第89話 封鎖前夜
「……見えませんでした」
セフィリアは、地面に倒れたレッサーデーモンと、俺の腰に収まった黒鞘を交互に見ていた。
「見逃さないと言っていたな」
「見ていたつもりなのですが、気づいた時には終わっていました」
悔しそうに言いながら、セフィリアは黒鞘へ視線を戻す。
「もう一度、刀を見せていただくことはできますか?」
「今はやめておいた方がいい。まだ戦場だからな」
「戦いが終われば、見せてもらえるのですか?」
期待を隠しきれない視線を向けられ、少しだけ考える。
刀は見せるためのものではない。
だが、最初に会った時から変わらず興味を持っているセフィリアへ、断り続ける理由もなかった。
「依頼が終わったら見せる」
「本当ですか?」
「ああ」
セフィリアの表情が明るくなる。
そのまま何かを言いかけたが、少しためらったあとで口を開いた。
「それと、レグルスさん」
「何だ?」
「先ほどから、少し話し方が固くありませんか?」
「そうか?」
「はい。言葉遣いというより、距離を置かれているような気がします」
俺に、そのつもりはなかった。
ただ、相手は勇者だ。王国によって認定され、魔族との戦いを任されている者。
冒険者の一人として接するなら、一定の距離を保つのが当然だと思っていた。
「私たち、同じくらいの年ですよね。勇者だからといって、そこまで身構えなくても……もう少し普通に話してもらえませんか?」
「勇者に対して、普通にか?」
「今は、勇者ではなくセフィリアとして話しているつもりです」
セフィリアは少し困ったように笑う。
「ですから、勇者ではなくセフィリアと呼んでください」
一度だけ瞬きをした。
本人が望んでいるのなら、断る理由はない。
「分かった。これでいいか、セフィリア」
「はい。その方が話しやすいです」
「お前の方は、まだ固い気がするけどな」
「これは……元からです」
セフィリアがわずかに頬を膨らませる。
先ほどまで勇者として戦っていた姿よりも、今の方が年相応に見えた。
「セフィリア。話はあとだ」
低く落ち着いた声が、俺たちの会話を止める。
王国騎士団長ブラノールが、二人の従騎士を連れて西側の防衛線へ来ていた。
その視線が、地面に転がるレッサーデーモンの死体へ向けられる。
「これを斬ったのは君か」
「はい」
「名は?」
「レグルス・クレハルトです」
「クレハルト……」
俺の家名を聞いたブラノールが、わずかに反応した。
だが、それ以上尋ねることはなく、周囲の防壁と負傷者の数を確認する。
「西側で拠点内まで侵入した魔物はいるか?」
「いません」
答えたのは、先ほど周囲へ指示を出していた年長の冒険者だった。
「こいつがほとんど止めました。俺たちは横へ流れた魔物を相手にしただけです」
「そうか」
ブラノールが改めて俺を見る。
「見事だった。だが、次も同じ規模とは限らない」
「分かっています」
俺の返事を聞いたブラノールは頷き、その場を離れようとした。
だが、数歩進んだところで足を止め、腰にある黒鞘へ視線を戻す。
「それと――いい刀だな」
ブラノールは眼帯の下で左目を細め、黒鞘の奥を探るように見据えた。
布で覆われているはずの目から、刀の内側まで覗かれているような感覚が伝わってくる。
「私の目をもってしても、その本質までは見通せない。大切にするといい」
「はい」
短く答える。
ブラノールはもう一度頷き、防衛線の確認へ戻ろうとした。
その時、従騎士の一人が胸元の通信術式へ手を当てる。
「団長。亀裂の測定が終了しました」
「結果は」
「先ほどの拡大によって、周囲から吸収する魔素の量が増えています。現在は縮小していますが、安定したわけではありません」
「明日の昼まで保つか?」
「保証できません。次に同規模の変動が起これば、さらに大きな個体が通過できる可能性があります」
ブラノールの表情が険しくなる。
亀裂へ視線を向けたまま、短く考える。
「セフィリア。今すぐ封鎖を始められるか?」
「できないことはありません。ただ、先ほど使った分の魔力を戻さないまま始めれば、封鎖に時間がかかります」
「防衛線の修復も必要です」
もう一人の従騎士が続ける。
「負傷者の移送も終わっていません。夜間に再び魔物が出れば、対応が遅れる恐れがあります」
「分かった」
ブラノールが結論を出す。
「封鎖を明日の昼から日の出へ繰り上げる。それまでに防壁を修復し、負傷者を後方へ移せ。冒険者と帝国兵にも伝えろ」
「はい」
二人の従騎士が、それぞれ別方向へ走り出した。
日の出。
亀裂を閉じるまでに残された時間は、半日もなかった。
日が傾く頃には、壊れた木柵の交換と負傷者の移送が終わっていた。
戦場に残された魔物の死体は一か所へ集められ、魔族の死体だけが調査のために別の天幕へ運ばれている。
俺たち冒険者と帝国兵は、臨時拠点の中央へ集められた。
地面に広げられた簡素な地図の前に、ブラノールが立つ。
その隣にはセフィリアと、二人の従騎士が控えていた。
「明日、日の出と同時に亀裂の封鎖を開始する」
周囲へざわめきが広がる。
ブラノールが片手を上げると、声はすぐに収まった。
「封鎖を行うのは勇者セフィリアだ。ただし、封鎖中は亀裂へ力を注ぎ続けなければならない。その間、セフィリアはその場から動けず、ほかの戦闘にも力を使えない」
ブラノールの指が、地図上の亀裂からその周囲へ滑っていく。
「私と王国騎士がセフィリアの周囲を守る。帝国兵は正面の防壁を維持。冒険者は東西へ分かれ、回り込む魔物を止めてもらう」
一人の冒険者が手を上げる。
「封鎖には、どれくらいかかるんです?」
「亀裂の抵抗次第だ。短ければ数分。長ければ、その倍以上かかる」
ただ待つだけなら短い。
魔物や魔族が押し寄せる中で耐えるには、あまりにも長い時間だった。
「もう一つ」
ブラノールの声が低くなる。
「確認されていた魔族は、先ほど倒されたレッサーデーモンだけとは限らない。亀裂から出てくる敵だけでなく、すでに周辺へ潜伏しているものにも注意しろ」
地図へ目を向ける。
今日、レッサーデーモンが狙ったのは西側だった。正面を避け、防衛の薄い場所から拠点内部へ入ろうとしていた。
偶然とは思えない。
「レグルス・クレハルト」
「はい」
「君は今日と同じ西側を担当してもらう。中央で何が起きても、君の役目は西側を通さないことだ」
「了解しました」
亀裂へ近づくのは、勇者と王国騎士。
俺は防衛に加わる冒険者の一人。
最初から、それ以上の役目を求められてはいない。
ブラノールが全員を見回す。
「封鎖が終わるまで持ち場を離れるな。それぞれの役目を果たせ。以上だ」
作戦説明が終わり、兵士と冒険者たちが散っていく。
俺も西側の防壁を確認しようとしたが、後ろからセフィリアに呼び止められた。
「レグルスさん」
「どうした?」
振り返ると、名前で呼んだことが嬉しかったのか、セフィリアが少し笑っていた。
「先ほどの戦いについて、聞いてもいいですか?」
「俺に答えられることならな」
「刀を使わずに戦っていましたよね。あの体術も、以前から使えたのですか?」
「帝国で覚えた」
「どうして体術を?」
「刀が折れたからな」
腰の黒鞘へ手を添える。
「武器が手元にないだけで戦えなくなるのは困る。だから、何も持っていなくても戦えるようにした」
「何も持っていなくても……」
セフィリアは自分の右手を見る。
先ほど魔力の槍を作り出した手だ。
「私は勇者の力を使えます。でも、明日の封鎖中は、それを戦いに使えません」
「不安か?」
「少しだけ」
勇者として皆の前に立っている時には見せなかった表情だった。
セフィリアは亀裂へ視線を向ける。
「封鎖へ集中している間に何が起きても、私は自分で戦えません。皆さんに守ってもらうしかないんです」
「それでいいだろ」
俺の答えに、セフィリアが振り返る。
「亀裂を閉じるのはセフィリアの役目だ。その間を守るのが俺たちの役目だろ。全部を一人でやる必要はない」
「そういうものなのでしょうか」
「少なくとも、俺はそのためにここへ呼ばれた」
西側の防壁へ目を向ける。
「だから、セフィリアは亀裂を閉じることだけ考えていればいい」
セフィリアは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「では、頼りにしています」
「ああ。任せろ」
「今の話し方は、ずっと柔らかかったです」
「話の途中で確認することか?」
「大切なことです」
先ほどまで浮かんでいた不安が、セフィリアの表情から少しだけ消えていた。
夜。
見張りのために焚かれた火が、一定の間隔で防衛線を照らしている。
西側の天幕近くに腰を下ろし、新しい刀を鞘から抜いた。
布で刀身に残った黒い血を拭い、刃を確かめる。
レッサーデーモンを斬ったにもかかわらず、刃こぼれも曇りもない。
斬った瞬間に腕へ返ってきた衝撃も、ほとんど残っていなかった。
『初めて使ってみて、どうだった?』
セレスの声が意識へ届く。
「悪くない」
『それだけ?』
「前の刀とは違う。俺の力を途中で止めなかった」
刃へ魔力を流す。
抵抗なく刀身全体へ広がった魔力は、手元へ戻ることなく、その奥へ吸い込まれていった。
次の瞬間、柄を握る掌へ、脈を打つような微かな震えが伝わる。
硬い鋼が震えたのではない。
刀が与えた魔力を糧として取り込み、その内側で自らを育てている。
そう思わせる、生きた鼓動だった。
「これなら、《壱之太刀》にも耐えられるかもしれない」
『刀は、でしょう?』
答えず、刃に映る自分の目を見る。
意識上の円で相手との距離を測る。
体内の魔力円環で全身を強化する。
どちらも以前より精度は上がっていた。
だが、二つはまだ別々に存在している。
未完成の一閃を、確実に再現できるところまでは届いていない。
『刀は整ったわ。でも、あなたの一振りはまだ完成していない』
「分かってる」
刀を黒鞘へ収める。
答えが見つからないまま無理に振れば、また同じ失敗を繰り返す。
今は明日の防衛へ備えるべきだった。
立ち上がろうとした時、林の方から視線を感じた。
反射的に顔を上げる。
焚き火の光が届かない木々の間には、暗闇が広がっている。
意識上の円を伸ばしても、その中へ入ってくるものはない。
『どうしたの?』
「誰かに見られていた気がした」
『帝国兵の見張りではなくて?』
「分からない」
しばらく林を見つめたが、枝が風に揺れる音しか聞こえない。
それでも、背中に残った感覚は消えなかった。
日の出を待っているのは、俺たちだけではない。
そんな気がした。




