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引越し作業員が異世界転生したら世界が引越し中でした  作者: もしものべりすと


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第一章 冷えた荷台

冬のトラックは、冷蔵庫の中身に近い温度になる。


 俺は荷台の縁に手をかけ、軍手越しに鉄板の冷たさを確かめてから、毛布の山を奥へ押し込んだ。指先の感覚が、ひと呼吸ごとに鈍くなっていく。白い息がフロントガラスに張り付いて、すぐに細かい霜になった。


 午前五時十七分。


 まだ街は眠っていた。コンビニの自動ドアが時々、誰かのために小さく開く音がする。それ以外、世界には何もなかった。


 俺は荷台の中で、養生材を順番に積み直した。圧縮された軍用毛布、コの字型のスポンジ隅当て、ロール状の床養生シート、幅広の養生テープが三本。重ねる順番は決まっている。一番下に大物の毛布、その上に大判のシート、隅当て、テープ。崩さないために、軽いものは上、扱う頻度の高いものは奥ではなく手前。三年も同じ手順を繰り返せば、暗くても手が覚えている。


 覚えていない人間は、どこにでもいる。


「おい、三崎。お前まだやってんのか」


 声に振り返らなくても、煙草と寝起きの口臭が混じった匂いで誰かはわかる。


 黒田先輩は、約束より四十分遅れて現れたのだった。スウェットの上にだけ作業着を引っ掛け、ズボンのほうは昨日のまま家から履いてきたらしい。鉄板の上に立つと、革靴の踵が薄い氷を割るような音を立てた。


「すみません。あと少しで終わります」


「ちっ。横もち専門のろまがよ。さっさと出ろ」


 舌打ちひとつ。それで朝の挨拶は終わる。


 俺は助手席のドアを閉め、シートベルトを引いた。シートのスプリングはとうに死んでいて、座面の生地が腰の下で気色悪くたわんだ。黒田先輩は運転席に乗り込みながら、爪の縁を口でいじっていた。手の甲には、誰のものとも知れない口紅がうっすら残っていた。


 二日酔いだ。今日は、運転は俺が代われるならそうしたいくらいだった。けれど免許の問題があって、現場までの長距離運転は黒田先輩の役目になっている。だから現場に着いてからの荷の九割は、俺ひとりで持つ。それでバランスが取れている、と本人は思っているらしい。


 俺の側のバランスは、誰も気にしない。


 現場は築二十年のマンション四階。


 管理人室の前を通るとき、俺は反射的に頭を下げた。誰もいなかった。返ってこない挨拶を空中に置き去りにする感覚は、子どもの頃から体に染み付いている。


 共用廊下にまず毛布を敷く。次にエレベーターの内壁にも一面、毛布を吊って、角は養生テープで二重に留める。部屋に入る前に床養生シートを玄関から廊下、リビングまで延ばし、ドアの框には縦に長いコの字型スポンジ、廊下の角には三角の隅当て。指の関節がこの寒さでも温まってくるのは、毛布を扱っているときだけだ。


「すごい。こんなに丁寧にやってくれるの?」


 奥さんの声に顔を上げると、エプロンの下から覗くカーディガンの毛玉と、伏し目がちな笑みが見えた。


「あ、いえ。普通です」


 俺は普通の意味でそう言ったつもりだったが、奥さんは小さく笑って、それから黒田先輩のほうへ向き直り、「ありがとうございます」と頭を下げた。黒田先輩は薄く笑って、自分の胸を一回叩いた。


「うちは丁寧が売りでして」


 その台詞だけは、いつも淀みなく出てくる。


 俺は黙って桐箪笥に手をかけた。古い桐の木は、触れた瞬間に指の油を吸って、一瞬だけ色を濃くする。長く使い込まれた家具に特有の、密度のある、けれど軽い手触り。引き出しを試しに引くと、軽く乾いた音を立てて、滑らかに動いた。


 毛布で全体を包み、角という角に隅当てを当て、養生テープを指の腹で押し付けるように二重に巻く。テープの粘着面が、暖房の効いた室内ですこしだけ柔らかくなる。糊の匂いが鼻先に来る。


 黒田先輩は、もう外で煙草を吸っていた。


 四階から一階まで、階段で四往復。


 箪笥はそれほど重くないが、長い。エレベーターでは肩がぶつかる。背負って降りるしかない。一段下りるごとに、踵に体重を乗せ直し、上半身は壁とも手すりとも擦れない角度を保つ。膝が震えるのは三往復目あたりからで、四往復目には太腿の内側がひきつる。


 搬出を終えたのは午後七時を回っていた。新居側の作業は雑にやれない、という意地が、俺の側にだけあった。


 奥さんは封筒を、黒田先輩に渡した。


「お疲れさまでした。少しですが」


 黒田先輩は中身を確かめずに、ジャンパーの内ポケットへ仕舞った。チップだ。俺の分はない。あったとしても、夕方には黒田先輩のポケットの中で同じ場所に収まっている。


 帰りのトラックで、黒田先輩は機嫌のいいときの鼻歌を歌っていた。


「お前、ほんと運ぶしか能がねえな」


「すみません」


「謝るなって。逆にラクなんだよ。お前みたいなのがいてくれるとな」


 窓の外を、街灯の明かりが滲みながら流れた。


 俺は答えなかった。返事は、しないほうが先輩の機嫌に良かった。


 会社に戻り、トラックの後片付け、養生材の倉庫戻し、伝票の最後の確認まで、ぜんぶ俺が片付けた。事務所に灯りがひとつだけ残っていた。社長は奥のソファで居眠りをしていた。俺はデスクの隅で、いつものように作業日報を書いた。


 日付。現場名。作業内容。使用養生材の種類と数。最後の欄に、決まった一行を書く。


 養生:完了。


 その文字を書き終えると不思議と肩の張りが少しだけ抜ける。誰のために書いているのかわからない一行だった。読むのは社長と、たまに監査の経理だけだ。それでも、書かないと一日が閉じない。


 日報の控えを鞄に挟み、コピーを胸ポケットに折って入れた。三年前から続けている小さな儀式だった。アパートの机の引き出しには、コピーの束が三年分積み上がっている。


 帰り道、駅の連絡通路で、サラリーマンの背中とすれ違った。誰も俺の作業着には目もくれない。彼らの靴は磨かれていた。俺の靴の踵は、毛布の繊維と現場の砂で、いつも擦り減っていた。


 その夜、夢の中で祖母が桐箪笥を撫でていた。


 夢の中の祖母は、俺の顔をまだ覚えていた。

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