼓動している。
ザルガンが三歩目を踏み込んだ。
円の内側へ入る。
今だ。
加速させ続けた魔力円環を、一点へ開放する。
地面を踏む。
力が足へ伝わる。
足から腰へ。腰から肩へ。肩から腕へ。
それぞれを別々に動かすのではない。
地面から刃までを、一つの円としてつなげる。
加速した魔力円環が、俺の身体を動かした。
刀を抜いたという感覚すらなかった。
視界の中で、ザルガンの姿だけが横へ流れる。
次の瞬間には、俺はその背後へ立っていた。
黒い刃を返し、鞘へ収める。
鍔が鞘口へ触れた。
その音に遅れて、ザルガンの爪が空を切る。
「何……を……」
ザルガンが振り返ろうとする。
だが、身体は動かなかった。
胸元から脇腹へ、一本の線が走る。
全身を覆っていた黒い鱗がずれ、その下から大量の血が噴き出した。
深く斬り裂かれた胴が、ゆっくりと上下へ分かれていく。
ザルガンの上半身が地面へ落ちた。
赤い目が、それでも俺を見ている。
「見事……だ……レグルス・クレハルト……」
その言葉を最後に、赤い光が消えた。
体内を巡っていた魔力円環を、ゆっくりと通常の速度へ戻す。
急激に止めれば、身体の内側へ負担が返ってくる。
流れを保ったまま速度だけを落としていく。
左肩の近くに浮かぶセレスが、小さく息を吐いた。
『完成ね』
「ああ」
黒鞘へ触れる。
刀から、これまでで最も強い脈動が返ってきた。
加速した魔力を受け止め、その一部をまた自らの内側へ取り込んでいる。
属性は使っていない。
《速》で身体を引き上げたわけでもない。
意識上の円で間合いを測り、体内の魔力円環を加速させる。
地面から足、腰、肩、腕へと力をつなぎ、抜刀の一点へ解放する。
その一振りに、ようやく形が与えられた。
秘奥義――《壱之太刀/獅吼・一閃》。
振り返ると、亀裂は細い線ほどにまで閉じかけていた。
それでも、周囲にはまだ魔物が残っている。
「レグルス! 終わったのか!」
年長の冒険者の声が聞こえる。
「はい!」
ザルガンの死体から目を離し、残っている魔物へ向き直った。
「すぐに行きます!」
技は完成した。
だが、俺の役目はまだ終わっていなかった。




