ここではないどこか
車が秘密のコロニーの入り口へと差し掛かった時、既に外界は薄闇に埋没していた。
私は右の手首を少し上げて、青のミサンガを揺らした。
それは大陸での修行中に、町の露店へと降りた際に二人で購入した物。
あの時込めた願いをぼんやりと思い出していると、急に大きな後悔が胸に騒いだ。突き刺すような痛み。
その迷いを振り切るように、秘密結社の根城を見つめ直した。なんてことはない、ごくごくありふれた日陰の路地。
車を降り、屈強な男たちに取り囲まれながら私たちはその巨大な公共住宅裏口の門戸を潜り、古びたエレベーターで十三階へと上昇した。
甲高いモーター音と共に扉が開いた時、そのフロアーの異常さは即座に察知出来た。
およそ五十坪ほどの広さの部屋が九つ。
どの部屋からも小さなモーター音がドア越しに聞こえてくる。シューシューと唸る限りなく小さな低音。
琴音ナナの引導で1301号室の部屋へと足を踏み入れた時、まず最初に目に飛び込んできたのは大仕掛けの座椅子とヘッドギアだった。
至る箇所に配線が駆け巡らされた、大人一人分の大きさのロッキンチェアーと、中折れ帽のような形をした楕円形の頭部拘束具。
その広い部屋の中央部には、四人の男女が横一列に並んでいた。誰もが皆、安らかな表情で目を閉じている。
その内の一人はまだ七歳ぐらいの男の子だった。
「……まあ、そういうことだとは思ってたけど」
「そう! まだ試用運転の段階だけどね」
部屋を移して次々と展示されるその異様な風景をまのわたりにする度に、胃の淵で不快な感触が騒ぐ。
ここではないどこかへの脳内旅行。
解説によると監視網の張り巡らされた既存のネットワークとは違う、独自に開発された新しい仮想空間──通称「仮想宇宙」とのことだ。
いずれは完全なメディカルケア・システムを搭載させることで、一日の二十時間以上を身体的な負荷を掛けずに「向こう側の楽園」で過ごすことが可能となるらしい。
「──ごめん、正直に言うね。くだらないよ。あの厄介な記憶データの時も思ったけど、こういうのが好きなの? いくら集合的無意識を掘ったところで、それはまやかしでしかないんだから」
各部屋の案内が終わり、屈強な男たちに囲まれた琴音ナナは廊下の少し先を歩いていた。
「そんで見たところ、今は少数運営で人手不足。そりゃ、あたしらの梵の力は喉から手が出るほど欲しいだろうね。訓練すれば、ああやって巧妙な『細工』も出来るぐらいだから」
再びエレベーターに乗り込んだ時、彼女はあの被検体たちと同じぐらい安らかな表情で私を振り返りながら言った。
「このグループは、『キラー・ビーズ』と名乗ってるの。少しでもこの浮き世を離れて生きてゆくための知恵よ。『マトリックス』って映画を観て思い付いたの。こないだの演習の件もあって、今じゃ指定認可地区も大変なんだよ。どこのメンタル・クリニックもパンク状態。最後の頼りになるのは闇医療だけ。それでうちがこうやって急拵えしたって訳」
この悪徳都市から逃れ、束の間の安息を手に入れた蜜蜂たちの巣。
──皆様、国民が真に享受すべきなのは『フリーダム』ではなく、『リバティー』であるのです。前者は常に『外側』へと向かい、いずれは混沌と無秩序を引き起こしかねません。しかし後者は『内側』に築き上げることが出来ます──
この宇宙を統べる超能力少女に頭部を吹き飛ばされた、あの新市長の言葉が脳裏にリフレインする。
フリーダムという名の赤い薬。
リバティーという名の青い薬。
エレベーターが静かに降下する音が、まるでさざ波のように耳元に聞こえてきてふと我に返った。
疲労の波が身体に押し寄せるのを感じる。映画の「マトリックス」。あれは彼女としては、ドンパチ満載の戦争映画にカテゴライズされなかった訳か。恐らく三作目は未視聴なのだろう。
屈強な筋金入りたちの護衛の元、私たちは速やかにその根城を後にした。
そこはまるで、この二一六〇年におけるアヘン窟のような異様さだった。
「ここではないどこか」は門の向こう側だけでなく、他でもない私たち自身の頭の中にも存在していたのだ。
夜のコーヒー・スタンド。最早どこの通りの何番街の店なのか尋ねる気力もなかった。
脱力した四肢に何とか力を入れながら、私は眼下の小洒落た白いカップを手に取る。その中に入っていたハーブティーは無味無臭だった。
「今では全員でその集合的無意識の空間を繋げて、より向こう側の世界を開拓していくための訓練中。でもこれから色々と外部への電磁波阻害装置を増やしたり莫大なコストが掛かるから、やっぱり現実世界でのセキュリティーは不安なんだよね」
体内時計は九時を過ぎたところだ。大きな長方形のガラス窓の向こうでは、娯楽を享受し終えた後の人間や機械たちがぽつぽつと帰路に着いている。
完璧な気配断ちをしている私たちの側を通り抜ける指定認可地区の住人たちと、冷めきった空気の流れ。
どこまでも透明で、儚い空気を身にまとった少女がここには二人。
閑散とした店内に、先程までの護衛たちは一人もいない。驚いたことに、彼らはそれぞれの持ち場へとそそくさと切り上げてしまったのだ。
現在、二十畳ほどの空間は頭上に吊るされた複数のカンテラ型ランプによって照らし出されながら、この静かな夜をそっと演出していた。
はっきり言って、とても良いムードだった。目の前に座っている茶髪のウィッグを付けた少女が自分の細胞を持つクローン検体であり、世界を容易に滅ぼすほどの力を持っている超能力者でなければの話だが。
「アイドル活動をすることで、私はまさに人々の偶像となる。それが各々の共感能力をよりブーストさせるの。知ってるでしょ? より深い、深い『臨場感』の中に被験者を誘うの。それに可愛い歌とダンスってのは、日々大衆に向けて発信される立派な魔術なんだよ。お金だって稼げるし。何より重要なのは、こうやって経済活動さえ派手にブン回してれば、あいつらは色んなことを見逃してくれるってこと。結局、『生産』と『消費』のサイクルが他の何よりも重視されるからね、この時代は」
「ふーん。じゃあ承認欲求も満たせて一石三鳥だね」
「……ねえ、何で一々そういうこと言うの? ちょっと、本気で怒るよ?」
「……うそうそ、冗談……マジで殺さないでください」
青白い闇とは対照的な温かいオレンジ色の明かりが頭上に灯る風景の中で、彼女はチーズケーキの一欠片を口元へと運んでいる。
私は微睡みの中、搾り出すようにして呟いた。
「……でも、あの『夢社会』の楽園の究極系は、きっと辺獄になるんでしょ?」
「凄い、察しがいいねルカちゃん。うん、ちょっと可愛げがないかもね。チエちゃんも苦労してんだろうな……なんちゃって」
「うん。あたしの、一心同体の──その大切な人が教えてくれたよ」
琴音ナナは目を瞑りながら、頷くようにしてコーヒーカップを両手でゆっくりと飲み干した。再び開いた彼女の瞳は、このDNAの境界越しにも分かるほど澄み切っていた。私と同じ形、私と同じ細胞組織。ただ、その目の奥に潜む本質だけが異なっている。
見据える未来が、私とは確かに違っている。
「『1+1=2』──これが論理の象徴。『2+2=5』──これが非論理の象徴。じゃあそもそも私たちが当たり前に使ってきた、その『+』という記号の意味は何? それを解明することは、私たち人間のこれまでの過去の歴史を解明するのに等しい。つまり、全ての過去を抹消し、新しい未来を築いてゆくこと。全ちゃんが構築したこの論理的に正しい新時代の全体主義社会は、その計算式の存在すらなくしてしまった。これが、『ロジックを度外視したロジック』ということ。不可逆的に禁止事項を『+』していって、遂には論理そのものから論理を切り離してしまったんだよ。分かる? 『論理的であることを突き詰めれば、論理的である必要はなくなる』んだよ。何故ならね、実際の面で使われる論理ってのはその都度流動するものであって、常に絶対的な解が定まってる訳じゃないから……科学の論理も、法律の論理も、政治の論理も、倫理の論理だって厳密にはそれぞれ違う訳だし」
「何それ、極論じゃん」
「そう、極論の上に成り立つもんなんだよ。ディストピアっていうのはさ」
私は溜め息を吐いてガラスの向こう側の世界を見やった。いつも理解出来ないのだ。こうやって人々が、まどろっこしい哲学の迷宮へと入り込んでしまうこと自体が。
「ぜーんぶ、全ちゃんの掌の上だったってこと」
「もういいよ、はぐらかさないで。元は私たちの宇宙でも、過去にそんな思想体系で運営されてきた国家があったらしいけど、どれも上手くいかなかった。技能爆発によって、管理社会の徹底された小国が水爆や核ミサイルを保持すること。それは他の大国連盟への牽制になるから。武力装置そのものがその大きな均衡を乱すんだよ。だから何度も戦争が起きる。その哀れなタカ派の小国は周りに滅ぼされる」
琴音ナナは大きく伸びをした。
通りの車のテールランプが、欠伸を噛み殺している彼女の横顔を一瞬だけ照らして過ぎ去っていった。
「うん、まあそんな感じかな。やるじゃん。強大な武力装置そのものがその均衡を乱す。今の君のことだよルカちゃん。そしてその勝手気ままな『性質』は、完全に私の方にも流れ込んでいるんだよ」
「受け売りだよ、全部。うちの人たちの……その件に関しては、少しは悪いと思ってるけど」
「そうだよ。現に全ちゃんは今、こうして達成してしまった訳だからね。過去にドンパチやってた相手をいつまでも仮想敵にして、未来永劫、海の向こうにある戦争には巻き込まれない平和な国というものを。そして、最後に消し去りたいのが君とチエちゃんの恐るべき子供たち二人ということ。君たちレジスタンスの長年の攻撃が実を結んだ故障。それもいつかは修復される」
「……そんなんインチキだとしか思えないけどね。結局、恐怖と緊張状態による支配でしかないし」
「だから逆に言えば、この世から戦争の概念がなくなるなんてことはあり得ないんだよ。それは人類史から疫病がなくなるってのと同じぐらいあり得ないから」
「それで、二分化された階級社会については? 人々が急に、街中で撃ち殺されなきゃいけない理由は? 今の全に起きてる故障……それ自体が意図的なものだとして、そんでネット上に分散してたらその親玉を満足に叩くことも出来ない。じゃあ、私たちに出来ることといえば──」
「あの通信社の連中を、お偉いさんから末端まで全員殺して回ることだとでも言うの? あのロボトミーされた骨抜きのブリキの兵隊たちを、何匹殺して回ったって何にもならないんだよ? ルカちゃん、君は最初からそのことに気付いているよね? そんなことをしても、何の意味もないことに。梵は自分がイメージ出来ないことは、出来ない。知ってるよね? 他でもない、君たちにとっての革命がそうなんだよ。だから、最初から表立って歯向かう素振りなんか見せずにさ……大人しく指定認可地区で大道芸人でもやってればよかったんだよ。君たちはさあ」
「……ふざけんなよ。二人でアイドル・ユニット組んで、どうせなら君なんかよりも人気者になってやるよ」
何故だか、急に気分が悪くなってきた。こうやって聞きかじった知見や、受け取りの言葉を並べて政治談議をしていること自体が、何だか居心地が悪くなってきた。
呼吸が乱れる。背中を丸めながら、視線を机上に落とす。
辛うじてその椅子に座り続けた。
「梵はね、自分に都合のいい多元宇宙を選択するんだよ」
その突拍子もない発言に、私は思わず手元のカップを落っことしそうになった。
「……どういうこと?」
彼女は窓の外を見ながら応える。
「この無限大にある宇宙の可能性のひとつ──自分が想像したそのひとつを、エーテルを媒介とした宇宙の根本原理が発現させる。『オーラを身体に集めて光線を放つ』──『誰かにテレパシーを送る』──『お気に入りの音楽を頭に流す』──もしくは、『テーブルの上のティッシュを動かして手に取る』ぐらい些細なことでさえ──どれも逐一、自分がこうなったらいいなって宇宙を創り出してるって訳」
あまりに素っ気なく話す彼女に面食らいながらも、私はハーブティーを飲み干した。
「エーテルってのはね、別にうちらの故郷の次元だけじゃなくって、本当はどの宇宙にも遍在してるものなの。勿論、その総量に差はあるけどね。全ての可能性は重なり合い、ひとつの点として単次元的にここにあるだけ」
無茶苦茶な話だ。しかし辻褄が合わない訳ではない。
無限に拡散する想像力の世界。
そこから収斂する、たったひとつの目の前の現実。
「あれ? もしかして、『宇宙の不浄』を排除するとか、古臭いオカルトみたいなのを信じてた感じ?」
「……いや、別に信じてはなかったけど……」
「だからその力は、いずれ君自身を飲み込んでしまう。君が自分自身を不浄であると信じた瞬間にね──梵の力は、うちら二人を滅ぼしてしまう」
どこかで聞いた言葉だった。
「そして、いずれはこの世界もね。そんだけ無茶苦茶な量のエントロピーをいちいち動かしてたら、いずれこの世の理はパンクしてしまうってこと」
頭が痛くなってきた。
身体が重い。精神がぶれて、思考が散漫になってゆく。
「まあ、不浄を正すってのもある意味じゃ正解なんだけどね。単にこっち側の解釈の違いってだけ。そんで通信社はうちらの宇宙に存在するエーテルの原理を解析し終えたから、今ではあんな無茶苦茶な模造人間が生まれたってこと。多様な仮想粒子でエキゾチック物質を再現することであの『ドーナッツの穴』をこじ開けて、更にそこから溢れ出る本物のエーテルを観測したからね。超能力キッズで溢れ返ってた、私たちの特別な宇宙はもうお役御免ってこと。あんなチンケな人形を作るためにね」
琴音ナナはしばらく机に突っ伏した後、起き上がっては何度目かの大きな欠伸と伸びをした。
「だからぶっちゃけ、もう今までに何千万回、下手したら何億回と色んな宇宙を渡り歩いてきたわけよ。うちらはさ。だから何で、君らは『元の宇宙』に拘ってんのかな? ってことよ」
目眩がした。
気付けば琴音ナナの発する言葉のひとつひとつが、自分の頭蓋骨の中で乱反射しているような感覚を覚えた。
「……それは、だって、私たちの故郷だから。当たり前でしょ? 元の場所に──家に戻りたいってのは」
「うちはね。単なる現実逃避でなくって、本当の意味で未来を視ているの。それが仮想現実の中だとしても、紛れもなく現実が内包している領域の一部分。少なくとも、こっちはそう考えてる。人の想像力の可能性は無限大。無限に宇宙を創り出せるんだから」
「……だから、私たち二人は、そのためにあの門を……先生たちと力を合わせて、この列島の人々に、本当の意味での自由をもたらすために……」
「てかさー、そもそもなんだけど。何であいつらはあの時、わざわざ大昔の『二〇一〇』年から君たちを拐ってきたのか、ルカちゃん──それって考えたことある?」
ふと、息が止まった。
私は琴音ナナの顔を見上げた。
窓際の夜の暗闇と、店内のオレンジの照明とのちょうど境目で、彼女は冷たくも温かい眼差しをこちらに向けている。
やがてその対岸を越えて、彼女の発する言葉が私の耳に届いた。
「全てはコインの表と裏だよ、ルカちゃん。チエちゃんじゃないけど、この宇宙には両面が存在するの。ルカちゃんたちの動的な革命と、私たちの静的な革命。うちらがその行動を選んだ確固たる理由──事実というものを、うちは今、君にここで教えなければならないの」
チエのように、頭の中を透視出来れば楽だったのかもしれない。
でなければその言葉を、直に聞くことになる。
その真実を、正面から受け止めなければならなくなる。
差し出された赤い薬を、飲み下さなくてはならなくなる。
「今から、うちの梵を解放するね。チエちゃんにも、ちゃんと聞こえるように話すから」
彼女の身体から、金色のオーラが放たれる。
心臓が早鐘を打ち鳴らすのを感じる。
今まで気付かない振りをしてきた。
必死に目を背けてきた、その可能性について。
──指定認可地区と非指定地区とでは、入ってくる情報の質が違う。仮想現実──眠りの中に、救いを求める──
呼吸のリズムが乱れてゆく。
背筋を悪寒が走り抜ける。
何も分からない、何も聞きたくない。
私は、私のことが分からない。
「うちらは、あの門の──これまで数年単位で開かれては、また閉じるを繰り返してきた、あの門の不調に気付いた。それは、拐ってくる子供たちの数が『年々少なくなってきていること』。そして今では、完全に『中止された』ということ──」
「いや、駄目、やめて──」
「それで、何度か実際に機会を伺って潜ってきた。向こう側を秘密裏に調査をしてきた。それで分かったことが──」
「言わないで! お願い!」
私は机を思い切り蹴り上げた。
テーブルが、私たちの間で乾いた音を立てながら木っ端微塵になる。
そして顔を上げる。
その破片が空中を舞っている中──
琴音ナナが、そっと呟いた。
「ルカちゃん。私たちの宇宙──あの時の『二〇一〇年』の次元では、数年後にとある事故で人類の八割が滅亡したの。子供たちが覚醒した、『梵の暴走』だよ。今じゃ地上には死の大地が広がっていて、残された少数も地下のシェルターで細々と生き永らえてるだけ。ここ以上の地獄だよ。ルカちゃん、私たちが帰るべき場所──『ここではないどこか』なんてのは、最初から存在しなかったんだよ」




