学園
まだ『学園』に生徒の声が溢れていた頃。
そこには、セイも愛梨須もアイリーンもいた。
そして、皆が 笑っていた。
ずいぶん変わった学園だと思ったのは確かだ。
真っ赤に燃える太陽が沈んでゆく。
何処までも続くとさえ思われる 見渡す限りの丘陵地帯を覆いつくす麦畑の向こうへ。
一番近くの街へさえ数時間掛からねば辿り着けない 長く長く続く農道を、一週間に一往復だけの古ぼけたボンネットバスが 走り去って行く。 それは、まるで金色の大海原を行く小舟のように見えた。
カーン カーン…と 一日の就業を報せる『聖アントニウス学園』のシンボルと言える尖塔の大時計が 甲高い鐘の音を響かせている。
学園を取り囲む大門を見下ろす窓辺に立ち その鐘の音を聞いていると、なぜか それが 住み慣れた街への永遠の惜別を告げているように思えた。
そろそろ自室へ戻り 身なりを整えなおして、夕食の並ぶ大食堂へ向かわねばならない時刻だというのに 私は、今や 判別もつかないほど小さくなったバスのシルエットから目を離せないでいた。
その背後を、一日の授業が終わった安堵の声や騒がしい友人同士の笑い声が通りすぎてゆく。
私は、訳もなく気分が落ち込む自分を感じていた。
「アリス、どうしたの?」
深く暗い思考の底に沈み込みそうになっていた私は 不意に現実世界へと引き戻された。
振り返ると そこには 少し心配そうな笑顔のアイリーンがいた。
「その名で 呼ばれるの好きじゃない」
私は あまり不機嫌さが面に出ないようにと願いながらも 多少 つっけんどんに そう返さずには いられなかった。
「私の名前は 愛梨須…エリスよ。 そんなお伽噺に出てくる女の子のような名前で呼ばないでほしいわ」
けれど、これは いつものことだ。 アイリーンは 気にせずに言う。
いや、物思いに沈む私の気を引きたてようとして わざと アリスと呼んだのかもしれない。
「えー、だって、アリスの方が可愛くて好きだな」
そう、このアイリーンという同級生は 少々他人の気持ちに鈍感で 我が儘なところがある。
けれど、学園の中でも 浮き気味になる私にとって 唯一の友人と言える存在だった。
「ほんと、やになるわよね。 こんな監獄みたいなところに閉じ込められて、毎日 毎日 つまらない講義ばっかり。
たまには 街に出て、美味しいものを食べたり 可愛い服を探したりしたいのに」
そう、アイリーンは こう見えて(失礼!) 成績優秀 眉目秀麗、おまけに 裕福で 由緒正しい貴族の家系に生まれたお嬢様なのだ。 だから、そんな彼女が 私なんかを 気にかけてくれるなんて なんの気紛れなのか、てんで見当もつかなかった。
「仕方ないわ。 私たち一年生は この学園に馴れるために 半年間は 外出出来ない規則なんだから」
「規則、規則、規則!!」
アイリーンは 大袈裟な身振りで 不満の意を表した。
「分刻みの決まりきった毎日のスケジュール。 外出禁止の私たちにとって 唯一の楽しみのはずの食事は、ライ麦パンと塩っぱいだけの薄いスープに僅かばかりのソーセージか薄っぺらいハム。
たまには 青々とした野菜や果物や甘いお菓子をとらなきゃ!
こんなんじゃ、私の美貌が損なわれちゃうわ!!」
お菓子は 別としても、アイリーンの言うことにも一理ある。
けれど…、
「仕方ないわよ。 街に出たって、ここ数年の不作で 街一番の市場へだって、 いろいろな野菜や果物が入らなくなってきているって噂じゃない」
「そんなの、外への関心を無くして 私たちを学園に閉じ込めておくための嘘かもしれないじゃない。
この学園の中にいたら、新聞も雑誌も規則で読めないんだから」
確かに この学園の規則は 異常だ。
まるで、情報統制がしかれている戦時下か、アイリーンの言うように囚人を閉じ込めておく監獄のように感じる時もある。
けれど、それは この学園へ入学した時から 分かっていたこと。
国中から集められた優秀な若者を 一切の世間一般に溢れる下らない些事から隔離して、年々疲弊してゆく この国の…、いや この世界の『苦難』から立ち直る術を探しだすことのできる人材を育て上げるのが目的なのだから。
「仕方ないじゃない…」
「ほら、また それだ。 いつも 仕方ない。仕方ない。 そんなんじゃ、何も変えられないわよ。 ましてや、この世界を変えることなんて!!」
アイリーンは、その血統のゆえか、プライド高く 自分の理想を実現しようとする熱意を 誰よりも強く持っている。
そんな彼女を 羨ましくも思いながら、私は 仄かに疼く嫉妬を感じずにはいられなかった。
彼女に 私の何が分かるというのだろう?
貧しく 平凡な農家に生まれ、一生 自分の土地でもない 悪夢のように広がる国家の所有する麦畑を耕作してきた両親を見続け、自身もまた 幼少の頃より 農作業に駆り出され 親の親の そのまた親と同じ道を辿るとしか考えられなかった幼少時代。
5人もの兄妹の末っ子だったから 子供に学を与えるような余裕など はじめからなく、義務教育だったはずの学校へも まともに通わせてもらえず、未来に絶望しかけていた時に、不意に訪れた幸運。
どうして、自分が 選ばれたのかは さっぱり分からなかったが、生まれ育った街で 只一人選抜され この学園へ送り込まれてきたのだ。
(もっと、もっと、学べる。
この生活から抜け出せるための術を身につける機会を与えられる)
愛梨須にとって、
不満などあろうはずがなかった。
…なかったはずなのに。
「なに、ぐずぐずしてるんだよ。 さっきの鐘が聴こえなかったのか?
夕食の時間に間に合わなかったら、先生に どやされるのは お前たちだけじゃなくて、同じ班の俺もなんだからな!!」
いつの間にか、アイリーンの後ろに 同じ一年生クラスのセイが立っていて、息を切らせながら 一気に そう捲し立てた。
ふと気づくと 窓の外は 夕刻のオレンジ色の空から赤紫のグラディエーションを経て、濃い紫色の夜の帳が降りようとしていた。
「ごめん!!」
私とアイリーンは 同時に セイに謝ると、規則を無視して 大食堂へと続く長い長い廊下を駆け出していた。
To be cotinued……
何気ない学園の日常に、黒い影が忍び寄り始めたのは、このすぐあとからだった。
けれど、それは全て 何者かの計画に沿った物事。 けして、行く先の変えられない線路の上での出来事だった。