1章:妖精族のアルー8
目の前が一瞬だけ白くなった後、ジュリアは先程までとは全く違う場所にいた。幻界ということは確かなようだが。状況を飲み込めないまま立ち尽くし、辺りを見回す。
そして、ジュリアは背中を向けて立つ桃色の髪の少年を見つけた。
ジュリアが気づくとほぼ同時に少年は振り返る。予想した通りの金色の瞳が姿を現わすが、ジュリアの記憶よりも濁っている。少年はすごく疲れているようで、着ている服はあちこち破れどろどろに汚れいた。
「あなたは誰ですか」
「わ、私は人族のジュリアよ」
「はあ? 人族がこんなところに? ……どうして僕たちの言葉がわかるんだ」
少年特有の軽やかな声に似合わない険のある声音で少年はジュリアを警戒する。
どうにかしないといけないと焦るジュリアの心に誰かが囁きかけてきた。聞いたことのある声だった。ジュリアは朧げに自分の役割を知る。
「あなたは神子になりたいの?」
少年は瞠目する。何か言いたそうに口を開くが言葉は発されず、やがて、体の力を抜いた。
「なんだ、姿が変わっただけですか。何度も言いましたが、僕は神子になりたいんです。間違いありません」
「姿が変わったって、どういうこと?」
「えっ……、あ、あぁ…………。同じ役割なだけで、別存在は別存在ですか」
ジュリアの質問に答えず、少年は一人で納得して頷いた。
「そういうことであれば自己紹介をしますね。僕は妖精族ルディッカの民、トミア・リベセニックです。短い間になるでしょうが、よろしくお願いします。早速ですが、安全な場所へ逃げましょう」
「え、ええ」
トミアはジュリアの腕を掴むと強引に引っ張って行った。
トミアはリベセニックと名乗った。リベセニックは確かアルーの姓である。おそらく、目の前の少年はアルーなのだろう。そうなれば、着いていく他に選択肢は無い。
そう考えているうちにジュリアは木で出来たドームの中へ連れてこられた。中は狭く立ち上がることができないため、自然と座ることになる。二人は並んで座った。
「まじないをかけているのでここは取り敢えず安全です」
「そうなの。子供なのに凄いのね」
「当然です。神子候補ですから。……下から数えた方が早いくらいですがね」
トミアは吐き捨てるように言った。
「今は神子選定の儀式の途中なんです。儀式と言っても、候補者を幻界へ放り込んで妖獣と契約して帰った者を神子とする、極めて嫌な選別作業なんですかね」
「そっか」
「どうせ、もう神子は決まってるんです。僕は妖獣と契約できてないし、僕より優秀な候補者はいっぱいました。死ぬだけなんです。なりたかった神子にもなれずに」
返す言葉が見つからず、ジュリアはトミアの手をそっと握った。トミアの手は荒れており、決して心地よい手触りとは言えない。
「ジュリア?」
「死なないわ、あなたは。絶対に」
「何を言ってるんですか。妖獣と契約してないのに、みんなのところへ帰れるわけがありません」
「だったら逃げたらいい。逃げるのも悪くないよ」
「あなたは……。丁度いい馬鹿女ですね」
ジュリアは強い力で押し倒された。後頭部を強かに打つが、それを気にしていられないほど強い視線で見下される。
馬乗りになっているトミアと目が合った。
「自分の身を護ることにいっぱいいっぱいの幻界で、どうして助けられたかわからないわけがないですよね? あと、あんたは子供といいましたが、これでも成人済みですよ」
トミアは片手でジュリアの服をたくし上げた。胸と腹が外気に晒されジュリアの肌が泡立つ。
彼は誰だ。
自分の目的と彼の姓から、ジュリアは勝手にトミアがアルーだと思い込んでいたが、ジュリアの知るアルーは決してこんなことをしない。出会ってから間もないが、アルーは紳士的で、ジュリアのみならずロイにも優しい。
「貧弱だなぁ」
少なくとも、このように嗤う姿は想像ができない。
トミアの手が肌の上を這った。言葉にならない嫌悪感、絶望感、恐怖感が身体を埋めていく。怖い、怖い、怖いと体が悲鳴を上げる。
「やめて、アルー!」
手の動きがぴたりと止まる。トミアは呆然としていた。
気のせいか先程よりも生気が戻った瞳のトミアはジュリアの服を元に戻し、馬乗りになったまま力なく腕を垂らした。
「やめてください。その名前は僕のものにはなりません」
「どうして? 大きくなったら変えるものじゃないの?」
「違います。だって、アルーは神子の名前です。神子になれない僕が貰える名前じゃない」
声音は絶望に染まっていた。トミアにとって、神子になることはとてつもなく大きなことなのだろう。
「そんなに神子になることが大事?」
「大事です」
「そんなに辛そうなのに?」
トミアは口を噤んだ。じっとジュリアを見つめ、何か話したそうにするが結局言葉は出てこない。
ジュリアはトミアを包むように抱き寄せた。
「私はあなたが辛いのは嫌よ」
「…………」
「あなたの決めたことに間違いは無いと思うけど。思うんだけど……。上手く言えないね」
「ジュリア」
「うん?」
「僕、嫌です。神子になりたくないです」
トミアは嗚咽した。体を震わせ、必死に堪えているようだが止まらない。その背をジュリアは静かに撫で続けた。
「だって、修行は辛いですし、馬鹿にされますし。神子になったら、外へ出られなくなります。僕はそんなの絶対に嫌です。もっと外を見たい。でも、僕は神子にならなきゃダメなんです。怖いんです」
「それがあなたのホントの気持ち?」
「助けてください」
泣いて縋るトミアにジュリアは頷いた。アルーが助けを求めているのだ。どれだけ助けになれるかはわからないが、手を伸ばさない選択肢は無い。
確実にトミアへ伝えるためにジュリアは口を開く。その瞬間、ジュリアは別の場所へ立っていた。木の板で囲まれた薄暗い室内に立っている。先ほどまで腕の中に抱いていたトミアはもういない。
戸惑い、小さな声でトミアを呼びながら恐る恐る室内を移動していると、出入り口に垂れ下がっていた布が持ち上げられた。
「こんな時間に誰ですか?」
心配そうに入ってきた人物の姿を見てジュリアはぴんと背筋を伸ばし、硬く自分の両手を組む。
「ジュリア、なんですか……?」
ジュリアの姿を見て泣きそうな、それでも喜びに溢れた表情を見せたその人物はジュリアがよく知るアルーだった。