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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、竜のプリンの中で眠っている。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/21

 

 山の上に、大きなプリンが置かれていた。


 石の皿いっぱいに広がり、リリィが百人並んでも端から端まで届かない。


 表面はつやつやしている。


 卵色のプリンの上を、琥珀色のカラメルが薄く覆っていた。


 風が吹くたび、ぷるんと揺れる。


 山の麓の村では、朝から鐘が鳴っていた。


「竜のプリンができたぞ!」


「今年こそ、崩すなよ!」


 村人たちが長い棒を担ぎ、その上に石の皿を載せている。


 牛乳は月牛百頭分。


 卵は金冠鶏三百羽分。


 砂糖は南の港から運ばれた赤砂糖を樽で五つ。


 三日かけて蒸し上げた、年に一度のプリンだった。


 山頂の洞窟には、古い竜が住んでいる。


 村人たちは毎年、その竜へプリンを届けていた。


 理由を知っている者はいない。


 村長も知らない。


 菓子職人も知らない。


 竜も、たぶん覚えていない。


 けれど毎年、夏の終わりになるとプリンが作られた。


 村人たちは石の皿を洞窟の前へ置いた。


「今年はうまく固まった」


 菓子職人が表面を指で押す。


 ぷるん。


 隣にいた村長の腹も、少し揺れた。


「竜はまだ戻らんのか」


「雲の海へ水浴びに行ったそうです」


「ならば、ここで冷ましておこう」


 村人たちは山を下りていった。


 巨大なプリンだけが残った。


 そこへ、リリィが飛んできた。


 甘い匂いがしたからである。


 タルムは山の下にいた。


 坂が急なので、ゆっくり登っている。


 たぶん夕方には着く。


 リリィは待たなかった。


 山頂まで飛び、石の皿の縁へ降りた。


 目の前に、黄色い壁がある。


 見上げても上まで届かない。


 カラメルが細い滝になって流れ落ちていた。


 リリィは指ですくった。


 ぺろり。


 ほろ苦い。


 その奥に、赤砂糖の濃い甘さがある。


 リリィはもう一度すくった。


 今度は黄色いところも一緒に取れた。


 口へ入れる。


 冷たい。


 なめらか。


 卵と牛乳の味が、舌の上でふわりとほどけた。


「おいしー!」


 金色の粉が、プリンの表面へぱらぱら落ちた。


 ぷるん。


 プリン全体が揺れた。


 山も少し揺れた。


 リリィは気にせず、黄色い壁をもう一口食べた。


 柔らかい。


 スプーンがなくても、両手ですくえる。


 もう一口。


 もう一口。


 リリィが食べたところに、小さな穴が開いた。


 穴の向こうにもプリンが続いている。


 リリィは中へ入った。


 周りは全部プリンだった。


 右も黄色。


 左も黄色。


 天井も黄色。


 足元にはカラメルが染み込み、琥珀色の水たまりができている。


「お菓子の洞窟だ」


 リリィは進みながら、壁を食べた。


 柔らかな壁が少しずつ削れ、穴は奥へ続いていく。


 外の光が遠くなる。


 代わりに、プリンの甘い匂いが濃くなった。


 リリィは途中で立ち止まった。


 お腹が丸い。


 羽も重い。


 プリンの中はひんやりしている。


 柔らかくて、静かだった。


 リリィは壁にもたれた。


 背中がゆっくり沈む。


 ちょうどいい窪みができた。


「ちょっとだけ」


 リリィは目を閉じた。


 すぐに眠った。


 その頃、空の向こうから竜が帰ってきた。


 赤銅色の鱗。


 岩山ほどの体。


 翼を広げると、山頂が影に覆われる。


 竜は洞窟の前へ降りた。


 石の皿を見つける。


「今年も来たか」


 低い声で言った。


 竜はプリンへ顔を近づけた。


 鼻先から、白い煙が漏れる。


 プリンの表面が少し溶けた。


 竜は慌てて顔を離した。


 毎年のことである。


 竜は火を吐く。


 寝言でも火を吐く。


 ため息にも火が混じる。


 そのため、プリンを食べようとして近づくと、いつも先に溶かしてしまう。


 竜は息を止めた。


 もう一度、顔を近づける。


 三秒。


 五秒。


 十秒。


 竜の頬が膨らんだ。


 目が赤くなる。


 それでもプリンまでは、まだ少し遠い。


 竜は耐えきれず、息を吐いた。


「ぶはっ」


 熱い風が吹いた。


 カラメルが流れ、黄色い表面が傾いた。


 竜は眉間に皺を寄せた。


「今年も駄目か」


 そのとき。


 プリンの中から、小さな音がした。


 すう。


 すう。


 竜は首を傾げた。


 耳を近づける。


 すう。


 すう。


 誰かが眠っている。


 竜は爪の先で、プリンの横を軽く押した。


 ぷるん。


 中でリリィが転がった。


「んー」


 竜がもう一度押す。


 ぷるん。


 リリィは反対側へ転がる。


「まだ食べる」


 寝言だった。


 竜はプリンを見つめた。


 しばらく待った。


 それから爪先で、表面を少しだけ開いた。


 黄色いプリンの中から、金色の髪が見えた。


 リリィは窪みに埋まり、両手を頬の下へ入れて眠っている。


 羽にはカラメルがついていた。


 竜は鼻先を近づけた。


「おい」


 白い煙が漏れる。


 リリィの髪が温風で揺れた。


「焼ける」


 リリィは目を開いた。


 目の前に、竜の大きな瞳があった。


 リリィは少し考えた。


「竜だ」


「妖精だな」


「リリィだよ」


「私のプリンの中で何をしている」


 リリィは周囲を見た。


 右もプリン。


 左もプリン。


 自分の形にへこんだ黄色い寝床。


「寝てた」


「なぜプリンの中で寝る」


「柔らかいから」


 竜は食べられた穴を見た。


「その前は」


「食べてた」


「私のプリンをか」


「おいしいよ」


「それは知っている」


 竜は低く唸った。


 唸るたび、口の端から火の粉が落ちる。


 リリィはプリンの穴から這い出した。


 羽を広げる。


 けれどカラメルが固まっていて、うまく開かない。


 リリィは石の皿の上を歩いた。


 竜はプリンを見つめている。


「食べないの?」


「食べれば溶ける」


「もう少し遠くから食べたら?」


「口が届かない」


「首を伸ばせば?」


「これ以上は伸びない」


 竜は首を伸ばしてみせた。


 十分長かった。


 それでも、自分の熱い息からプリンを遠ざけようとすると、今度は口が届かない。


 リリィはプリンの端をすくった。


 さっきより少し柔らかくなっている。


 口へ入れる。


「おいしー!」


 金色の粉が散った。


 粉はプリンの上へ降り、琥珀色のカラメルへ溶けた。


 薄い光が、表面を走る。


 ぷるん。


 プリンが揺れた。


 流れかけていたカラメルが止まる。


 溶けていた黄色い縁も、ゆっくり元の形へ戻った。


 竜が目を細めた。


 鼻から煙を出す。


 プリンは溶けない。


 もう少し近づく。


 白い煙が表面を撫でる。


 それでもプリンは、ぷるんと揺れただけだった。


 竜は口を開けた。


 山ひとつ飲み込みそうな口だった。


 プリンの端を、ほんの少しだけかじる。


 竜にとっては、ほんの少し。


 村人百人分ほどの大きさが消えた。


 竜は動きを止めた。


 卵。


 牛乳。


 赤砂糖。


 ほろ苦いカラメル。


 百年ほど前に食べた味と、たぶん同じだった。


 竜の目から、一粒だけ涙が落ちた。


 涙は石の皿へ落ち、小さな水晶になった。


「おいしい」


 竜が言った。


「おいしいね」


 リリィも言った。


 竜はもう一口食べた。


 プリンが大きく揺れる。


 リリィは足を取られ、黄色い表面を滑った。


 そのまま竜の鼻先へぶつかる。


 竜が息を吸った。


「ふ」


 リリィの羽が逆立つ。


「ふ、ふ」


 竜の鼻が震えた。


「はっくしゅん!」


 熱い風が山頂を吹き抜けた。


 リリィは空高く飛ばされた。


 固まっていたカラメルがぱきぱき割れ、羽が開く。


 リリィはくるくる回りながら、どうにか空中で止まった。


 山道から、村人たちが登ってきた。


 菓子職人が石の皿を見る。


 大きな穴。


 竜が食べた跡。


 そして、リリィが食べた小さな穴。


「食べてくださった!」


 村人たちは喜んだ。


 菓子職人だけが、小さな穴へ近づいた。


 指で縁を確かめる。


「竜さまの歯形ではないな」


 空を見上げる。


 リリィと目が合った。


「妖精!」


「リリィだよ!」


「その穴はおまえか!」


「おいしかったよ!」


「代金を払いなさい!」


「ないよ!」


 リリィは山の下へ飛んでいった。


 菓子職人が追いかけようとする。


 その前へ、竜の爪が置かれた。


「まだ食事中だ」


 菓子職人は止まった。


 竜は残ったプリンをゆっくり食べた。


 一口ごとに山が揺れた。


 その日の夕方、タルムがようやく山頂へ着いた。


 石の皿は空になっていた。


「プリンは?」


 タルムが聞いた。


「おいしかったよ」


 リリィは答えた。


「そうかい」


 タルムはそれ以上聞かなかった。


 リリィはタルムの甲羅へ降りた。


 甲羅の上には、小さな家がある。


 リリィは扉を開け、中へ入った。


 寝台へ倒れ込み、毛布をかぶる。


 羽にはまだ、甘いカラメルが少し残っていた。


 リリィはすぐに眠った。


 それから毎年、村人たちは竜のために大きなプリンを作った。


 石の皿の端には、いつも小さなプリンも一つ置かれるようになった。


 誰のためなのか、村人たちは知らない。


 竜は知っていた。


 けれど、何も言わなかった。


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