第24話 牢獄の王子
――全身が痛む。
もう二日近く、鎖に繋がれている。無駄だと知りながらも逃れようと試みたせいで、黒い手枷の下の皮膚は切れ、絶えず血がにじんでいる。
衛兵に呼びかける声も一日で嗄れた。いくら訴えても誰ひとり、耳のひとつも貸しはしなかった。
ダルシャンはどうしているだろう、とジャニは思う。
彼が捜してくれているだろうことは疑っていない。だが、自分の足跡を正確に追う方法はないだろう。
彼がたどり着くころには、とっくに手遅れだろう。処刑はもう明日の朝に迫っているのだから。
夜明けは近い。
自分が殺されたと知ったなら――彼は。
いったい、どう思うのだろうか。
(ごめんなさい……ダルシャン様)
視界が濡れる。まぶたを伏せたとき――長い石段を誰かが下りてくる音がした。
衛兵の交代だろうか、と思って顔を上げる。
だが松明の炎に照らされた人影を見て、ジャニは息を呑んだ。
「――アラヴィンダ殿下?」
殺された王妃ラマニーの子、第二王子アラヴィンダ。
彼が直接、地下にある独房へと足を運んで、ジャニに会いにやってきたのだ。
王子の姿を見てとった衛兵たちが慌てて敬礼する。アラヴィンダは彼らに手ぶりで下がるように命じた。
衛兵たちは混乱したようだったが、王子の命令には逆らえない。順々に階段を上り、姿を消した。
「殿下……どうしてここに」
ジャニが問うと、アラヴィンダはぐっと唇を引き結ぶ。
やがて開いた口から、静かな声がこぼれ出た。
「――なぜ母を殺した。理由を聞かせろ」
ジャニはうつむく。深く息を吸い、再び顔を上げた。
「私ではありません」
アラヴィンダの目元が小さくひくついた。
常のジャニであれば、恐ろしいと思ったことだろう。だが、ここしばらくの出来事の中で、恐怖を感じる心をどこかへ置いてきてしまったようだった。
「信じてはいただけませんでしょうが――事件の夜、私はスヴァスティではなく、パラーンタカ近郊の町におりました。私の姿を見ていた人々もいることでしょう」
アラヴィンダの顔をまっすぐ見て、静かに言葉を重ねる。
今の自分にはただ、事実を語ることしかできない。ならば、それを過たず行うより他にない。
「証言者を探すのはそう簡単ではないだろうと思いますし、お前は魔女だから可能なのだと言い張られれば、言葉の返しようがございませんが……」
アラヴィンダはしばらく黙していた。
彼の顔には元々、表情が乏しい。何を考えているのか分かりづらいところがある。
だが、今の表情は読み取れる気がした。なぜなら、ジャニも知っているものだったから。
これは、痛み。――自分の生と強く絡み合う存在を失ったときの、空虚にも似た痛みだ。
彼とラマニーがどのような関係だったのか、ジャニは知らない。
婚礼の報告をしたときのラマニーの様子を思うと、アラヴィンダには果たしていかなる母親ぶりだったのか、どうにも想像がつかなくなる。
それでも、アラヴィンダは何らかの形で、母と強い結びつきを有していたのかもしれない。だからこそ、己の心に決着をつけるために、母が死なねばならなかった理由を知りたいのだろう。
そう思ったとき、第二王子の口がようやく再び開いた。
「ジャヤシュリー妃よ、あなたでないとすれば誰が殺したのだ」
ジャニは固唾を呑んだ。とうてい信じてはもらえないだろうことを、自分は今から言うのだ。
「……僧侶インディーヴァラ、あるいはその師、摂政サンジタ」
「何?」
案の定、アラヴィンダは眉根を寄せた。ジャニは彼の目をまっすぐ見返し、両手首を持ち上げてみせた。
「ご存じでしょうが、私にこの枷を嵌めて炎の力を封じたのは、インディーヴァラです。そのとき、彼は言っていました。『殺したのがお前であろうがなかろうが、どうでもよい。お前だということにする必要があるだけだ』――と」
「確かにインディーヴァラは、凶器の発見者であり、お前の逮捕者だ――だからこそ、あの地域にいたことにはなるが……」
否定の材料を探そうとするアラヴィンダの声に、わずかな惑いが覗く。ジャニは畳みかけた。
「それに、サンジタは鷹に変じることができます。彼の使うマントラについて詳しくは存じませんが、スヴァスティへ飛んでいくことも可能なのではないですか? 彼はこの数日間、どこにいたのです?」
「……潔斎のため、寺院に身を閉ざしていたはずだ」
「本当にそうだという証拠があるのですか? 私の言うことに裏付けがないのならば、彼らの言い分も同じことです。彼らをお信じになり、私を疑われるとしたら――それはなぜなのですか。彼らの言うことはすべて正しいという前提は、本当に揺るがないものなのですか」
じっとアラヴィンダの顔を見つめる。どこかダルシャンの面影のある顔を。
彼はやがて気圧されたように視線を逸らし、低い声をこぼした。
「だが――得心がゆかぬ。なぜ、あの者たちが我が母を殺す必要があった?」
「私には分かりません。でも、サンジタが国の実質的な最高権力者としての地位を手放したくないのだとしたら、あなたやラマニー様を――あるいはダルシャン様と私を、敵と見なすことは不思議ではないと思います」
アラヴィンダは再び黙した。足先が何度か小さく地を打つ。
やがて、呟くような声がジャニの耳に届いた。
「我が〈験〉――ルドラが申していた。サンジタが未だに正式な〈炎神の験〉を承認せぬのはおかしいと。あやつは権力の座にしがみつきたいがために、あれこれと理由をつけているのだ、と」
ジャニははっと目を見開いた。内々の承認はもう済んでいてもよいころだと思っていたが、まだだったのか。
そうすればなおさら、サンジタの動きに筋が通るように思える。
アラヴィンダもしばらく考え込んでいた。松明の火がじり、と音を立てる。揺れる明かりに照らされて、彼は再び口を開いた。
「玉座の間で、サンジタが女子供を買ったと言っていたな」
「……はい」
「お前の言う証言者とやらは何者だ? 今、どこにいる?」
ジャニは小さく息をつき、目を伏せた。
ディーパたちのことを思うと、心がひどく沈んだ。
「私たちがお世話になった旅芸人の女性です。パラーンタカで別れました。……今の居場所は分かりません」
「旅芸人、か。おそらくは隷民か、それにも満たぬ身分であろうな。宮廷の者たちが証拠として認めるかどうかは疑わしいぞ」
言われてジャニは唇を噛んだ。この国における身分の壁は、かくも高く、かくも残酷だ。
アラヴィンダの目が、うつむくジャニに向いた。
「他の証拠は提示できないのか? もしサンジタを揺すぶることができれば、母の事件の真実も引き出せるかもしれぬ」
その言葉を聞いた瞬間、ジャニの頭の中で何かがチカリと光った。
これは何だ? 自分は今、何を思い出しかけている?
必死に記憶の糸をたどり――ふと、いつかのディーパの声を聞いた。
――起こった出来事……か。もっと単純な方法で残すしかないときもあるけどね。
――あたしはさ、あいつの書物を勝手に読んで、字を覚えてやったんだ。
――覚えた字で、召使い部屋の棚の裏に、あいつがあたしと『姉さん』にしたことを全部刻んでおいてやった。
「……っ!」
ジャニの呼吸が一瞬、止まった。
アラヴィンダは小さく息を吸い、ジャニを見やった。
しばしののち、地上にある牢獄の入口で待機していた黒髪の男が、宮殿の外を目指して走っていった。
男――ルドラが目指すのは、摂政サンジタの私宅。
彼が探すものは、この国を揺るがすかもしれない文字の連なりである。




