第1話 深夜に金欠になった『氷の女王』①
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人間の体には、平均して約600もの筋肉がある。
そして俺の観察によれば、社会からの要求や高い期待の中で生きていると、そのほとんどがガチガチに凝り固まってしまう。この偽善的な東京という街なら、なおさらだ。
俺にとって、他人の姿勢や筋肉の緊張具合を観察することは、ただの暇つぶしや癖ではない。
それは一種の芸術鑑賞であり、あるいは……ある種の執着なのかもしれない。
だから、この地域でもひと際目立つ、ゴシック様式のクラシックなレンガ造りの建築を誇る私立星蘭堂高校に入学した初日から、俺は常に周りの人間たちの首、肩、そして背中に注目してきた。
「……おい、夏沢凛太郎、お前また藤原先生のうなじをガン見してただろ? マジでさ、お前ってホントに変わったフェティッシュ持ってるよな」
学校の廊下で、里中健二が俺の脇腹を軽く小突きながら呆れたように言ってきた。
俺たちはロッカーの前に寄りかかりながら、休み時間に行き交う生徒たちの群れを眺めていた。
「は? フェティッシュ? フェティッシュじゃないし、別に変な意図でうなじを見てたわけじゃないぞ、健二」
「俺は、先生の緊張して腫れ上がった『胸鎖乳突筋』を観察してたんだ。一晩中寝違えてたか、デスクワークで下ばかり向いていたに違いない。頸椎周りに少しでも整体の技術を施せれば、首の姿勢はずっと良くなって頭痛も消えるのになぁって」
健二は半開きになった口で俺をドン引きしたように見つめた。
「はぁ……? キョウサー何だって? どこの宇宙語だよ? お前、マジでマッサージに執着しすぎだろ。そんなエロい目つきで女子ばっか見てたら、そのうち生徒指導室にぶち込まれるぞ」
「性別で差別なんてしてないぞ、言っておくけど。お前の右肩も非対称になってるぞ、健二。いつも重いカバンを片方だけで持ってるからだ。今すぐ骨格矯正してやろうか?」
「ひぃっ?! いや、結構です!」健二は両腕をクロスさせながら一歩後ずさりした。「この前のキャンプでお前にマッサージされた時、背骨から『ボキッ!』ってものすごい音がして、マジで死期を悟ったんだからな!」
俺は深くため息をついた。
小顔矯正や整体の技術は、驚くべき効果をもたらす伝統的な身体調整の芸術なのに。
現代の若者がこのリラクゼーションの価値を理解できないのは、本当に残念だ。
「あ、姿勢といえばさ、あれ見てみろよ、凛太郎」不意に健二が声を潜めて呼びかけ、廊下の端にある中央階段の方を顎でしゃくった。
そこには、鉄の定規のように背筋をピンと伸ばし、階段を上がってくる一人の女子生徒がいた。
彼女は北条舞。三年生の先輩であり、我が校の演劇部部長だ。
腰まで届くまっすぐな銀髪が、一歩踏み出すごとに優雅に揺れている。
サファイアブルーの瞳はまっすぐ前を見据え――ひどく冷たく、毅然としていて、近寄りがたいオーラを放っていた。
生徒たちが彼女を『氷の女王』と呼ぶのも頷ける。
「なんてこった……完璧だ……」
「だろ? あの美しさはマジで異次元だよな!」健二は俺が彼女の容姿を褒めたのだと勘違いして、興奮気味に同意してきた。
「ぶはは……顔じゃないぞ、健二。背中の『脊柱起立筋』の働き方のことだ。歩行時の姿勢が完全にバランスが取れていて、恐ろしいほどの精度で体重を分散させている」
「ただ……」
「ただ何だよ?」
「無理をしすぎているみたいだな。肩と首の後ろの筋肉がガチガチに引っ張られてる。外見は完璧に見えるかもしれないが、解剖学的に見れば、彼女はとてつもないストレスと肉体的な負担を抱え込んでいる状態だ」
健二は呆れたように目を丸くした。「またその変なフェティッシュ始まったよ。はいはい、勝手に言ってろ、マッサージ師様」
◆
これが俺の学校での日常だ。大して目立つこともなく、ただ周囲を観察するだけの生徒。
放課後のチャイムが鳴った後、俺は西東京の郊外にある三鷹の自宅へと帰った。
ここは緑豊かで静か、渋谷や新宿の喧騒から逃れて平穏を求める家族連れが多く住む環境だ。
うちの家庭はかなり裕福な方だ。両親である夏沢絢斗と夏沢響子は、それぞれ国際的なビジネスコンサルタントと建築家であり、凄まじいほどのワーカホリック(仕事人間)だからだ。
問題は、彼らが滅多に家に帰ってこないこと。毎月の生活費は湯水のように口座に振り込まれるが、その代わり、俺と妹はこの無駄に広い家を自力で管理しなければならない。
「お兄ちゃぁぁん! なんでまだ乾いた洗濯物をタンスにしまってないのよ?!」
玄関に足を踏み入れ、靴を脱いだ途端、甲高いお説教が鼓膜を突き刺した。
実の妹、夏沢小春が廊下で腰に手を当てて立っていた。
ポニーテールに結んだ黒髪が、彼女の怒りに合わせて攻撃的に揺れている。
まだ十四歳の中学生だというのに、その振る舞いはまるで家賃を取り立てに来た大家のオバチャンのようだ。
「まだドアを開けたばっかりだろ、小春。兄貴にせめて十秒くらい深呼吸する時間をくれよ……」
「十、九、八……はい時間切れ! さっさとやって! それと、リビングの机でその変な分厚い筋肉の解剖学の本を読むの、やめてよね! 先週友達が遊びに来た時、お兄ちゃんのことエロいサイコパスだと思ってドン引きしてたんだから!」
「あれは科学的で医学的な専門書だぞ、小春。それに、あの本のおかげで、お前が今日グラウンドを走らされる罰を受けて疲れてることも一発で分かったんだからな。ふくらはぎの『腓腹筋』が少し腫れて張ってるのが見えるぞ」
小春は小さくビクッと肩を揺らし、俺の推測が図星だったせいで顔を赤らめた。
「し、知ったかぶり! だいたいそれ何の関係があるのよ?! もういいわ、今夜はコンビニのバイトのシフト入ってるんでしょ? 帰りにキャラメルプリン買ってくるの忘れないでよね! じゃないと、外に締め出すから!」そう脅しながら、彼女はキッチンの方へと踵を返した。
「はいはい、口うるさいお姫様。隠れブラコンの中学生め」俺はため息混じりに、ほとんど囁くような声で愚痴をこぼした。
「聞こえてるわよ、バカ!!」
俺は薄く微笑んだ。これが夏沢家の日常だ。
俺はすぐにシャワーを浴び、適当に夕飯を済ませた後、カジュアルな服に着替え、肌を刺すような冷たさになり始めた三鷹の夜風を感じながら、バイト先へと歩き出した。
◆
時刻はすでに深夜十一時半を回っていた。
俺の働くコンビニの店内は非常に静まり返っている。
聞こえてくるのは飲料用冷蔵庫の低いモーター音と、天井のスピーカーからループ再生されるイージーリスニングのBGMだけだ。
俺はレジカウンターの裏でリラックスして立ち、人間の顔にある経絡のツボを頭に思い浮かべながら、自分の手の指の関節の柔軟性を鍛えていた。
カラン、カラン!
自動ドアの来店チャイムが高らかに鳴り、冷たい夜の中から一人の客が入ってきたことを知らせた。
その足音は奇妙だった。ひどく重々しく……そして引きずっているような音。一般的な客の軽やかな足取りとは完全に対極にある。
まるで、頭のてっぺんから生命力を強制的に吸い取られている人間の歩みを聞いているかのようだった。
俺はレジから顔を上げた。
インスタント食品の通路を、ふらふらと覚束ない足取りで歩く一人の少女が見えた。
その服装は……なんてこった、控えめに言ってもかなりだらしなかった。着古したグレーのオーバーサイズのパーカーに、ダボダボのスウェットパンツ、そして少し斜めに傾いた分厚い黒縁メガネ。
少女は震える手で赤い買い物カゴを提げていた。
特大サイズのカップラーメンを三個と、ドカ食い用サイズのメロンパンをいくつか放り込むと、店の隅にある冷蔵コーナーへとふらふら歩いていき、様々な銘柄のエナジードリンクを十本近く鷲掴みにした。
その客が『ドンッ』という鈍い音とともに俺のレジカウンターにカゴを置いた時、俺はようやくあることに気がついた。
パーカーのフードから覗く長い髪は、輝くような銀色だったのだ。
……ちょっと待て。
俺は目を細め、その分厚いメガネの奥にある顔を見つめた。
それは、北条舞だった。
星蘭堂高校の『氷の女王』。今日の昼間、俺が健二と話していた完璧な姿勢の少女。あの厳格で完璧主義な演劇部の部長じゃないか!?
だが、一体今のその身なりはどういうことだ!?
美しい顔は紙のように真っ青だ。
目の下には黒くて濃いクマがあり、まるで慢性的な不眠症を患っているパンダのように見える。
唇はカサカサに乾き、普段は鋭く誰もを威圧するサファイアブルーの瞳は、今は虚ろに濁り、深い絶望を完璧に映し出していた……。
「お、お願い……早くお会計して……全部……」
声はかすれ、しゃがれていて、まるでお祈りを求める幽霊の囁き声のようだった。
俺は思わず二秒間完全にフリーズしてしまったが、やがてレジ店員としての本能が意識を取り戻した。
「か、かしこまりました。少々お待ちください」
俺はすぐにバーコードリーダーを手に取り、大量のカフェイン飲料と不健康な食品の山を素早くスキャンし始めた。
「お会計、合計で3,450円になります」
目の前の先輩は弱々しく頷いた。彼女はパーカーのポケットに手を突っ込んだが、その動きはまるで手に鉄の重りが結びつけられているかのように遅かった。
彼女は猫の絵が描かれた小さな布製の財布を取り出し、それを開くと、中身をレジカウンターの上にバラバラとぶちまけた。
チャリン……カラン……ジャラッ……。
複数枚の硬貨と、くしゃくしゃになった千円札が一枚、レジの近くに落ちた。
俺は黙ってそれを数えた。千……千五百……千六百……千六百八十円。
「――――――」
「――――――」
俺はその小銭を見つめ、それから彼女の顔を見た。
彼女もその小銭を見つめ、それから顔を上げて俺を見た。
「え……っ?」
北条先輩は少し首を傾げた。
「申し訳ございません、お客様」俺はできるだけ慎重に、静かに告げた。「あと1,770円ほど足りないようです」
次の瞬間、彼女のサファイアブルーの瞳がこれ以上ないほど見開かれた。
極度のパニックと絶望が、突然その顔に爆発した。
彼女が学校で常に完璧に保っていた『氷の女王』としての姿が、俺の目の前で文字通り粉々に砕け散ったのだ。
「な、な、何ですって?! で、でも……そんなはず……まずい……今日一日お米食べてないのに……今このエネルギー補給を一気飲みしないと絶対に倒れちゃうし、明日の朝までに演劇の台本の修正が終わらないのに……」
彼女はうわ言を言うように超早口で一人ごとをぶつぶつと呟き始め、両手を上げてフラストレーションのあまり自分の頭を抱え込んだ。
「……顧問の先生にめちゃくちゃ怒られる……部員たちのモチベーションも下がる……私はしっかりしなきゃいけないのに……うぅっ……」
「あ、あの、お客様? それとも……北条先輩?」俺は彼女にまだ意識があるかどうか確認するために、そっと呼びかけた。
自分の名前を呼ばれた瞬間、彼女の肩が大きくビクッと跳ねた。
彼女は顔を上げ、分厚いメガネの奥から目を細め、俺のコンビニの制服についている名札に視点を合わせようとした。
「……夏沢……凛太郎? あ、あんた、二年の……?」
「はい。先輩、俺の名前覚えてたんですか?」
「ば、バカ! 私の奴隷――じゃなくて、舞台小道具のスタッフとして使えそうな見込みのある生徒の名前くらい、全員暗記してるに決まってるでしょ!」彼女は微かに残った威厳を振り絞るように、弱々しく叫んだ。
だが、その傲慢なセリフが口から出た直後、北条先輩の両脚からスッと力が抜けた。
体がそのままへたり込みそうになり、彼女は床に座り込むのを必死に堪えるように、両手でレジカウンターの端にしがみついた。
「ほ、北条先輩?! 先輩、大丈夫ですか?!」俺は慌てて声をあげた。
「夏沢……くん……」
その声は今や蚊の鳴くような震え声になり、下から俺を見上げるその目には涙が浮かび始めていた。
オーラは180度完全に変わり、段ボールの中で雨に濡れ、お腹を空かせている子猫そのものに見えた。
「た、助けて……お金、貸してくれないかな……? それか、そのカップラーメン一つだけでいいから恵んで……明日絶対に返すって誓うから……もう吉祥寺まで歩いて帰る体力なんて、本当に一ミリも残ってないの……」
俺は鼻の付け根を揉んだ。
目の前のこの少女……学園の皆の期待に応えるために、とてつもない重圧をその肩に背負っている彼女は……どうやら肉体的な限界をとうに迎えていたらしい。
解剖学や小顔矯正、整体の技術を深く学んでいる者として、俺の本能が叫んでいた。
俺には、彼女の首と背中の筋肉が、緊急救助を求めて悲鳴を上げているのが手に取るように分かったのだ。
身近な人間がボロボロに疲れ果てているのを放っておくことはできない。間違った生活習慣のせいで、この貴重な肉体が崩壊していくのを見過ごすわけにはいかなかった。
「……北条先輩」俺は哀願するようなサファイアの瞳を真っ直ぐに見つめ、淡々と言った。「このお買い物代は全部俺が立て替えておきますから、安心してください」
「ほ、ホントに?! 助かる! あなたって本当に――」
「でも、その代わりに」俺は素早く遮った。「俺の家は三鷹にあってここからすごく近いので、あと十五分でバイトのシフトが終わったら、少しだけ俺の家に来てくれませんか?」
真っ青だった彼女の顔が、瞬く間に耳の先まで真っ赤に染まった。
「は、は、はぁっ……?! あ、あんた……この生意気な後輩! わ、私が今、無力で弱り切ってるのをいいことに、深夜にえ、エッチなことしようって魂胆ね?!」
「全然違います!」俺は即答した。「俺の観察によると、先輩の姿勢は過度なストレスのせいで崩壊寸前なんです! だから、先輩の背骨の歪みを整えて、顔じゅうの疲れのツボをマッサージしたいだけです!」
「な、何の言い訳よそれ?! そっちの方がよっぽど変態チックでエロく聞こえるわよ、バカ!!」
彼女は顔を真っ赤にして怒鳴り続けたが、突然そのお腹が『ぐきゅるるるっ』と非常に大きな音で鳴ったことで、その夜の口論と抵抗はあっけなく幕を閉じた。
この完璧主義な少女は、ただ恥ずかしそうにうつむき、大人しく運命を受け入れるしかなかったのである。




