第1話 落ちこぼれの居場所
ベルグラードの朝は、時計塔の鐘から始まる。
街の中央に建つ石造りの時計塔が、午前七時を告げる鐘を鳴らした。
澄んだ音が、赤茶色の屋根が並ぶ街並みに広がっていく。
ベルグラードは王都から遠く離れた地方都市だ。
人口はおよそ三万人。
大都市と呼ぶには小さく、村と呼ぶには大きすぎる。
街の周囲には農地が広がり、そのさらに外側には魔物の出る森がある。
城壁はある。
だが王都のように巨大ではない。
大通りには魔導灯が並び、酒場や宿屋には魔導コンロや魔導冷蔵庫が置かれている。
けれど、それらはまだ高価な設備だ。
一般家庭では薪や炭、それから簡単な生活魔法を使って暮らしている。
古い石畳。
木製の看板。
朝市の声。
馬車の音。
魔導文明の便利さと、昔ながらの生活が混ざった街。
それがベルグラードだった。
そして俺――レグルス・クレハルトにとっては、逃げ込んだ場所でもある。
「勇者様だ!」
誰かの声が広場に響いた。
朝市へ向かう途中だった俺は、思わず足を止めた。
広場の方へ人が集まっている。
パン屋の店主。
野菜売りの女。
学校へ向かう子供たち。
仕事前の職人。
冒険者らしき男たちまで、皆が同じ方向を見ていた。
「勇者様がベルグラードに来たぞ!」
「魔王討伐の旅の途中らしい!」
「まだ若い女の子だってよ!」
勇者。
魔王や魔族に対応するため、王国が管理する特別な存在。
実力だけで言えば、今はまだ高ランク冒険者に届かないらしい。
だが勇者には、勇者にしかできない役割がある。
魔王軍への対応、魔族との交戦。
国が抱える対魔王戦力。
だから勇者は冒険者ギルドには所属しない。
国の管理下に置かれる。
まあ、俺にはあまり関係がない話だ。
魔王も勇者も、遠い世界の出来事。
俺はまだ、冒険者にすらなれていない。
「レグルス!」
背後から声がした。
振り返ると、マルクが手を振りながら駆けてきた。
年は俺より一つ上。
ベルグラード冒険者ギルド所属のFランク冒険者。
人が良くて、声が大きくて、余計なことをよく言う。
「お前、勇者様見に行かないのか?」
「人が多い」
「理由が弱い」
「十分だろ」
「勇者だぞ? 今代勇者エリシア様だぞ?」
「様付けするほど知り合いなのか?」
「知り合いじゃないから様付けするんだよ」
「面倒くさいな」
俺がそう言うと、マルクは呆れた顔をした。
「お前さ、もう少し世間に興味持てよ」
「持ってる」
「勇者に興味ない奴が?」
「勇者に興味がないだけだ」
「それを世間に興味がないって言うんだよ」
言い返そうとしたが、少し面倒になってやめた。
広場の人垣の向こうに、白銀の外套が見えた。
腰には細身の剣。
淡い金髪。
青い瞳。
年齢は俺と同じくらいだろう。
十六か、十七。
その少女が今代勇者、エリシア。
人々に囲まれながらも、丁寧に頭を下げていた。
思っていたより普通だった。
もっと神々しい存在かと思っていた。
いや、見た目は確かに整っている。
服装も立ち姿も、そこらの冒険者とは違う。
けれど、笑顔の奥に疲れが見える。
「大変そうだな」
俺が呟くと、マルクが眉を上げた。
「感想それ?」
「他にあるか?」
「綺麗とか、すごいとか、勇者様だとか」
「綺麗で、すごくて、勇者様なんだろ」
「雑だな」
「見れば分かることを言っても仕方ない」
その時だった。
エリシアの視線がこちらへ向いた。
正確には、俺の腰へ。
俺の腰には一本の打刀がある。
派手な刀ではない、名刀でもない。
クレハルト家お抱えの鍛冶師が打った、ごく普通の刀だ。
ただ、この西方では刀そのものが珍しい。
騎士剣や槍、大剣が主流のこの地域で、打刀を差している者はほとんどいない。
エリシアが人垣を抜けて、こちらへ歩いてきた。
周囲がざわめく。
「え?」
マルクが固まった。
「おい、レグルス」
「何だ」
「勇者様、こっち来てないか?」
「来てるな」
「何でそんな冷静なんだよ」
「俺が聞きたい」
エリシアは俺の前で足を止めた。
近くで見ると、本当に同世代に見えた。
ただ、その目だけは違う。
真面目で、強くて、少しだけ無理をしている目だった。
そしてその目が、急に輝いた。
「その刀、本物ですか?」
第一声がそれだった。
「……多分」
「多分?」
「偽物の刀を持ったことがないから分からない」
「たしかに!」
なぜか納得された。
エリシアは身を乗り出す。
「東方式の打刀ですよね? 反りが浅めで、拵えも西方風に少し混ざっていますけど、鍔の意匠は東方系で……」
「詳しいな」
「好きなんです!」
即答だった。
勇者というより、珍しいものを見つけた子供のような顔だった。
「東方文化に憧れていて。黒髪も珍しいですよね。もしかして東方の方ですか?」
「違う」
「違うんですか?」
「先祖は東方らしいけど、俺は西方生まれだ」
「なるほど! 混血文化ですね!」
「言い方が学者っぽいな」
「本で読みました!」
マルクが横で口を半開きにしている。
「レグルス、お前、勇者様と普通に話してるぞ」
「話しかけられたからな」
「普通もっと緊張するだろ」
「緊張したら強くなれるのか?」
「ならないけどさ」
エリシアが少し笑った。
「面白い方ですね」
「よく面倒くさいとは言われる」
「自覚があるんですね」
「ある」
「それは良いことです」
褒められた気がしない。
エリシアは改めて俺の刀を見た。
「抜いて見せていただくことはできますか?」
「無理」
「ですよね。すみません」
素直に下がる。
意外だった。
もっと勇者らしく、何でも許されると思っているのかと思った。
「刀は扱いが難しいと聞きます」
「難しいな」
俺は腰の刀に手を置いた。
「重心も違う。刃筋も狂いやすい。騎士剣みたいに雑には振れない。手入れも必要だ。俺も全然使いこなせてない」
「でも使うんですね」
「まあな」
「どうしてですか?」
痛いところを突く。
俺は少し黙った。
どうしてか。
理由はいくつかある。
父が刀を使うから。
祖父が刀だけで頂点に立った人だから。
クレハルト家の血に、東方の刀術が残っているから。
でも、一番近い答えはたぶん。
「憧れたからだ」
そう言うと、エリシアは静かに目を細めた。
「いいですね」
「そうか?」
「はい。憧れで道を選ぶのは、きっと悪いことじゃありません」
勇者にそう言われると、少し返事に困る。
俺は視線を逸らした。
「ただ、向いてないけどな」
「向いてない?」
「冒険者試験に落ち続けてる」
「え」
「レベルも三だ」
「えっと……」
エリシアが本気で困った顔をした。
マルクが横で吹き出す。
「正直すぎるだろ、お前」
「嘘ついても強くならない」
「そういう問題じゃないだろ」
エリシアは少し考えてから、真面目な顔で言った。
「私も、最初から強かったわけではありません」
その声は、さっきまでの東方好きの少女とは違っていた。
勇者の声だった。
「才能があると言われました。でも、才能があることと、強いことは違います。私はまだ弱いです」
「勇者でも?」
「勇者でも、です」
エリシアは小さく笑った。
「だから訓練しています。失敗もします。怖い時もあります」
少し意外だった。
勇者とは、もっと遠い存在だと思っていた。
生まれながらに選ばれ、最初から強くて、誰もが認める特別な人間。
でも目の前の少女は違った。
特別ではある。
けれど、普通でもあった。
「では、また」
エリシアは軽く頭を下げた。
「機会があれば、東方文化の話を聞かせてください」
「俺より本の方が詳しいと思うぞ」
「それでも、実際に受け継いでいる方の話が聞きたいんです」
「……気が向いたらな」
「はい」
エリシアは嬉しそうに笑い、人々のもとへ戻っていった。
マルクが俺の肩を叩く。
「お前、勇者様と知り合いになったな」
「なってない」
「なっただろ」
「日常会話をしただけだ」
「普通はそれを知り合いって言うんだよ」
そうなのかもしれない。
けれど俺には、勇者のことより気になるものがあった。
憧れで道を選ぶのは悪くない。
エリシアのその言葉が、妙に耳に残っていた。
クレハルト家。
四名家の一つ。
冒険者ギルド創設以前から存在する、古い冒険者一族。
かつて世界を脅かした終末級存在のうち、二つを討った英雄たちの血を引く家。
世間ではそう語られる。
もっとも、今の俺にとっては重い名前でしかない。
クレハルト家は元々、東方から来た一族だった。
遠い昔、純粋な東方文化を持って西方へ移り住み、長い年月の中で西方文化と混ざっていった。
今では家の造りも服装も生活様式も西方風だ。
だが、黒髪の者が多く、祖先祭や刀術など、一部には東方の名残がある。
父は刀も騎士剣も使う。
腰に刀と騎士剣を差し、二つの武器を使い分ける実力者だ。
ただし父は、子供たちには騎士剣を勧めた。
理由は簡単。
刀は難しいからだ。
兄は父の教えを受け、騎士剣を選んだ。
兄レオン・クレハルト。
俺より五つ上。
気術も剣術も優れた天才。
姉も騎士剣を扱える。
姉エレナ・クレハルト。
魔法の天才でありながら、王国騎士団員と同程度には剣も使える。
そして俺。
レグルス・クレハルト。
刀に憧れた落ちこぼれ。
なぜ刀を選んだのかと聞かれれば、答えは決まっている。
祖父だ。
祖父は刀しか使わない。
魔力も気も凄まじい、けれど、武器は刀一本。
子供の頃に見た祖父の一振りが忘れられなかった。
速さではない。
派手さでもない。
ただ、綺麗だった。
世界から余計なものを削ぎ落とすような一振り。
それに憧れた。
だから俺は刀を選んだ。
そして、選んだ結果、伸び悩んだ。
笑える話だ。
「また落ちたのか?」
夕方。
共同訓練場で刀を振っていると、マルクが木柵にもたれながら言った。
「言い方」
「悪かった。今回も惜しくも冒険者登録試験に落ちたのか?」
「余計腹立つな」
「じゃあ何て言えばいい?」
「黙ってろ」
「会話にならないだろ」
俺は返事の代わりに刀を振った。
本物の刃は危ないので、訓練用の刃引き刀だ。
木刀より重く、本物より安全。
それでも扱いは難しい。
刃筋を立てる。
手首を固めすぎない。
腰から動く。
足で斬る。
頭では分かっている。
だが身体は思ったように動かない。
「今の、ちょっとズレたな」
マルクが言う。
「分かってる」
「分かってるなら直せよ」
「分かって直るなら試験に受かってる」
「それもそうか」
腹立つくらい正論だった。
俺はもう一度構える。
切る。
踏み込む。
失敗する。
踏み込みが深すぎた。
体勢が崩れる。
「うおっ」
危うく転びかけた。
マルクが笑う。
「今のは良かったぞ」
「どこが」
「笑いとして」
「斬るぞ」
「刃引きだろ」
「叩く」
「それは痛い」
俺は息を吐き、刀を鞘に戻した。
汗が額を流れる。
訓練場の向こうには、ベルグラードの街並みが見える。
夕陽を受けた屋根。
煙突から立ち上る夕食の煙。
魔導灯に火を入れる作業員。
仕事帰りの職人たち。
この街は嫌いじゃない。
実家よりは息がしやすい。
「実家、帰らないのか?」
マルクが言った。
「またそれか」
「だって仕送りもらってるんだろ?」
「もらってる」
「縁切られたわけじゃない」
「切られてない」
「なら帰ればいいだろ」
簡単に言う。
本当に簡単に。
「太陽が三つある家に帰りたいと思うか?」
「何だそれ」
「祖父、父、兄、姉」
「四つじゃないか」
「細かいな」
「数は大事だろ」
俺は苦笑した。
でも、言いたいことは変わらない。
優秀すぎる家族の中にいると、自分の影が濃くなる。
俺は誰にも追い出されていない。
ただ、自分で距離を置いただけだ。
半ば黙認の一人暮らし。
両親からの仕送り。
姉からの手紙。
兄からは何もない。
まあ、兄とは折り合いが悪い。
嫌われているとは思わない。
だが、向こうからすれば俺は理解できない弟なのだろう。
刀に拘り。
伸びず。
落ち続け。
それでもやめない。
たぶん、見ていて苛立つのだ。
俺自身も、自分に苛立っている。
「俺、結構考えてるんだけどな」
「何を?」
「どう振ればいいか。どこに力を入れるか。どう足を動かすか。どうすれば刃筋が通るか」
「それで?」
「上手くいかない」
マルクは少し黙ってから言った。
「不器用なんだな」
「知ってる」
「でもやめないんだな」
「やめたら、今までの失敗がただの失敗になる」
「面倒くさい奴だな」
「それも知ってる」
俺は再び刀を構えた。
もう一度。
切る。
踏み込む。
腰を回す。
刃筋を通す。
今度は少しだけマシだった。
本当に、少しだけ。
その時だった。
地面が揺れた。
最初は馬車でも通ったのかと思った。
だが違う。
揺れはすぐに強くなり、訓練場の奥から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ、と地面の底から何かが動くような音。
マルクが顔色を変える。
「レグルス、下がれ!」
俺も動こうとした。
だが遅かった。
足元に亀裂が走る。
石畳が割れ、土が崩れ、訓練場の端から森へ向かって地面が裂けていく。
「は?」
間抜けな声が出た。
次の瞬間。
俺の足元が消えた。
「レグルス!」
マルクの叫び声が遠ざかる。
視界が反転する。
俺は刀を握ったまま、暗闇へ落ちていった。




