第25話 過去の刻印
ルドラは走った。宮殿を出て厩舎へ向かう。鞍を載せた馬を拝借し、王宮の門を抜け、白みかけた空の下を疾駆した。
嵐の神を意味する名を冠しながらも、彼の動きは森をゆく獣のように静かだった。
プラカーシャ王国の摂政であるサンジタには、富裕者の住まう区域に大きな邸宅が用意されている。
このところ本人が帰ることは珍しいようだが、それでも少なからぬ使用人が常に控えているという話だ。
彼らに見つかることなく、求められているモノを――サンジタの犯罪の証拠を持ち出さねばならなかった。
ここであろうという屋敷を見つけ、通りの角にそびえる木に馬をつなぐ。
門番の目を盗んで塀をよじ登り、邸内に忍び込んだ。
屋敷は実に立派なものだった。丁寧に整えられた庭には松明が灯され、木々が白い壁に揺れる影を落としていた。
白檀の香りが漂ってくるのは、屋敷の主人の部屋のあたりからだろう。その反対側に下男や下女たちの部屋があるはずだ。モノがあるとするならば、きっとそこに違いなかった。
足音をひそめ、影に隠れながら建物の裏手へ回り込んだ。
裏口を見つけて手をかけてみる。鍵はかかっていなかった。そっと扉を押し開けると、古い木の軋む音が暗がりに響いた。
(――誰かに聞かれたか?)
周囲の薄闇を見渡す。消えた松明の臭いが鼻を突いた。
もうすぐ夜が明ける。早くしなければ、あの女が処刑される。
……別に、構わないのだが。
ジャヤシュリーが――もう一人の〈炎神の験〉候補が、命を落とそうと何だろうと。死んでくれた方が、こちらとしてはむしろ好都合だ。
だが、あの女の言うことが真実かどうかを調べてこいというのは、アラヴィンダ殿下の命なのである。
あのお方のことだけは何があろうとも決して裏切らないと、自分は決めている。
――ふと、廊下の曲がり角の向こうから足音が聞こえた。
ルドラは壁に身を寄せ、じっと待った。
相手が姿を現わしたところで組み伏せ、口を塞ぐ。風体からして下男だ。夜明け前に仕事を始めようというのだろう。
下男の口から手を離し、すかさず首筋に小刀を突きつけた。
「下女の部屋はどこだ」
冷たい刃をぴたりと当てられ、男は震えながら近くの部屋を指す。
男を後ろ手に縛り上げ、さるぐつわを噛ませて転がしてから、ルドラは示された部屋の扉を押し開けた。
すれば薄闇の中で、目を覚ました下女が二人、小さく悲鳴を上げた。
「声を出すな」
低く言い、手の中の小刀をちらつかせる。
下女たちは口を手で覆い、震えながら身を寄せ合った。
「黙っておとなしくしていれば、危害は加えない。分かったな」
年嵩の下女がこくこくと頷く。ルドラは彼女を見やり、静かに命じた。
「明かりをつけろ」
下女は寝床から立ち上がり、震える手で油灯をつける。ぼんやりとした光が部屋を満たした。
部屋の中を見回すと、古い棚が部屋の角に置かれていた。置かれた物が落ちるのも構わず、壁から引き離して裏面を露わにする。油灯を手に取ってかざすと、傷だらけの裏板が照らし出された。
――ただの傷、ではない。
文字だ。つたない、小さな文字が刻まれている。
ルドラは文字に顔を寄せ、書かれたものをどうにか読み取った。
『ねえさん が また つれて いかれ た』
『ないている こえ が する』
(姉さん……?)
誰のことだ。その先の文字は乱れていて読み取れない。
油灯を動かし、視線を移す。また読める文字が目に入った。
『ねえさん は とおい むら の ひと』
『みやこ へ はたらき に きた』
『かぞく のところ へ かえりたい と いってる』
『あたしも おなじ』
――遠い村の人。
その言葉に、ずきり、と痛んだのは何だ。
同じく故郷をあとにしてきた自分の心か――村を去ったまま姿を消した、母の記憶か。
指先で文字をたどる。次に読み取れた言葉は、こうだった。
『あたし は とおい むら の こども』
『うられ て ここへ きた』
『さんじた は あたし を さわろうと する』
『ねえさん が たすけて くれる いつも いつも』
「……っ」
ルドラは小さく息を呑んだ。
これではないか。アラヴィンダ殿下がおっしゃっていたのは――ひいては、あの女が言っていたことは。
(真実、だったのか)
古びた文字をもう一度、指先でなぞる。そして油灯を床に置き、棚の背板に小刀を突き立てた。
安物なのであろう背板は脆かった。木っ端を散らしながら問題の箇所を切り取り、腰帯に挟んだ。
ぽかんとしている下女たちを最後に一瞥し、部屋を出る。廊下でもがいている下男をまたいで、外へと急いだ。
いつの間にか空は明るくなっていた。周囲の邸宅からも起きてきた人の気配がする。
もはや見られても構うまい――時間までに処刑場に着くことが先決だ。庭の芝の上を走って突っ切り、塀を登って外に跳び下りる。繋いでいた馬に駆け寄り、背に飛び乗って王宮へと走り出した。
間に合うか。間に合うだろうか。
アラヴィンダのことを思う。今度こそ彼の期待に応えられるのだ。
ひそやかな歓びに口元が上がる。
だが――次いで脳裏にちらついたのは、どういうわけか。
見るたびにどこか哀しげな、あの女の瞳だった。




