↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第5話 氷の女王の心の空洞と、消えた面影

(Side:北条舞(ほうじょうまい))


「よし、みんな。歴史の教科書の45ページを開きなさい。今日は明治維新についてやるぞ」


 歴史の教師の野太い声が、教壇から単調に響き渡る。

 秋の日差しが窓から差し込み、私立星蘭堂高校3年A組の机の列を明るく照らしていた。


 私、北条舞(ほうじょうまい)は、窓際の一番端の席で背筋をピンと伸ばして座っていた。

 視線はまっすぐ黒板に向けられている。手には優雅にペンを握り、時折ノートに重要なポイントを書き留める。

 先生やクラスメイトの目には、間違いなく集中力のある模範的な生徒に映っているはずだ。常に完璧な『氷の女王』として。


 だけど、私の頭の中は……完全にパニック状態で、滅茶苦茶で、ものすごく騒がしかった!


(頭おかしい。私、昨日の夜は絶対におかしかったわ!)

(どうして……どうしてこの北条舞(ほうじょうまい)ともあろう者が、知り合ったばかりの男子の家に上がり込んだりしたのよ?!)

(それだけじゃないわ、このバカ! 特大カップラーメンを三つもペロリと平らげて、その上マッサージしてって甘えちゃって、それに……それに……)


 思い出すだけで、顔から火が出そうになる……。


(な、な、なんなのよ、昨日の夜私の口から出たあの変な声は?! 『はぁぁん……♡』って?! 思い出しただけで、今すぐ学校の屋上から飛び降りたい気分よ!!)


 私は慌てて顔を伏せ、隣の席の子に耳まで真っ赤になっているのを見られないよう、手のひらで頬の半分を隠した。


(しっかりしなさい、舞(まい)! 集中よ! あなたは演劇部の部長でしょ! 部室には秋の公演の台本がまだ山積みなんだから! あの生意気な後輩との恥ずかしい出来事なんて、思い出してる暇はないのよ!)


 ……そうやって自分自身を叱咤してみる。

 ……いつもの冷たいオーラを取り戻そうとしてみる。


(だ、だけど……くっ……)


 再び心の中で愚痴が漏れてしまう。

 だって、いくら否定しようとしても、体が信じられないくらい……軽いんだもの。それは否定しようのない事実だった。

 何週間も私を苦しめていた頭痛は、今や嘘のように跡形もなく消え去っている。

 肩や首の後ろに乗っていた大きな岩のような重みも、完全にどこかへ飛んでいってしまった。

 今朝、窓ガラスに映る自分の顔を見た時でさえ、肌の血色がいつもよりずっと明るく見えた。


(整体とコルギ(小顔矯正)のマッサージ……だっけ?)

(な、なんなのよ、あの夏沢凛太郎(なつさわりんたろう)の魔法みたいな指は? あいつは本当に高校生なの? それとも癒やしの神様の生まれ変わりか何かなの?!)


 私は無意識に、昨夜彼の温かい指が触れ、あんなにも的確な圧をかけてくれた自分自身のうなじを、そっと撫でていた。


(それに……なぜだか、夏沢(なつさわ)くんの声や、目の色、それにあの手の温もりが……)

(……全部、すごく懐かしい感じがしたのよね)

「はぁぁ……」


 私は声に出さず、深いため息をついた。

 思考がゆっくりと漂い、昨夜の出来事から、三年生になって以来ずっと無視しようと努めてきた、私の心の片隅にある空白の空間へと移り変わっていく。


(懐かしい、か……)

(あんな風に説教してくれたり、心から心配してくれたり……昔は私も、ある人からよくしてもらってたっけ)


 とても大切な、ある人。

 少しずつ、私のそばから姿を消してしまった人。

 私がいつも親しみを込めて『凛(りん)くん』と呼んでいた、あの後輩の姿。


 壊れたカセットテープのように、突然、過去の記憶が頭の中で再生され始めた。


『凛(りん)くん! 凛(りん)くん! 一緒にお昼食べよ!』

『すみません、北条(ほうじょう)先輩……俺、今この解剖学の参考書を読んでるんで……』

『もーう〜! そんな分厚い本ばっかり読むのやめてよ! たまには自分の姿勢も気にしなさいよ! 凛(りん)くん、いつも猫背になってるんだから!』

『あ、はい、先輩……すみません……』


 その分厚いメガネをかけた内気な少年の声が、私の耳にはとても愛らしく響いていた。

 昔、凛(りん)くんはいつも私と一緒にいてくれた。彼は地味でいつも俯いているような一年生だったけど、私が疲れた時に寄りかかれる、安心できる場所だった。


 彼の初めての友達を紹介したのだって、私だった。


『ねえ、凛(りん)くん! 紹介するわ、里中健二(さとなかけんじ)くんよ! ちょっとうるさいけど、すごくいい子だから! 健二(けんじ)、凛(りん)くんと仲良くしてあげてね!』

『おっ、ちわー! 俺は里中健二(さとなかけんじ)! よろしくな、本の虫!』

『え、えっと……よ、よろしくお願いします……』


 その思い出を振り返り、私は苦笑いを浮かべた。

 今朝の学校の廊下で、私は副部長であり一番の親友でもある白鷺蓮(しらさぎれん)とすれ違った。

 彼女との短い立ち話の中で、私は初めて知ったのだ。あの里中健二(さとなかけんじ)が今、いつもぴったりとくっついている相手が……夏沢凛太郎(なつさわりんたろう)だということに。


(里中健二(さとなかけんじ)と、夏沢凛太郎(なつさわりんたろう)、か……)

(夏沢凛太郎(なつさわりんたろう)……凛(りん)くん……)


 まさか、同一人物?

 私はすぐに、その考えを打ち消すように強く首を振った。


(違う。あり得ないわ。ただ名前が似ているだけの、偶然の他人に決まってる)

(私の知っている『凛(りん)くん』は、ダサい黒縁メガネをかけてて、髪も真ん中分けできっちり梳かしてて。姿勢はいつも前かがみで、私と話す時もすごく照れくさそうにしてたもの)

(昨夜の夏沢(なつさわ)くんとは、180度完全に違うわ。無造作な髪型で、姿勢もピンと伸びてて、鋭い目つきをしてて……私に説教して、あまつさえ自分の家のカーペットに寝転がれなんて命令してくるような男だもの!)


 なら……もし夏沢(なつさわ)くんが凛(りん)くんじゃないとしたら……本物の凛(りん)くんはどこへ行ってしまったの?

 なぜ、学校の廊下で彼の姿を一度も見かけなくなってしまったの?

 転校しちゃったの?

 それとも……わざと私を避けてるの?


 左胸の奥がズキリと痛んだ。それは単なる筋肉のコリなんかよりも、ずっとずっと痛かった。


(私のせいだわ……)

(三年生になってから……先生たちに演劇部の部長に任命されてから……私の時間はすべて、台本と、練習と、責任に奪われてしまった)


『ごめんね、凛(りん)くん。今日は一緒に帰れないの。部活の会議があって』

『ごめんなさい、凛(りん)くん。お弁当、部室で食べることにするね』


 あの拒絶の言葉を……去年、私は何度凛(りん)くんに言ってしまっただろう?

 そして最後には、気がつかないうちに、私たちの間の距離は遠く離れてしまった。

 あのメガネをかけた少年は、私を探すのをやめ、私を呼ぶのをやめ、重い期待でいっぱいの私の世界から、少しずつ姿を消してしまったのだ。


(ごめんなさい、凛(りん)くん……完璧な『氷の女王』でいるっていう私のエゴのせいで、あなたをないがしろにしてしまった……)


 私は片手で頬杖をつき、秋の落ち葉が舞い散り始めた窓の外の景色を見つめた。


(ねえ……今どこにいるの、凛(りん)くん? もう、私なんかよりずっと一緒にいて楽しい、お昼ご飯の相手を見つけたのかな?)心の中でそう呟きながら、私の視線はゆっくりと切なさを帯びていった。


 私は、もう戻ることのできない過去の空想にふけり続けていた。

 私はまったく気づいていなかった。皮肉な真実……私がこれほどまでに恋しく思い、いなくなったことを嘆いている『凛(りん)くん』の姿が……実は同じ校舎の二階の教室に座っているだなんて。

 私が気づかないほどの姿に変わり果て、昨夜私の体に触れ、ケアし、そして救ってくれた、あの青年なのだということに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。