異国の美姫と吸血鬼 10
「リヒター騎士。夕食だ」
そうザックスがヴォルフの部屋の戸を叩いたのは、すっかり月が城の真上の空まで登った頃のことだった。
一度眼を醒ましてからというものの、すっかり頭がさえてしまい、かといってそこいらを自由にうろつけるほど体力が回復していたわけではないので、寝台の上で悶々とひとり考え事をしていたところのヴォルフは、ザックスの声に勢いよく顔を上げた。うまそうな焼肉とスープとパンの匂いがする。がぜん腹が減ってきた。
──そういえばおれは、3日間眠りつづけていたんだっけな。
思い当たり、ふらつきながらもゆっくりと身を起こし、ザックスに礼を言った。
「かたじけない」
「気に病む必要はどこにも無い。シェーネの頼みだ」
「あの麗しく聡明な女医はどこに?」
「……自室だ。気分が優れないとのことで、侍女に食事を運ばせている。きみのことをつききりで看病していたからな。疲れが出たのだろう。さあ、食べなさい。豆とかぶのスープに、くるみ入りのパン、子羊の肉だ。特別柔らかいものを選んでおいたから病み上がりでも噛み切ることはできるだろう。起きれるか?」
ヴォルフは頷き、寝台から慎重に抜け出した。思ったより体はなまっていないようだが、歩くことを忘れてしまったのか膝に力が入らない。ザックスが支えようと申し出てきたのは丁重にお断りして、なんとか食事の乗った卓についた。ゴブレットのなかではぶどう酒が湯気を立てている。軽く食前の祈りを捧げてから口に含むと、それは芳しく甘かった。
「──うまい」
「だろう。ディーに作らせているのだ。きみを騙していた山賊さ。あいつは酒飲みだが、それだけに味覚は肥えているようでね。谷でも何杯か飲んだのではないか?あちらの酒はいかんせん泥臭いが、まあうまいことには変わりないだろう」
「……飲みましたね。そう言われれば。もったいないな、山賊をやるより酒蔵を開くほうがどれだけか彼にはふさわしいかわからない」
「山賊とは名ばかりの、ようはバーデンの見張りだ。あの谷を通らねばなにびともバーデンには入ってくることができぬからな。それに、君にはあっさりとやられてしまったようだが、あれでいてディーはなかなか強い男なのだ。大抵の腕前の者はなぎ払い、この城まで緊急伝令を届けることができる。トリアーに見張りはいないのかね?」
「おりますが、我らの街は強固な石の壁で守られております故、そのように離れた場所に見張りを置くことは致しませぬ。見張りは石の壁の上につくられた道の上を巡回し、街を守っています」
「なるほどな。うらやましい限りだ。バーデンにはきみの街のような協調性、統一性は無い。ひとびとの心には空想の上の悪魔や魔女がほんとうに住み着いていて、彼らが真実を見極める瞳を覆い隠してしまっている。
──3日前、この町へ踏み入ってきたとき、何か妙な雰囲気に気がつかなかったかね?リヒター騎士」
自らもまたゴブレットにぶどう酒を入れて飲みながら、ザックスはゆるやかに問うた。昼間のあのイカれた様子はなんだったのかと思われるほど、落ち着いて威厳のある王者の風格を漂わせながら。ヴォルフは頷いた。
「はい。人々は、ひどく……怯えているようでした」
「何に対してだね?」
「言ってもよろしいのですか」
「よい。きみは賢そうだ。もうわかっているのだろう」
「それは、陛下、他でもないあなた御自身と──」
ぶどう酒を、卓に置く。ことりという音とともに、胸に妙な疼きが生まれた。
「──それからあなたの妹姫様に対してでございましょう。」
「そうだ。彼らはわたしたち城に住むものをひどく恐れ、また憎み、抹殺しようともくろんでいる」
ザックスは両の手で赤く豊かな髪の毛を後へと撫で付け、それからひげについたぶどう酒を右手の甲で拭った。黙ってさえいれば、まことの王者と言って差し支えない人物だ、とヴォルフは黙々と食事を続けながら考える。『狂人』ザックスの噂を、おれは真か否か見極めなければならぬ。
「きみは、シェーネをどう思う?」
突然尋ねられて、固まった。
どのような意味の質問なのか理解できず、しばし沈黙を守る。あの姫。あの、見たことの無い異国の顔立ちをした、美しい黒髪の、すばらしく頭のいい……
「お願いがあるのだ。シェーネを愛さないでくれ」
なに?
「あの子は、異端だ。見ればわかっていると思うが、フランクよりはるか、遥か遠くの、異国より迷い込んできた哀れな娘だ。この地にはない知識を、医学を、道具を知っていて、我々の解することの出来ない謎の言葉を話すことが出来る。ゆえに、迫害されている。恐れられている。狙われて、いるのだ。聞いたのだろう。異国の美姫とはあの子のことだ。吸血鬼も、魔女も、城にすくう悪魔というのも全て、あの子のことなのだ。わたしはそれを否定しない。わたしはあの子を救って妹姫として育てているが、それでもわたし自身あの子のことがいまだに恐ろしい」
「……ザックス、陛下?」
「興味本位で手を出さないでくれ。わたしはあの子を守りたい。あの子を家族として愛している。シェーネに、恋を、しないでくれ。頼む。背かれればわたしはきみを殺さねばならぬ。」
──恋など。
恋など、するわけがないではないか、と思った。考えた。
けれどどうしたことだ、胸がはりさけそうにきしんでいる。ザックスの言葉に深い悲しみと憤りを覚えている自分がいるのだ。
「リヒター騎士。良いな。シェーネに恋をしてはならぬ。背けばきみを殺す。忠告したぞ。明朝からもあの子はきみの看病をするだろう。だが務めて冷たく、機械的にふるまってくれ。余計な言葉も行動も、一切きみには許されていない」
「……陛下!」
ヴォルフが食事を終えたのを見届けて、食器を下げようと部屋を出て行くザックスの後姿に、ヴォルフはとっさに呼びかけていた。巨大な背中は振り向かない。静寂の訪れた部屋に、ヴォルフは自分の声を響かせた。
「それは、王としての頼みか、兄としての頼みか。なぜそのようなことを、私などにお申し付けになるのです」
ザックスは、しばしの迷ったような沈黙ののちに、ようやっと一言だけを呟いて、去った。
「……両方だ。」
その夜ヴォルフはあまり、眠れなかった。